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五つの”恋駅” 中編



三つ目の”恋駅”

日本で3番目に開業した「恋」がつく駅は

恋路(こいじ、石川県珠洲郡内浦町※、能登線)
※現・石川県鳳珠郡能登町
1964年9月21日開業
日本国有鉄道→西日本旅客鉄道(JR西日本)→のと鉄道
2005年4月1日廃止

国鉄が能登半島東岸に敷設した能登線の松波(内浦町)-蛸島(珠洲市)間が開通した際に設置された。1988年3月25日JR西日本から第三セクター「のと鉄道」に移管されたが、2005年に廃止された。

海水浴客用臨時乗降場

国鉄において恋路は正式な駅ではなく”仮停車場”のち”臨時乗降場”の扱いであった。両隣の松波から1.7km、鵜島(うしま、珠洲市)から0.8kmと比較的近い位置にあり、駅を設置するまでもないという判断だったのだろう。

一方、恋路海岸はこの地域で著名な海水浴場であり、シーズン中は相当混雑していたという。道路の状態が芳しくなく、自動車の性能も低かった時代、地元では海水浴客の利便を図るために駅の設置が求められていた。

日本国有鉄道公示では恋路仮停車場について
「開閉期日及び取扱区間は、鉄道管理局長が定める」
と記されている。要するに海水浴シーズンだけ停車させますよ、という意味である。

書類上は松波-蛸島間開業の1964年9月21日に旅客取扱開始となっている。すなわち「3つ目の恋駅」はこの日に誕生したのだが、その年の海水浴シーズンが終わってすぐであり、開業から1年近く列車は全く停車していなかったとみられる。仮停車場は北海道などの仮乗降場と同じく鉄道管理局の権限なので、全国版の時刻表には掲載されていなかった。
従って、恋路仮停車場に初めて列車が停車した日は定かではない。1965年7月中であることは間違いないだろう。

1969年10月1日、恋路は国鉄本社公認の臨時乗降場に昇格して、営業キロ程(穴水起点48.3km)も設定された。能登線には同じ目的で「立戸の浜」(たっとのはま、鳳至郡穴水町)という仮乗降場が既に設置されていたが、そちらはJRになるまで書類上は仮乗降場のままで、営業キロも定められていなかった。

次の海水浴シーズンにあたる「交通公社の時刻表 1970年8月号」には能登線の項目に(臨)マークつきで立戸の浜と恋路が掲載されている。同年の海水浴場開設時期にあわせて7月上旬から8月20日まで、普通列車のうち夜間を除く上り下り4本ずつが停車していた。

手元にある「交通公社の時刻表」をざっと見ていくと、1970年代~1980年代はおおむね同様に7月・8月営業をしていたと確認できる。1986年6月号には7月1日から8月31日まで普通列車上り下り4本ずつに加えて、急行「能登路」のうち2往復も停車と記載されている。

1970年代半ばの縁起きっぷブームの際には愛国・幸福(いずれも帯広市)に次いでロマンある駅名として着目され、夏のみの臨時駅でありながら知名度が上昇した。それを受けて金沢鉄道管理局では「松波から恋路ゆき」の硬券乗車券を作り、松波駅で通年販売を始め、ヒット商品となった。

のと鉄道転換から廃駅へ

能登線の経営状況は芳しくなく、1985年には国鉄再建法に基づく第3次特定地方交通線選定候補にあげられ、廃線対象にされる公算が強まった。石川県は先手を打つ形で第三セクターによる路線存続を表明して、1987年に「のと鉄道株式会社」を設立させた。能登線は同年のJR西日本継承を経て、1988年3月25日、のと鉄道に移管された。

のと鉄道は恋路を通年営業の正規駅に昇格させた。さらに恋路駅・恋路海岸を能登線沿線を代表する観光スポットと位置づけて、駅訪問者用のパノラマ気動車を製造、急行「のと恋路号」(七尾-珠洲)として運転を始めた。

のと鉄道の滑り出しは上々だったが、やがて経営不振に陥り、2004年に能登線の廃止方針が決議された。沿線で根強い廃線反対運動が起きたものの結局は会社に押し切られる形で2005年3月31日限りで廃止され、恋路駅も消滅した。

恋路駅訪問

※本項目の写真は1990年11月撮影

私はのと鉄道時代の1990年11月、恋路駅に降り立った。冷たい雨が降りしきる日であった。片面ホームには「歓迎 恋路駅」の大きな紅白看板が取り付けられている。

臨時乗降場の頃から設置されていた

ホームのほぼ中央に小さな待合所があるのみ。長大編成列車の停車も想定していたのか、元臨時乗降場にしては過分なほどの長いホームが印象的だった。

恋路駅ホーム

ホームは田畑ごしに日本海を遠望する丘の斜面にある。冬のはじめの風雨が容赦なく恋路海岸に打ち付けていた。歩くとたちまちずぶぬれになりそうなほどの強い雨の中、私はホームから離れる気が起こらず、次の列車をじっと待っていた。

