これまで、これから part1〜過去編〜※再掲載

※うつや自殺等、精神的に重たいテーマや回想シーンがあります。

大学生活は勉強を優先してきた。そのおかげで3年が始まるときにはインディアナ大学やスタンフォード大学から研究のオファーをもらえるようになっていた。昨年9月デポー大学からインディアナ大学に籍を移し、今までは大学になかった認知科学の授業を取り、大学院レベルのAIのクラスに挑戦し、課外活動として、人の概念形成の研究を企画し、検証の実験を行ったりしていた。だけど、研究者生活にだんだん希望が湧かなくなっていた。コロナの影響で恋人の自宅からオンラインで学業生活をしていたのだけど、毎朝毎晩、虚無感に暮れ、自由に外出できなかったことも相まって、数ヶ月経った頃には、毎日1−2時間できるだけの力を振り絞ってなんとか課題をこなしては、ベットに突っ伏して動けない状態になっていた(全く何もできない日もざらにあった)。そのくせ、もっぱら悲壮感で毎晩泣いていたのだから、ずっと隣で支えてくれていた恋人には、毎日一錠で処方されている抗うつ剤をひとつふたつみっつと口に入れて、泣きながら痛みを打ち殺そうとしていたわたしは狂気の沙汰、かなりの精神的トラウマを抱えた人に映っていたに違いない。何度も何度も支えてもらい、自分の幸せを懇願していてくれた恋人に何度も心を動かされて、最初は恋人のためだったのだけれど、ようやく自分のため、自分のニーズに正直になれるようになってきた。

思えば、適応障害とうつ病で高校を中退して、自分に肩書きがないことを痛いほど実感していたわたしは、大学に入ったら自分にブランドを付けようとすることに必死だった。高校生のときには社会で落ちこぼれたと本気で思い込み、泣いて這いつくばりながら、将来に絶望して人生を終わろうとしたこともあった。自分が何か欠けているからではないかと、世にある精神や発達の問題をひたすら調べていたときもあった。知らず知らずのうちに、自分を粉にして努力するようになっていて、大学ではそれを繰り返さないつもりだったのだけれど、積まれたトランプカードのタワーは一刻と大きくなり、自分の存在をかくまいつつ、粉にしていった。自分の制作物を見て感動も何も覚えなくなっていた。

先学期はコロナの影響で大学のカウンセリングが受けられず、自分の体力がなさすぎて、精神科にサポートを依頼するのにも精一杯だったのだけれど、毎度、お医者さんに自分の生い立ちを説明する中で、今まで精神的トラウマはあったか聞かれ、お母さんの死はかなり大きなものだったと思われた。特に幼児期の子供は抽象的な思考ができず、自分に紐付けて世界を捉えてしまうこと。「親が亡くなったのは自分のせいだ」「自分が気にかけてもらえないのは、わたしがいい子にしていないからだ」「いい子になるためにもっとがんばらないといけない」というふうに。わたしの気分が落ちるときには大体決まって、「自分は愛されない」「自分には価値がない(だから頑張らなくちゃいけない)」といった思考がほぼ自動的に心に浮かび、苦しさで動けなくなっていたことに気づいた。親に愛されていたのは理性でわかっているのに。それが人生の中で幾度と理由づけに使われた結果、それを盾に反射的に身構えてしまうようになっていた。最近になって自分のルーツを振り返る大切さに気がつき、お母さんが亡くなる前のビデオテープを見てみた。何も知らず無邪気な自分を囲う、ありふれた「家族の時間」に涙がこぼれた。記憶にはなかったけれど、お母さんの声にはどこか懐かしさと愛くるしさがあった。

そんなこんなでずっと「存在の苦」を抱えてきて、どこか世界に理想を求めることで苦しさを見て見ぬふりをしていた節があった。現状苦しくても理想があれば生きていける。だから小学生の夢は環境学者。中学校では社会学者。社会を地球を救うために自分は存在するのだと。ただそれは恐らく、そういう世界級のことをしないと自分は存在してはいけないという、どうしようもない不安の裏返しだったのかもしれない。そして、義務感でがんじがらめになり、中学に続いて高校でも不登校を経験したわたしは、そのぼうっとした絶望感の中で、存在に幕を降ろそうと思い始め、実際にナイロンのテープに手を掛けた。そのとき思い立ったのは自分の知性だった。最初は、恩師に天才的だと言われた自分の思考へのプライドや自我がわたしを救ったのだけれど、これは後に、世界に実在し、毒々しいけど豊かな思考意識があることの奇跡・憧憬への気持ちに変わった。プライドやアイデンテイティが粉々になっても、思考ができ、理想を想像できる限りわたしは存在したい。今思えば、わたしなりの「生きる」という選択をそのときしたのだと思う。そして、学校教育への違和感から高校を中退し、自分で学びの主権を取り戻すことは、世界の見方を自分で決め、自分の考え方を手綱に、生き方を自分で創り出すことだと感じた。では自分の思考で世界をどこまで認識でき、理解でき、想像できるだろうか。そのためには思考の基盤を理解しないといけない。これが後々認知科学を専攻する第一心だった。

