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自分には何にもないって凹んでしまう人へ

落ち込むことはありますか?

それはどんな時ですか?

私はよくありました。(というか今も時々あります)

どんな時にそうなるかというと、メンタルが落ちている時に他人と比較し「できない」自分に落ち込むんです。

平常時なら一歩引いて俯瞰することができるのですが、がっつりマイナス思考のド真ん中にいるとそういうふうには考えられなくなってしまう。

「できてない」だなんて、そもそも誰かに指摘されたわけでもないし普通に生活できてるだけで十分花丸だよ、と考えるようになりました。

これは過去の私に向かっての慰めであり、そして現在進行形で私と同じようなことで凹んでしまう人に向けて少しでも励みになれたのなら嬉しいです。


他人と比較してしまうのは生育環境が影響している


高校を卒業するまで同い年で同性の「いとこ」が近くに住んでいていました。

今のようにお受験で校区外の学校に通うなんてことはなかったので、必然的に同じ公立の学校へ通い、共通の友人もいたので「いとこ」という存在を常に意識していたように記憶しています。

習い事もそれほど選択肢はなく「そろばん」「ピアノ」「エレクトーン」「習字」「英語」(当時インテリと言われ少数派だったけどいた)通ってみると生徒のだいたいが近所の知り合いといったかんじ。

生活環境が同じだったせいか色んな方面から否応にもその存在を思い知らされていました。

色んな方面というのは学校の先生だったり、塾の先生だったり、親だったり大人という上の立場から発破をかける意味で声かけをしていたのかもしれません。

でもその声かけは私にとって力を奮い立たせるものにはならなかったんです。

「〇〇(いとこ)は試験に合格したんだって!」

「〇〇は陸上大会で上位に入賞したんだって!」

大人はがんばった過程を見ることなく数字だけを見る。

負ける役はいつも私。

悔しい思いをして、自分のできなさにもがき苦しんでいました。


大人が言っていることが世界のすべてじゃないんだよ


あの頃の私にそっと言ってあげたい。


自分が納得してがんばったのならそれでいいじゃん


周囲が寛容な気持ちで個々の存在を尊重してくれていたのなら、自分の気持ちを大切にできていたのならもっと生きやすかったかもしれませんね。


自分には何もないって誰が決めたのさ


そんなこんなで比較され続けて育ってきた私は、どうせやったってダメだと諦める癖がついてしまったんです。

がんばって最後までやり切った先に何もないものほど悲しいことはないので、ほどほどに手を抜き言い訳の隙間を作ることを覚えました。(あざとい)

一見器用に見られることもありますが、達成感がないので得られるものが少なくバリバリ動く人を見るとここでもやっぱり比較して凹んでしまう。

私に一体何ができるんだろう

そんなふうに考えることが多くなった時、SNSや自己啓発に関する書籍にたくさん触れるようになりました。

意識的に信頼のおける人を厳選して接するようにもなりました。

そこではたと気づきます。


私は私のままで存在してもいいんだ


今まで歩んできた道に無駄なことなんて一個もなかったと思えるようになったのです。

これは自分のコンフォートゾーン(安心、心地よさの領域)を広げることにより常にマイナスだった自信をゼロ(平常値)にすることができたからだと考察します。


何もないんじゃなくて、何かできることがきっとある

その何かで人の役に立ったり心を慰めることができるはず


そう考えたら気持ちがぐーんと前向きになりました。

これからの人生、そうやって生きていった方がきっと楽しいですよね。


自分の好きは他人の好きとは違うんだよ


苦手と思い込んでやってこなかったこと

いいなと思っているけど諦めていたこと


とりあえず一歩踏み出してやってみることって大切だと常々感じています。

トライアンドエラーを繰り返すことで「好き」を精査してもっと自分を知ることできるんじゃないでしょうか。

好きだとわかったら他人の目なんて気にせずまっすぐ進めばいい。

身のこなしが軽くなり困難もひょいと乗り越えていける経験値という名の筋力がきっと後押ししてくれるはずです。


そんなこんなで私自身、まだまだ試行錯誤していますが過去の自分を受け入れることに成功しました。あとは前に進むだけの状態でいます。

同じような気持ちでいる方、一歩ずつ歩んでいきましょうね。

きっと大丈夫だから。












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