雨の恋路海岸を望む

東京から見ると、能登は実際の距離以上に遠く感じる。1982年時点で金沢から松波まで急行でも3時間近くかかる。そもそも金沢に出向くまでが大儀で、上野から直通の特急「白山」で6時間半。三段ベッドの古い寝台を使った夜行列車も複数ある。名古屋で新幹線から特急「しらさぎ」に乗り継いでも5時間を超える。

私は10代の頃に家族旅行で2度金沢や能登を訪れた。できうる限りに洋風を避けているかのような土地と感じた。門前、狼煙(のろし)、喜兵衛どん、輪島塗の蒔絵(まきえ)や沈金(ちんきん)…そういった言葉のひとつひとつに、当時の若者の流行とは対極的な匂いを感じ取った。観光名所には地元の歌手が歌うとおぼしき演歌が大音量で流れていた。

帰りは天井に扇風機が回る気動車急行の排気にぐったりと疲れて眠り込んだ。米原駅で新幹線に乗り換える際に、下り西明石・姫路・網干、上り鷲津・浜松・静岡などの行き先を記した東海道線時刻表を見かけて、「今度はひとりで好きなところに行けるようにしたい。」と決意したことがこの道を極める契機となった。私の旅遍歴は能登へのアンチテーゼから始まったと言っても過言ではない。後年自力で恋路駅に降りた時の強い風雨や暗い雲が垂れ込める空は、季節柄とはいえ、斯様な態度への報いだったようにも思える。

2023年再訪

※本項目の写真は2023年8月撮影

長い間能登のことはすっかり意識から外れていたが、検索してみたら恋路駅跡は能登線の廃線後もきれいに整備されていると知り、出向いてみた。この生涯で再び能登へ向かうモチベーションが湧く時が来るとは思ってもいなかった。

夜行列車はもうないので、高速バスで金沢に向かった。七尾で”花嫁のれん”や、1581年に七尾城主となった前田利家とその正室芳春院(まつ)の像を見学して、のと鉄道の生き残りに乗り終点穴水で下車した。駅舎には「のと恋路号」のヘッドマークが保管されていた。

「のと恋路号」ヘッドマーク

穴水駅脇のバス停から北鉄奥能登バスに乗車する。この路線は恋路の手前、能登町役場前が終点である。以前は珠洲まで直通していたらしいが、道路事情などで遅延することが多く、系統を分割したという。

バスは小さな集落を縫い付けるように北へ進む。ある停留所待合室に人影があり、停車した。高齢の方々が5名ほどベンチに座っていて、「乗りません」と合図した。バスはそのまま発車した。地元に暮らしている昔からのグループの交流の場として活用されているのだろう。

40分ほど乗っていると道路が海に近づき、右手の車窓を飾る。左手には能登線の路盤が見え隠れする。橋梁などは撤去されているが、波並駅などそのまま残されているところもある。私が知る限りで最強の気象情報アプリ「windy.com」を見て日程を決めたが、その予想よりも低く暗い雲が立ち込めてきた。

穴水からおよそ1時間で能登町役場前に到着する。宇出津駅跡に建てられた新しい交流施設で、お手洗い休憩ができたのは幸いであった。

珠洲市「すずなり館」行きのバスに乗り換えてさらに30分、恋路浜に到着。既に午後に入っている。能登は今でも遠い。海岸の集落には旅館やカフェの看板が連なる。旅館は今でも営業しているが、昔風のカフェは既に廃業した模様。ここでも時の扉は閉じられていた。能登線あってこその観光地だったと感じられる。

恋路駅跡は集落を抜けた先の田畑の奥にあった。

恋路駅跡

駅ホームへは写真左手の森に作られた石段を昇って行く。すこしだけ涼しい風が吹いてきて、酷暑続きで抑うつ状態にあった心がわずかになごんだ。

「歓迎 恋路駅」の大きな看板は健在で、その横に待合所が増設されている。ステンレス製?の建屋で、姿見の代わりにもなる。

紅白のモチーフはそのままに新しく塗り替えられていた

ホームを成すコンクリートの端には「1964-8」の刻印がある。松波-蛸島間延長工事において建設された証拠となる。単なる仮停車場ではなく、将来の正規駅昇格を見越した設計である。

