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泉のほとり|#シロクマ文芸部

一冊の本を埋める。

ここは、いつかあなたと訪れた小さな山の中。目の前には小さな泉が湧いている。

あの日は、麓に菜の花やレンゲが咲く季節で、道の途中突然出会ったタヌキに、二人共腰を抜かした後、笑い転げ合ったっけ。頂に着いた時は、目の前の景色と同じように、明るく広がった未来が近くにあると信じていた。若かったあの頃…

作家になりたいと都会に出たが、書いても書いても誰にも評価されない。胸から溢れるものはあるのだけれど、誰にも… あなたにも伝わらなかったようだ。

「いつか、君の物語を書くよ」

あなたには一日でも早く読んでもらいたくて、まだ未完の作品だったけれど届けたが、返ってきたのは『お見合いした人と、来月結婚します』の手紙だった。10年近く離れていたら、心も離れるのだろう。

短めの紀行文が少しは売れるようになり、なんとか生活できるようになった。どこかを旅して、その土地の空気に触れた体験を言葉にすることが楽しい。でも、ほんのすきまに、あなたとの思い出を書き続けていた。そしてようやく気持ちに折り合いも付き、完結させて自分だけの本を作った。

桜も散って、緑が濃くなる季節。私は、本を持って思い出の場所を、数十年ぶりにひとりで訪れた。

泉のほとりに、本を埋めた。

清らかな水に溶けながら、本は周りの木々たちの養分となり、新たな命を生み出すだろう。そして生まれた木の葉たちは、物語を風にのせるようにささやくであろう。


#シロクマ文芸部

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