理想を信じてアメリカに渡ったのはいいのだけど、引き続き存在への苦しさにもがき続け、それは自分だけのものだと頑なに抱え込み、自分への自己肯定感の低さから周りにそんな自分を開示できず、孤立しがちになっていた。「誰もわたしを気にかけていない」というメッセージが呪文のように心に切り刻まれ、より存在するのが苦痛になった。そんなこんなでコミュニケーションと対人関係にめいいっぱい苦労した。その後、行動療法を中心としたカウンセラーに出会ったこともあって、「誰も気にかけないなら自分が気にかける」と少しずつ意識が変わり始め、ずっと孤独な人生を送るのだろうと決め込んでいたわたしが気になる人とデートに行けるまでになった。それと同じ頃、ずっとわたしたち姉妹を育ててくれていたおばあちゃんが急性心不全になって救急搬送され、一命を取り止めた。お母さんを亡くした病気だった。理想だけではどうしようもならない現実の中でどう生きるかについて、「人生そんなもんだよ」と、自分の持病や家族のがんを経験していた彼は受け止めてくれた。そうやって、繋がりへの苦しさが少しづつ解けていった。彼はわたしにある深い共感性に付き合い当初から気付いてくれていた。ひとつ親密な関係性を人生で初めて持つという経験をしたことで少し自信がつき、これまで苦しかった思いの丈をFacebookで友達に発信した。今までずうっと、どうしようもなく重いと自分で決め込んだ荷物で息ができなかったこと。でもその荷物は自分の一部ではなかったと気付けたこと。そのポストにたくさんの友達から優しい言葉と応援をもらって、今までで一番というくらい心が満たされた。自分の経験と慈愛で人と繋がれること、繋がって生きていけることを実感した。彼とは、彼が大学を卒業する前日の夜におしゃれな音楽の余韻の中、お付き合いすることになった。

卒業して遠距離恋愛になり、それでもかなり頼りにしていた恋人が、一昨年くらいから急に体調を崩し始め、ふたりの短期休暇を利用してどこかお出かけして後日には、高熱で意識が遠のき、緊急入院したという連絡が度々入った。先天性の機能不全で、生まれたときに移植した肝臓が少しずつ機能しなくなっていた。おばあちゃんの病気でけっこう滅入っていたときに、立て続けに入る連絡に、日常が目の前から崩れていくのではないかという恐怖に足がすくんで、授業中でもぼろぼろ泣いた。彼の気を紛らわすという名目で、頻繁に連絡をとった。彼が好んで就いていなかった会社の辞退に最終的に踏み切ったことについても何度も応援した。でも彼の声を聞くことで救われていたのはきっとわたしのほうだったはずだ。

大学に入る前に一年ごとの目標を立てていたのだけれど、結局わたしにとって重要だったのは、大学生活2年間で、存在への苦しみ、繋がれないことへの苦しみを少しずつ解消してきたことだと思う。そして、大学3年目でコロナが到来した。準備に戸惑ったアメリカの大学は昨年3月ごろ、寮に住む生徒を一斉に帰宅させることになった。わたしも日本に帰国し、オンライン授業を受けることになった。恋人の容体も安定し、なんとか不遇の学期を終えた矢先に、彼から肝臓がんが見つかったかもしれないと連絡が来た。いよいよ不安と恐怖で頭がおかしくなりそうだったので、何かにすがる思いでシェアハウスに一時期引っ越し、とても人間味あふれる住民の人たちにたくさん支えてもらった。倦厭していた、毎日続く日常こそが本当は理想だったということ、生きていくわたしたちにとって日常はいつもそこにあるということを何度も噛み締めた。それは、初期の肝臓がんを発症し、癌治療を続けながら移植手術を今年夏に迎えている恋人にとっても同じだった。

そして、冒頭、オンラインであることを逆手にとって、大学の授業を取り、研究を続けながら恋人の実家で同居生活を送らせてもらっていたのだけど、わたしの精神状態が悪化しまくり、恋人と、とっても愛情深い彼のご両親に、家族の一員同様に支えてもらった。効率を求めすぎて、学業や研究業以外の時間は無駄だというふうに、自分に叱咤激励していた思考を改め直した。余白に生まれる、人間の文化や感性をもっと大切にしようと。苦しい思いをしても、心地よい状態を一度でも何度でも体験すれば、そこに戻ってこられる。「なんで生きなきゃいけないのか」を毎晩泣きながら連発するわたしに、彼が言ったこと。

「僕は生きたいよ、だって生きているうちはたくさん体験できるから」。

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