ホームを支える杭はどこかで使われていたレールの転用か

駅名標は国鉄形式での復刻がとりわけ嬉しい。のと鉄道のデザインは正直チープな感じだった。営業当時とは異なる場所に設置されている。

恋路駅名標・準復刻版

よく見ると国鉄当時そのままではない。現在の町名「石川県鳳珠郡能登町」と記されているし、左側の隣駅が「そうげん」となっている。

「そうげん」は宗玄と書く。この地域で250年の歴史を持つ蔵元「宗玄酒造」である。のと鉄道廃止後、宗玄酒造は恋路駅一帯とその北側のトンネル(宗玄隧道)の土地を買い取り、トンネルを酒蔵として活用している。

さらに宗玄酒造では2013年から足漕ぎ式のトロッコ車両を導入して、恋路駅と宗玄隧道間の約400mで観光客に運転させている。愛称は「のトロ」。ファンクラブ案内によれば、のトロは能登の山に住む不思議な生物ということだが、私は「のとろ」(能取)と聞くとオホーツクの、青水晶のような色の海を思い出す。

のトロファンクラブに入ると、恋路駅構内の枕木にオーナーとして名前を刻印したプレートをつけてもらえる。100名近く登録されている模様。石川県内の人が多いが、横浜・名古屋・広島など遠隔地の人も数名いた。東京都内が意外と少ない。その中で、思わず吹き出してしまう1枚があった。

くもじいじゃ!

「日本上空 くもじい」。
テレビ東京系「空から日本を見てみよう」のスタッフが取材に来たに違いない。調べてみたら2015年8月4日に系列のBSジャパンで放送されたとのこと。あいにく見ていない。DVDラインアップにも含まれていない。見られる機会はなさそうである。

「のトロ」はコロナの影響で休止中。恋路駅跡地は現役営業鉄道路線ではないので、立ち入り見学は特に制限されていない。

33年ぶりに恋路海岸を望む

恋路海岸はきれいに整備されている。定番の「愛の鐘」も設置されているが、私にはハートというよりも林檎のように見えた。

恋路海岸愛の鐘。愛はやはり林檎なのだろうか

恋路海岸の物語を詳しく説明する案内板も設置されている。

恋路海岸由緒

読んでみたら、あれどこかで聞いたような…。
恋ヶ窪の畠山重忠と夙妻太夫のエピソードとよく似ている。同じような言い伝えはおそらく全国各地にあるのだろう。

見附島が蕪のように見えた

能登は、生まれ故郷とか親類縁者が暮らしているとかの条件がなければ、ある程度年齢を重ねてからでないと良さがわかりづらい土地と改めて思う。

帰りはタクシーで能登空港に向かった。全日空便が1日2往復あり、65分のフライトで羽田に着く。定刻17時00分発、折り返し前便の出発が遅れているとかで1時間近く待たされたが、それでも金沢を経由する陸路よりも圧倒的に速い。文字通りの”飛び道具”である。

離陸するとまず能登半島の先端沖に出て、引き返すように旋回して富山湾上空に至る。白馬岳など北アルプスの稜線があかね空に浮かぶ。本州上空に入ったと思うや5分としないうちに富士山のシルエットが遠くに見えてきた。飛行機は富士山のやや左を目指して進む。下界は少しずつ灯りが増えていき、程なく首都圏のまばゆい光に吸い込まれた。

四つ目の”恋駅”

日本の鉄道で4つ目に登場した「恋」がつく駅は

恋山形(こいやまがた、鳥取県八頭郡智頭町、智頭急行智頭線)
1994年12月3日開業
智頭急行

「何から何までハデハデピンクに塗られた、ハートであふれかえる山間の駅」として近年つとに有名な駅である。路線開通時からこの駅名で営業している。

智頭線に恋をして

当地には「コイ」と読む地名も、悲恋伝説も存在しない。それでも”恋山形”である。

この駅は開業前の計画段階において「因幡山形」という仮称がつけられていた。智頭町の山形地区に設置される駅だが、山形駅は山形県山形市に県庁所在地駅として昔から存在するので旧国名の「因幡」を冠して重複を防ぐという、国鉄流の名称である。すなわちこの線はもともと国鉄智頭線として開業する予定であった。

智頭急行がいよいよ開通する段階になって、「多くの人に山形地区へ来てほしいから『来い!山形』にかけて『恋山形』にしたい」との地元要望があり、会社はそれに応えて正式名称に採用したという。すなわちノリとダジャレから生まれた駅名である。

「それを許しちゃおしまいよ、もう何でもありでしょ!」というツッコミは野暮に過ぎるだろう。山形地区のみならず、沿線各市町村や鳥取市の智頭線にかける思いは並々ならぬものがあった。まさしく「智頭線に恋をして」いたのだろう。

