見出し画像

わかり合えなくたっていい|#嫌いな人から学んだこと



なんか心がザワザワするお題。何でザワザワするのだろう。嫌いな人…という言葉に反応しているんだな、と思う。

私は『嫌い』という言葉が嫌いだ。100%、1mmの隙もなく好きではない…というイメージがして、自分の中にある「どんな人でもひとつくらいは良いところがある」という信条に反するからだ。なので、私は嫌いな一瞬を感じる人はいても、四六時中嫌いな人はいず、敢えて言うなら『苦手な人』。

◇ ◇ ◇

還暦越えている私の人生の中で、一番苦手だった人は…祖母だ。父方の祖母、父の母である。小学三年から中学三年まで、祖母宅で弟と同居していた。

私は父の初めての子であり、祖母にとっても初めての孫だった。生まれてきてとても喜ばれたらしい。そして五年後に弟が生まれた。でも、不幸なことに肺炎で五ヶ月しか生きられなかった。それでも私が小学校三年生の夏休みに、また弟が生まれた。夏休みの間、私は弟と共に祖母の家に預けられ、母は出産で体を壊したから(母の実家の)京都に帰っている、治るまで待ちましょう…と言われて信じていた。けれどもそれは嘘だった。父と母は離婚して、私たち姉弟きょうだいは祖母の家に里子に出されていた。(後で知ったが、私は他の親戚と養子縁組する話もあったようだ)

離婚とはものすごく仲が悪い人たちがすることだと思っていたから、父と母が喧嘩しているところなど見たことなかったので信じられなかった。でも、祖母は冷たく言い放った。

「あのお母さんに育てられたら、殺されてしまうよ」

私の初めての弟が肺炎で亡くなったことを、母の手抜き育児のせいだと責める祖母。そんなことはない!急な発熱で夜中に医者に診せたけど、もう手遅れで天に召されたのに。母も辛くて悲しくて… 心が少し壊れてしまっていた気もするけれど、残された私のこと可愛がってくれた。ドーナツやプリンを手作りしてくれたり、小学校へ上がる時にはハンカチとか刺繍で名前を入れてくれたり、ポケットのついてないスカートにはポケット作ってくれたり… 作っているところは私も見ていたから本当のことなのに「あの人が、そんなことするわけがない!」全く信じない。

母が京都出身だから、私も少し京都弁?が入っていたようで「なに?今の言い方。発音が違うわよ」とイントネーションをずいぶん直された記憶がある。自分のこと「うち」と言って「うちな…」などと話すと「私は、と言いなさい」と徹底的に直された。

で、跡継ぎの男子(弟)が誕生したから、今度こそ死なすような失敗をさせないために、祖母は父に離婚を勧めさせ、父も…心が少し壊れてしまった母から心が離れてしまったようなので。(父も情けない)

小学校五年の時に離婚を知り、それまでは母のことは話題に触れなかったのだけど、知ってからは祖母は母に対する不満を私に時々ぶつけてきた。でも、それは私からみると、誤解や勘違いばかり。なにより母との思い出(前に書いた刺繍やポケットのこととか)まで無かったことにしようとするのには、腹が立った。私が母の名誉のために反論すれば「育ててやってるのに口答えするなんて、やっぱり親が悪かったのかね」と、更に母を蔑む。だから… 祖母が母のことを思い出して悪口を言っていても、聞いてないことにしたし、生返事でごまかした。

祖母は母に対しては「息子(父)の長男を死なせた悪妻」という認識を絶対に覆さないけれど、料理は美味かったし、お洒落だったし、和文タイピストという当時では珍しいキャリア持っていたし… 母のことをくどくど言わなければ、普通の世話好きなおばあちゃんだった。

そんな祖母と六年間過ごして得られたのは… わかり合えないことはなにをやってもわかり合えない、と割り切って接した方が良いのかな…ということ。祖母から見ると、子どもだとはいえ、私の容姿は母に似ていたらしく、どうしても思い出してしまうそうだ。

「顔とかは似てもいいけれど、性格は似ないでよ」

母は美人だったから…そこは祖母も認めていたのかな。(私は途中からおデブになったけど)でもね、性格も悪くないよ!いいお母さんだったよ!どんなに言っても伝わらなかったけれど。

◇ ◇ ◇

嫌いな…というか苦手な人から学んだことは、嫌な所を指摘しても全く相手にされなかったなら… それはそれで、そういう考え方をする人なんだと認識を再確認し、割り切ってしまう… そんな私であります。

#嫌いな人から学んだこと


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?