夢の先に─鹿倉静

また、あの夢で起こされる。

静寂に包まれる武道場。呼吸を整えて竹刀を握り直す自分。2対2でもつれ込んだ大将戦。
これに勝てば全国大会出場だ。
中学最後にやっと辿り着いた大舞台。命運は自分の手に握られていることに胸を躍らせていた。勝利の確信は最後まで揺るがなかった。

嗚呼、間もなく訪れる。

もたらしたのは驕りか、過信か。ほんの少し踏み込みが遅れたのを相手は見逃さなかった。虚を突かれ、絶対の自信で固められた地盤が揺らいでしまえば最後。「鉄の剣士」の異名など脆くも崩れ去り、そのまま全国への切符はあえなく失われることとなった。

勝利への信念だけを持ち、ただひたすら先頭を走っていた哀れな大将に降り注ぐ励ましの言葉は形だけで、私の周りにはもう誰もいなくなったと思い知る。ふわりと風が凪いだ……気がした。


忘れるなと言わんばかりに何度も夢を見る。覚醒してしまった頭で時計を確認すると午前2時半。朝はまだ遠い。
寝汗でべたついた身体を手近なタオルで軽く拭き、ぼうっと夢の続きの記憶を辿る。


……その後は失意のまま引退し、抜け殻のようにただ時を過ごした。何度かあのお団子頭の下級生が、常に余裕をたたえていた笑顔を無くし、心配そうに訪ねてきたのも覚えている。しかし当時の私はとても取り合う気にはなれず、碌に言葉さえ交わさなかった。
あいつと初めて会ったのは中学2年の春。体験入部の期間にふらっと剣道場を訪れて、なかなかの筋の良さを見せてくれた。熱心に勧誘したものだが、のらりくらりと躱され、たまに部室や教室に遊びに来る間柄に落ち着いていた。

……本当に身勝手なことをした。彼女は私のことをどう思っているのだろうか。今、同じ部活で昔以上に親しく活動できていることが奇跡のようだ。
思えば、歌に全く縁の無かった自分が合唱部に入ったのも偶然の巡り合わせだった。

せっかくだ。どうせ眠れないのなら、もうしばらく過去に浸ることにしようか。

そう、きっかけはあの小さな気まぐれだった。

高等部に入学して間もない春の放課後。その日は帰るのもなんだか億劫で、校舎内を目的もなくふらついていた。
一年生の教室が並ぶ廊下を抜けて、購買、ランチホール、そして中庭に差し掛かろうとした時。
歌が聴こえた。
優しい曲調の二重唱。拙さのある歌だったが、どこか心惹かれて自然と足がそちらへ向かった。
中庭の端、楽譜を手に笑い合う歌の紡ぎ手は、ロングヘアに丸眼鏡の生徒と、ハーフアップを黒いリボンで飾った生徒。
織原真緒に、佐伯薫。
幼稚舎から一緒の顔ぶれだ、特に関わりはなくとも名前と人柄くらいは知っている。

彼女らは歌を嗜むのか、とか、うちの学校に合唱部なんてあったのか、など思案している間にも音楽は流れ、どんどん2人の世界に引き込まれていく。最後の一音を歌い終わると一瞬の静寂。ふうと息が吐かれて緊張の糸が解かれる。

そこに、ぱち、ぱち、と拍手の音。音の出所は……私だ。自然と手が動いていた。初めてだった。音楽を聴いて心を揺さぶられるなんて。
一方彼女らは予期せぬ観客に目を丸くしている。当然だ、きっとまだ完成には遠い歌を聴かれてしまったのだから。立ち聴きなんて失礼千万だろう。
「あ、いや、すまない。散歩をしていたのだが、つい足が止まってしまって…」
しどろもどろに言い訳を並べていると、2人の顔がみるみる輝いていく。
「真緒さん、快挙です!わたくしたちの歌に拍手をいただけましたよ!」
佐伯が嬉しそうに手を合わせて言った。
「いやー嬉しいな、静さんって音楽とか興味なさそーなイメージ勝手にもってたからさ!」
織原も満面の笑みであっけらかんと続ける。
「い、いいのか。てっきり失礼なことをしたかと……」
「失礼だなんてとんでもありません。今日はお天気もいいので外で練習させてもらっていたのですが……思わぬ収穫です♪ ね、真緒さん?」
「うんうん!まだまだな歌だけどさ、聴いてもらえてすっごく嬉しい!……そうだっ!静さんも一緒に歌わない?今年の新入部員、私達2人だけなんだよねえ」
織原がぽんと手を打ち言った。突然すぎる勧誘にさすがに面喰らう。返す言葉を選びあぐねていると、
「遠慮なさらないで。お友達が増えるのは嬉しいことですから♪」とかなんとか、いつものあの調子で、佐伯まで私の手を取った。2人の笑顔を前にしたら、首を縦に振る以外選択肢は無かった。

そして、少し強引なあの誘いから合唱部員としての生活が始まった。剣道部とは違い、朝練も昼練もない。放課後、集まったメンバーで歌を紡ぐ。ゆるやかで穏やかな活動は不思議と心地よく、灰色だった私を少しずつ色付けていった。

数々のイベントをこなしているうちにあっという間に季節は一巡し、4月の終わり、桜がほとんど散ってしまった頃。
第2音楽室の扉が叩かれる。近くにいたので戸を開ければ、客人はお団子頭の下級生。いつもの余裕たっぷりの笑みがとても懐かしく思えた。
あの時剣道部への誘いを断り続けた彼女は、合唱部へ入部希望の旨を口にした。


絶対の自信に塗り固められた傲慢な自身が一変した過去。
忘れるなと言わんばかりに何度も夢を見る。

いいさ。全て背負って生きていく。今の私であるために必要な道程。
昔と違うのは、この重さを分け合える友がいること。それで充分だ。

意識が沈み始める。朝までまだ時間がある、もう少し眠ろう。


夢の先は、きっと明るい。

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