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デジモン映画最終作は、デジモンシリーズを殺すから美しい

 映画で最も信じてはいけない言葉、それは「ラスト」や「最後」の類だ。『ラスト・ジェダイ』『最後の聖戦』『最終章』『ファイナル・ウォーズ』…あげればキリがない。『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』は、少なくとも映画の作り手だけは本気でデジモンの物語を終わらせようとしている。だからこそ、素晴らしい。以下、思った以上に長くなってしまった原稿がはじまるが、これだけは言っておきたい。『デジモンtri』のあんまりな出来なせいで二の足を踏んでいる人は、恐れることなく映画を観に行って欲しい。

では、ここからはネタバレありということで。

東映アニメフェアという名のドラッグディーラー

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 はじめてデジモンと出会ったのも20年前のちょうど今頃だった。年は7歳。『デジモン・アドベンチャー』の前日譚が上映された「東映アニメフェア」。

『遊戯王』の映画、それも「ブルーアイズホワイトドラゴン三体連結」のカードが貰えるのを目当てで映画館に連れて行ってもらった。その時デジモンはたまごっちの亜種くらいの認識しかなく、特に期待もしていない併映作品の1本にすぎなかったが、心底やられた。

『ボレロ』をバックにデジタマが孵るオープニングだけで、「これはいままで見てきたアニメとは何かが違う」という高揚をたしかに感じ、(テレビ版とは違う)あまりにも不気味なアグモンの怖さもいまだ忘れがたい。そしてなにより、グレイモンとパロットモンの怪獣バトル。他のアニメとは違う、特撮とも違う、あまりのかっこよさに完全に撃ち抜かれた。

 デジモンの映画は心底素晴らしかったが、同時上映の遊戯王も期待通り面白かった。もう一つの併映Dr.スランプの記憶はあまりない…。その日買ってもらった映画のパンフレットを何度も隅々まで読み返し、いろんな絵を模写したりなんかもした。翌年の『ぼくらのウォーゲーム』が上映される「東映アニメフェア」に当然行き、併映の『ワンピース』を大いに気に入った。いまでも遊戯王、ワンピース、そしてデジモンは自分にとって特別な作品で、現行のものまで追い続けている。

 …追い続けている。それが問題なのだ。それらのコンテンツは20年前から絶えず続きっぱなしだ。当然いまでも面白くて、好きだから追い続けている訳だけど、同時に常に不健康で不健全だと思ってしまう。『遊戯王』は闇遊戯が真の名・アテムを取り戻したところで終わっているのでは? はたして『ワンピース』は20年以上も連載を続ける必要があったのだろうか。『スター・ウォーズ』だって、シークエルなんて誰も望んでなかったのではと。

「あの時の楽しい思い出」の再演を望むファンと、キャラクター商売で搾り取れるだけ金を稼ぎたい作り手による共存関係以上の価値が、いまのそれらの作品にあるようにはどうしても思えない。しかし、ヘロイン中毒者のように、新しいXXが発表されれば、我慢できず飛びついてしまう。だとすれば、「東映アニメフェア」は立派なジャンキーに育てるための、最初のワンショットを味見させるドラッグディーラーだったのかもしれない。

思い出を搾取するシリーズばかりの時代

『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』(以下、ラスエボ)は、そんな「思い出搾取」についての映画だ。

 映画は細田守版『デジモン・アドベンチャー』(以下、デジモン1)同様に、ラヴェルの「ボレロ」をBGMに街の電子機器が故障を起こすカットからスタートする。そして登場するのが、『デジモン1』に登場したパロットモンなのだ。中野駅前に現れたパロットモンから、市民を守る為大学生となった太一とアグモンが迎撃する。グレイモンに進化するアグモン。恐竜と巨大な鳥獣の戦いによって大破する、駅前ロータリー、中央線の線路、そして中野サンプラザ…。もう一度みたいと願ってやまなかった、細田版『デジモン1』にも負けるとも劣らない大怪獣バトルを、想像を絶するクオリティで見せてくれた。

 そう。『ラスエボ』は、「もう一度見たかったあの名場面」が連続する映画だ。本作の敵エオスモンの登場からデジタル空間での戦闘は、いうまでもなく『ぼくらのウォーゲーム』の再現だ。作画の主線の色が変わるあのアイコニックな細田空間はもちろんのこと、光子郎のディスプレイにはディアボロモンと戦ったときと同じウィンドウズ98時代の表示が一部転用されていたりする。

 これは憶測にすぎないが、エオスモンによる奇襲を仕組んだ黒幕である新キャラ・メノアは『ぼくらのウォーゲーム』で光子郎が「ロサンジェルスに住む小学生が、ディアボロモンの構造を解析してくれました」と述べていた、その小学生だということを匂わせているようにも思う。

