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それは本当に”あなた”の言葉?

昔から言葉を綴るのが好きだった。

自分のうちに湧き上がる声に耳を傾け、そのハートの声をそのままに表現する、書いては読んで言葉を変え、内(ハート)と外(文字)が一致するまで続ける、そんな作業が好きだった、今もね。

学校の勉強は得意ではなかったけれど、国語が大好きで、特に詩の宿題は大好きだった。たぶん、私は言葉を文字にして表現していくことが好き。

改めてこう文字として出してみると、本当に好きなんだ、と自分の好みを俯瞰的に見る気持ちと、自分では気付いてないけれど、もしかしたら得意なことなのかもしれない、とも思う。

生前父親に「お前は文章が上手だから物書きになったらいい。」と言われたことがある。親バカの延長線上だろうと思いつつ、満更でもない気分になったこともある。

そんな私がここ数年言葉を出すことにためらいが生まれるようになった時期があった。

言葉が湧き上がっても「これを言ったら誰かを傷つけてしまうかもしれない。」という思いにかき消されてしまう。

例えば長女とのアンスクーリング体験を言葉にしよう、と湧き上がっても、学校に行かせたくなくてもそうできない状況の人を傷つけてしまうかもしれない、という思いに言葉を飲み込んでしまう。

自分の好きや心地よいを表現する事で、その反対側にあるものを否定してるように捉えられてしまうかもしれない。

言葉を飲み込んで生きることは誰かを傷つける確率は低くなりそうだけど、表現できないモヤモヤはいつも付き纏っていた。

そんな中、1年半前ごろ、星詠みのLicaちゃんのWSに参加するご縁を頂いた。彼女は気持ちいいほどはっきりと星の巡りと共に今起きてることや、これから起きることを伝えてくれる。真実だ、とハートが震えて心地よい涙が流れた。一方で、なんでこんなにハッキリと言葉にできるんだろう?という問いが浮かんだ。

私の家に滞在していた彼女に、帰りの車の中で聞いてみる、

私:「なんであんなにはっきりと自分の思ってること言えるの?私自分の思ってること言葉に出しにくいのよ、それが誰かを傷つけてしまうかもしれないし、私の世界とあなたの世界は違うと思ったら、自分がそうだと思うことが相手にとっては違うかもしれないでしょ、そう思うと自分の考えを言えなくなっちゃう。」

Licaちゃん:「それ本当にるーちゃんの言葉なのかな?私は自分の言葉だと思ってないの、私を通して降ろされてる言葉、私はそれを伝えてるだけ。」

な、なんと!

衝撃的だった。

景色が変わって見えた。

湧き上がってくる言葉たちは、私という受信機を通してこの世界に表現されたい言葉たちだったとしたら?

私(個)という幻想に縛られて、それを出さない自分の傲慢さを感じた。

なぜ私が表現をやめたのか、キッカケはなんだか分からない、と思っていたけれど、これを書いてる途中にその理由が降ってきて(思い出されて)大きな癒しが起こった。

私たちが言葉をつぐむ時、それは何かトラウマ的な体験からかもしれない、表面的な調和を重んじる空気で育ったからかもしれない、正解を求める教育で育って不正解を恐れるからかもしれない、

でもそれぞれの違いやカオスが全体的な調和を生み出しているこの自然界と同じように、私とあなたの違いがこの世界に大きな調和をもたらすとしたら?

私が自分を個と感じていたとき、違いを表現することは恐れだったけど、

私が自分を全体の一部だと感じたとき、違いはギフトになった。

こうして私はまた文章によって表現する喜びを取り戻しました。

私という、あなたという、唯一無二の受信機を通して現れる、多様でカオスで美しい世界をもっともっと見てみたい。

あなたという違いを、

この世界にありがとう。

#正解不正解はないんだよ

#ただ違いがあるだけ

#違いはギフト


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