蒼穹のファフナー THE BEYOND 第2章を含む考察(ネタバレオンパレードver.)

昨日は興奮冷めやらぬなか、多動的なnoteの書き方をしてしまいました。ちょっと落ち着こうねと思いました。反省。初日にエントリーした記事ということもありいつもより閲覧数が伸びましたが、フォローも兼ねてちょっと冷静に振り返ろうと思います。先の記事と同様ネタバレがかなり多いので、映画見たよって人が見ることをお勧めします。

ところで皆さま入場特典はいかがなものだったでしょうか。私はエンディングカットからこの2枚が当たりました。実は右側にもチンマイこそうしがいます。

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映画館で透かして見たときは「なんだ海かよ」と落胆しましたが、いますねこそうしが。
このエントリーでは第2章だけに限らずBEYOND第1章、ひいては作品全体にも触れる形で、日ごろ私が考えている妄想と象徴・連想解釈を記していこうと思います。まずはフィルムも当たったエンディングから。

エンディングテーマ「何故に..」
エンディングのスタートはこそうしが深海の幽霊もとい総士に向かって降りていく映像からスタートします。海は生物の始祖が生まれた場所であり、人間が生まれる場所(母の胎内)でもあります。映像のスタートはこそうしが生命が生まれた根源にいる総士のもとへと降りていくこと、自らを生み出した母(総士)との一体化が示唆されます。こそうしはそのままこそうしのままアイデンティファイ(自分らしさを獲得)していくというより、総士との合一によって獲得されるのだということが読めます。第2章ですでに見られたように総士の意識の萌芽が見られるようになるということです。

総士とこそうし
総士が生まれ変わったこそうしは、どうしてこれほどまでにわがままボーイなのでしょうか。スティーヴンスンに『ジーキル博士とハイド氏』という物語があります。善良なジーキル博士が夜な夜な変身薬で悪辣非道を極めるハイド氏に変身するというあの物語ですが、物語が端的に示すのは一人の人間のなかに同居する、日常の意識とは解離した影(shadow)が存在するということです。人間は自らのなかに、御しがたい影をもっています(河合隼雄『影の現象学』が詳しいです)。影には自分が意識することができない考えや、抑えがたい欲望、社会的に望ましくない行為などが含まれ、そこには宝物がいっぱいあります。影を否定できないわが物として認めて受け入れていく過程を経ることで、人間が地面にどっしりと据えられる。影は時として汚れた・認めたくない・こんなのは自分ではないと目をそむけたくなるような類のものですが、それもれっきとした自分の一部であると抱きかかえてあげることで人が豊かになっていくということ。総士の二重身であるこそうしは、総士が幼いながら抑制せざるをえなかったわがままで暴れたい甘えたい赤ん坊の性格を顕現しており、総士の影として表現されているのだと考えられます。影との対決と合一を描いた有名な作品は数多くありますが、先の小説の他にはル=グウィンのゲド戦記1『影との戦い』が有名ではないでしょうか。これらのことから何らかの形でこそうしのなかに総士がよみがえるのではないかと思いますし、第2章ではすでに萌芽が見られますね。長きに渡る総士ロスから、われわれオタクたちはいずれ立ち直れそうな希望を感じさせます。

作品が訴えるもの―異なる存在同士の合一―
影との合一を個人レベルで考えることもできますが、さらにマクロな目を持つとそこに“人間とフェストゥム”という初歩的な二項対立が見えてきます。HAEにおいて総士が、EXODUSにおいては一騎が、存在と無の地平線すなわち“在るか無い(all or nothing)の狭間”に位置しました。ファフナーでは数多くの二項対立が見られます。人間とフェストゥム、人類軍とアルヴィス、存在(ザイン)と虚無(ニヒト)、空と海、一騎の左右の腕・総士の左右の目(右の清浄・左の不浄は仏教の考え方です)。これら二項対立のことを考えていくと、異なる二つが混ざり合う曖昧な在り方が人間のあるべき一つの姿ではないかというメッセージを伝える作品であることが見出されてきます。これを端的に示すものとしてEXODUS最終話「竜宮島」にて、最終カットにおいて海に向いていたカメラが空へと向かいます。

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この空は二筋の雲が走っており、その様子は空を見上げながらにして澄みきった海を彷彿とさせます。二筋の雲は波にすら見え、空と海が混ざり合う一つの在り方が、この物語の終わりを飾りました。HAEにおいても、フェストゥムに体を与えられた“存在と無の地平線”に位置する総士が、人間の社会のなかに帰ってきます。こうした対話の経過には泥臭く醜くもありながら、どうしようもないのだけれど、人間ってこうやってわかりあっていく(あるいはわかりあえないでいる)んだよね、という人間賛歌を感じさせます。

千鶴の死
今回もっともショックだったのは、ファンと長い付き合いだった千鶴さんがいなくなってしまったことだと思います。端に別れの寂しさは感じさせますが、こちらとしては物語が進むにつれて「これは死ぬな…」と思わされました。千鶴はアルベリヒド機関において人の生命を操ったことに強い罪悪感を抱いています。千鶴は決して命を弄んだわけではなく生まれてきた新たな命に、他者を傷つけるのではなく自分を守ることを願ったと語りました。しかしながら千鶴に巣食う罪悪感は消えることはありません。罪悪感というのはマゾヒズムの一つの形です。自分は罪を犯し罰を与えられねばならない存在だと思い続けるというのは、強いアグレッション(攻撃性)が内側に向き続けているという解釈が可能です(外側に向けばサディズムになります)。遠見家で強い罪悪感を吐露する千鶴がどんな形でもって贖罪するかというと、彼女にとって最良の選択で(すなわち死でもって)贖罪せざるをえなかった。遺伝子操作で生まれた子どもたちが強く生きていることが彼女の免罪符にならなかったのでしょう。一方で、新たに家族となった史彦を庇う千鶴の姿には、深い愛情を見出すことができると思います。この時の千鶴を覆う感情はフロイト的に言えば「死の本能」(積み上げたものを壊してしまいたくなる欲望=アグレッション)と「深い愛情」でしょうか。

芹の登場
芹ちゃんが登場しましたが、皆さんはどうご覧になられたでしょうか。白髪ということも驚きますね。白髪を考えてみると、芹ちゃんはもうこの世ならざる世界に行ってしまったということでしょうか。手塚治虫の『ブラックジャック』の主人公ブラックジャック(間 黒男)は幼少時に母の死を体験したことでショックから白髪になったという風に描かれています(後付けの設定らしいですが)。母の死という苛烈な体験をすることは、強い心的ストレスを伴います。この世のものとは思えない体験をすることで、その人を唯一無二の存在へと形成させていきます(秋田巌『人はなぜ傷つくのか』に詳しく記されています)。もしも芹ちゃんがほとんど神の領域にまで高められた人格をもった者として白髪の姿が描かれているとすれば、竜宮島のコアになっていると考えるのが妥当な筋でしょうか。


書きたかったことはあらかた書けたのですが、まだ考察しきれていない里奈のことやマリスのことが積み残されました。長くなるので今回はこのあたりでおしまいです。また書ける形になれば新たに更新します。それにしても第3章楽しみだなぁ。


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