 ビジュアルからディテールまで過去作を徹底して研究したであろう本作は、デジモンが好きで好きで仕方がなかった甘美な少年時代の思い出を、多くのファンに蘇らせるのに申し分ない。「お前はこういうの好きなんだろ?」と、懐古趣味を押し売りしてくる続編や、リブート作品は多いが成功することは、非常に稀だ。『デジモンtri』だって失敗だったし、ハリウッドに目を向けても『ターミネーター』、『インディペンデンス・デイ』、『ロボコップ』、『トゥームレイダー』……。死体の山以外の表現が見つからないほど、日増しに駄作たちがうず高く積み重ねられている。

 だが『ラスエボ』の巧妙な「思い出搾取」は、実は本作の真のテーマに至るための、伏線だったことが明らかになる。逃走したエオスモンの隠れ家にたどり着く太一たち。そこには、冒険のはじまりファイル島の湖と酷似した風景が広がっていた。ほとりに都電荒川線がなぜか佇む、シードラモンと戦ったあの湖が。この空間は、かつてパートナーデジモンを失ったメノアが作り上げた、永遠に「選ばれし子供達」時代の思い出に浸ることのできる、仮想空間だったことが明らかになるのだった。

 その空間でヒカリやタケル、その他大勢の選ばれし子供達が、初代デジモンや02に登場した様々なロケーションがコラージュされた空間で、思い出に耽溺しているのだった。『ラスエボ』を見ながら『ぼくらのウォーゲーム』など数々の過去作の再現に胸を打たれている、私たち観客の姿をグロテスクに描き出しているのだ。さながらエヴァ『Air/まごころを、君に』で、「アニメなんかに熱中せず、さっさと現実に帰れ」と、オタクで埋め尽くされた映画館の劇場を映し出した庵野秀明のように。

『LAST EVOLUTION』というタイトルが示すのは、太一&ヤマトとアグモン&ガブモンのパートナーシップが、進化することによって永遠に解消されないといけないことを意味する。デジモンの一種の寿命のようなものだ。太一とアグモンに残された進化は残り1、2回。永遠の別れをお互いに覚悟しながら、彼らはエオスモンに立ち向かい、最後の進化を使い「ネバーランド」を破壊するのだった。そしてアグモンとガブモンはあたかも供養された霊が消えるかのように消滅し、デジヴァイスは石化する。

Stayしがちなイメージだらけの

 これ以上ないほど、徹底的に物語を終わらせてくれたと思う。もちろん『02』のエンディングで、彼らが再び出会う姿が映し出されているので続けようと思えば続けられる。重箱の隅を突くようなファン目線で見れば、一部設定は『02』と矛盾を来しているのではと指摘するのは簡単だ。でも、そんなのどうでもいいんだよ。この映画は全力で、物語を終わらせ、キャラを成仏させるために殺し、それによってファンの業とも言える呪縛を解こうとしている。そこにこそ、稀有な美しさがある。

 キャラクター商売は永遠にファンでいてもらい、死ぬまでお布施してもらうことこそが至上命題だ。スターウォーズを買収したディズニーは「100年続ける」とすら言っているが、その目標はことさら大げさではないだろう。しかし、ファンは100年間も本当に見続ける必要があるのだろうか。というか、見続ける価値があるものは、どれほどあるだろう。劣化コピーばかりじゃないか。

『ラスエボ』のストーリやセリフは、初代主題歌の「Butter-Fly」がなぞられているのは、ファンなら当然気がつくだろう。大人になり、かつてのような将来への夢を失った太一とヤマトを描くことで「無限大な夢の後の 何もない世の中じゃ」からの一節など、なぞられている点が多い。

 しかし、私は「Stayしがちなイメージだらけの」というフレーズこそ注目したい。アグモンの進化系、そしてロイヤルナイツ頼りのデジモンシリーズ。いつまでも宇宙世紀を引っ張るガンダム。終わりなく続くリメイク/続編。まさに「Stayしがちなイメージだらけ」だ。

『ラスエボ』は、そんな「やるせなく なにもない 世の中」からデジモンを解放する作品だったと私は思う。

 なのに! それなのに! 4月から初代『デジモンアドベンチャー』をテレビシリーズで復活だって!? あのアグモンとガブモンの死はなんだったのだろうか……。でも、まあデビモンに殺されたエンジェモンのように、死んですぐさまデジタマとして転生するのがデジモンの生態なので、あまりにも忠実に製作陣もその摂理に則っていると言えなくもないが。

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