蒼穹のファフナー 第6話 翔空-ぎせい-について

唐突に、蒼穹のファフナー第6話の紹介します。ファフナー第6話といえば、ファンの間では有名な涙なくしてみることができない回です。

まず、蒼穹のファフナーを知らない人のためにこのアニメについてですが、2004年に放送されたテレビアニメで、放送終了後はスペシャル番組、劇場版、続編が制作され、現在まで続く長期作品です。キャラクターデザイン平井久司というだけで、ガンダムSEEDを連想される方が多いと思いますが、SEEDとは、というかガンダムが提示する思想とは全然違う物語です。「ファフナーってどういう物語?」という人は公式サイトを見てほしいです(乱暴)

第6話を悲しい物語だという人にはいろいろな箇所に共感的になって、結果「悲しみ」が残っている人だと思うのですが、その「いろいろなところ」に個人差があると思います。物語への寄り添い方が違うというか。したがって、ここでは自己中心的に「私はここが悲しい!」ということを全面に押し出した自己満足記事を書きます。

第6話の悲しみには、いろいろな模様があると思います。①翔子が自爆した、つまり人が1人死んだという事実に対する悲しみ。②容子(母親)に対する共感からの悲しみ。③戦いで死んでしまうことがある、島に生まれたファフナーパイロットの宿命、パイロットたちの恐怖に対する共感。④無力な大人たちへの共感。⑤戦場に出ていたのに助けられなかった一騎の無力感への共感。

①翔子が自爆した、つまり人が1人死んだという事実に対する悲しみ。
①の悲しみは、実はそれほど大きくないと考えています。なぜなら第6話までの展開で、翔子の人となりを知ることができ、視聴者が同一化できるような物語が薄いからです。翔子に肩入れしにくいのです。翔子にはあまり思い入れのないままに、翔子は自爆してしまうので、視聴者の感情が置いてけぼりになる。第6話がいまいち悲しい物語に感じられない人の一部に、ここのギャップにやられてしまっている人がいると思います。

②容子(母親)に対する共感からの悲しみ。
②の容子への共感については、ほとんど④と被ってしまうのですが、無力な親(大人)への共感と同一化ではないかと思います。ファフナーは青少年が竜宮島を守るために戦い、大人はそれを傍観するだけという構図が各所で展開されます。同じ理由で、第22話「守護-ちから-」では衛がいなくなりますが、その次回で、衛の両親がその無力さに打ちひしがれ行き場のない感情をどう扱っていいかわからず、ひたすらに涙する場面があります。もしかすると人の死よりもつらい、残された者たちの不全感なのかもしれません。

③戦いで死んでしまうことがある、島に生まれたファフナーパイロットの宿命、パイロットたちの恐怖に対する共感。⑤戦場に出ていたのに助けられなかった一騎の無力感への共感。
③と⑤は、島に生まれた子どもたちの宿命に対する同情ではないかと思います。誰にでも共通して、こうして自爆するような状況がありうるということを予見させています。

翔子を担当しておられた松来未祐さんは、若くして難病を患い亡くなられました。現実に起きたファンとの死別をもってして、この第6話ひいては、蒼穹のファフナーの物語がより多くの人の目に触れることになったと思います。一度は蒼穹のファフナーの物語をご覧になってみてください。損はさせません。

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