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幸せの数が多いこと


「幸せのハードルが低そうだよね」

と、言われたことがある。

え、なんかちょっと、ざわざわした。笑

手放しに「えへへ、そうなんですー」とは言えなかった自分がいます。

幸せのハードル、幸せを感じる基準って、一般的には低い方がいいとされてると思う。

些細なことで幸せを感じられる方が、"幸せの数"が増えるから。

でも上の発言を言われた時、
チョロくていいよねって言われてるみたいな、なんだかバカにされてるような感覚になりました。

「わたしは理想が高いからなかなか人を好きになれないけど、あなたはすぐ好きになれていいよね」みたいなチョロさ。

実際その発言をした人は、根は優しいのにいつも言葉選びが下手くそで(笑)、各方面であらゆる誤解をうけているタイプだったから、悪意や含みははないんだろうなととれたけど。

でもなんか、褒められた感じがしない!
(褒めのテンションで言われた)

"幸せの数"をたくさん感じられるはずなのに、お得な感じがしない!

なんでだろう。
(単純に、わたしが捻くれた受け取り方をしちゃったからなのかな)


でも正直、わたしは本当に幸せを感じる基準が低い。些細なことで、幸せを感じる。
本当に、チョロい。
(そう考えると心当たりがありすぎて、悔しかったのかな。笑)

朝、アラームより前に目が覚めたら、幸せ
カーテンを開けると天気が良くて、幸せ
昨日より暖かくなっていて、幸せ
淹れたコーヒーがいい匂いで、幸せ
出勤中に通る他人の家の庭の花が開いていて、幸せ
左折する車が道を譲ってくれて、幸せ
職場でおはようと声をかけたら髪を切ったのに気づいてくれて、幸せ

"幸せ"っていうと大袈裟に聞こえるかもしれないけど、嬉しい、楽しい、気分がいいが続く。

これが俗に言う well-being的、幸せなんだと思う。心地のいい状態が続く。調子がいい。

でもそれと同時に。

これらの反対のことが起きた時、わたしは別に不幸にならない。

そっちのほうが、
個人的には大切なことのような気がする。

朝、アラームが何度スヌーズになろうとも
カーテンを開けて土砂降りだろうとも
昨日より薄暗くて肌寒くても
コーヒーを切らしていても
出勤中に通る他人の家の庭が荒れ果てていても
交差点の車が我れ先にとスピードを上げてきても
職場でおはようを無視されても

だからって、不幸にはならない。

例えば、今日は友達と海に行くはずだったのに!とか。明確に予定が崩れるようなことがあれば、それは落ち込んだり、悔しかったりすると思うけど。

落ち込むことと、不幸がうまく結びつかない。

もしこれら全てが重なったら、今日は調子悪いなーって、一瞬落ち込むかもしれないけど、そのあとにはなんとか解決方法を探しちゃうかもしれない。

目覚めが悪いのはホルモンバランスかな?
今日は湯船に浸かろう、そして早く寝よう、的な。

…ここまで書いていて、見失う。

不幸ってなんだろう?

幸せについて考えるからには、その逆も定義しなきゃ、比べられないのでは。

え、ちょっと考えてみよ。

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