大好きな音楽が聴けなくなった春の話
1年前の春、音楽が聴けなくなった。
ずっとZIP-FMが流れている職場には取引先からひっきりなしに電話がかかってくる。人の声が飛び交い、デスクのすぐ隣ではデザイナーがミシンを踏む音がする。
転職してしばらくすると、右の耳でトトトトトとふるえるような耳鳴りがするようになった。その頻度が上がるのに、そう時間はかからなかった。通勤中にいつも聴いていたラジオも自然と聴けなくなった。
残業を終えて45分の道のりを運転しているとき、対向車のヘッドライトのまぶしさに目が眩んだ。雨の日は路面に反射する光のすべてが疲れた体を刺激して、低気圧で痛む頭をさらにくらくらさせた。
家に帰り着いても、テレビから流れる人の声も、蛍光灯の光も、何もかもにくらくらする。音も光も情報もない、わたしを横たえておける余白がぜんぜん足りない。
週末の夜は少しだけ安心できた。眠っている住宅街は静まり返っていて、明日のために早く眠る必要もない。ゆっくりとゆっくりと、舟を漕ぐように静かな夜を漂っていられる。
深夜2時のぬるくなった湯舟に体を沈める。お風呂場の電気を消して、脱衣所の明かりだけが灯っている。
「ぬるま湯が水になりゆく浴槽に持ち運べないわれを沈める」
24歳の頃に詠んだ短歌がふと頭を過ぎる。
持ち運べないから沈めるのではなく、逃げたいから沈むのだ。
あの頃のわたしは、わたしをどこへ運んでいきたかったのだろう。
わずかな明かりだけのお風呂場がわたしのための逃げ場所で、多すぎる光と音と人の声が聞こえないことにほっとする。
あふれる情報の波に溺れて、大切なものはどこへ流れていった?
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仕事を辞めてしばらくじっとしていると、ふたたび音楽が聴けるようになってきた。
耳鳴りから解放されたからというよりは、音楽を聴きたいという気持ちがまた戻ってきたからだろう。
ラジオのジングルを聴くと少しだけひりひりするけれど、上手くいかなかったことはこれが初めてでもない。
人工の光はまだ苦手だと思うこともあるけれど、疲れたときは薄暗い湯舟にしばらく浸かって目を閉じる。
情報過多な日には、豆を挽いてゆっくりとコーヒーを淹れる。無駄にも思える時間こそ、わたしにとって必要な余白だから。
そうやって少しずつわかってきた方法で、自分自身を身軽にする。わたしを次の場所に連れていくために。
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このエッセイはフリーペーパー「ちがう生き方」さんのエッセイ募集「自分を大切にする方法」に投稿したものです。
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