1990年代に入ると「フォーマルな言葉」と「カジュアルな言葉」の境目が次第に溶けていくような世の流れが起きていた。「いかめしい」よりも「かわいい」が好まれるようになった。そんな空気感を象徴するような命名である。

因幡鳥取から播州姫路に至る道は江戸時代から整備されていて「因幡街道」と称されていた。全国規模で鉄道建設が盛んな時代になると、この街道沿いでも鉄道建設を希望する声があがりはじめた。最初の建設要望運動は1902年に行われたという。

しかし当時は日本海岸に沿って走る山陰本線の建設が優先され、山陽側との連絡は和田山(兵庫県朝来市和田山町)から分岐させる、現在の播但線で行う方針となった。

その後数十年経過して旅客・貨物とも輸送量が増加すると、距離が長い上に線形が貧弱で、余部鉄橋をはじめ運転に特段の注意を要する区間が多く、地形上の制約から設備増強もままならない山陰本線は不利になった。同じような制約を持っていた北陸本線は1960年代に新疋田(福井県敦賀市)のループ線、北陸トンネル(敦賀市-南条郡今庄町)、親不知トンネル(新潟県西頚城郡青海町)、頚城トンネル(西頚城郡能生町)など長大トンネルの建設、全線電化など次々と設備が改良されたことを思うと、国としての山陰地方の位置づけが透けて見えてくる。

国鉄は山陰輸送対策として、倉敷から伯耆大山に至る伯備線を用いて岡山で新幹線と連絡させるルートをメインと位置づけた。これにより山陰の中心は鳥取県西端の米子市(伯耆国)から島根県の松江市・出雲市(出雲国)一帯となり、鳥取県東部地域(因幡国)は取り残され感が漂ってきた。智頭線はこの状況を打破すべく、優等列車も走らせて大阪・神戸から鳥取への交通の利便性を向上させるという使命からも期待された。

1966年、日本鉄道建設公団により着工。当初は1973年開通を目指していたというが諸事情により遅れる。そのうちに国鉄の財政が悪化して、1980年に「国鉄再建法」が成立するところまで追い込まれた。この情勢を受けて新規路線の建設工事は原則中止となり、智頭線も対象とされた。沿線にとっては”失恋の危機”である。

カニがお好きだったこともあり、山陰方面への旅を好んだ故・宮脇俊三さんは”判官びいき”もあって鳥取市のことを気にかけていた。1981年から翌年にかけて雑誌の取材で全国の工事中断路線の現状を見て歩く企画を立てた際、最初に智頭線を選んだ。このルポは1986年に出版された単行本「線路のない時刻表」(新潮社)の冒頭の章に掲載されている。因幡山形駅は当時宮脇さんが作った「予想時刻表」に登場するが、本文では兵庫県や岡山県の沿線現状紹介で紙数が尽きたのか言及されていない。

その後第三セクターによる運営が決まり、1986年に「智頭鉄道株式会社」が設立され、失恋は免れた。1987年に工事再開、1992年には高速列車運転対応工事も始められた。この段階では電化路線として完成させて電車を走らせる案もあったが、JR側の受け入れ態勢が整っていないため見送られたという。従って、恋山形駅を通る車両は「電車」ではない。

1994年6月社名を「智頭急行株式会社」に変更。同年12月、着工から28年で開通。「恋山形」という名前には智頭線への長年の恋をようやく実らせた、地元の人々の偽らざる実感が込められているのだろう。

宮脇さんは開通をことのほか喜び、1981年の取材時に現地を案内してくれた鉄建公団の人に捧げる一文を著した。(「駅は見ている」小学館、1997年収録)その出稿直後にテレビ局からお誘いがあって乗車を果たしたらしい。時間を置かずに奥様を連れて、プライベートでも智頭急行線を使っている。

宮脇さんがそのエッセーで引用した、鉄建公団の人が書いた詩を読むと、既に鬼籍に入っているお二人は「ピンクの駅」をいかなる思いで天から眺めているだろうかと思いを馳せる。

恋山形駅は開業からしばらくは何の変哲もない山村の鉄道駅だったが、2012年の「恋駅プロジェクト」スタートを受けて、翌2013年6月にオールピンクにリニューアルして現在に至る。SNS映えするから、恋に関する願いをかけたいからと軽い気持ちで車に乗り当地を訪れる若い人たちにも、ほんの少しで構わないから「智頭線に恋をした」先人たちに心を寄せてほしいと思う。

恋山形駅訪問

※本項目の写真は2023年9月撮影

恋山形駅のピンクぶり、ハートハートした駅の姿は既にたくさんの人が紹介しているが、とにかく実際に見てみないとこの記事が書けないので、2023年9月関西方面に出向く用事ができたことを機として、恋山形駅まで出向いた。

恋山形駅は智頭町の中心でJR因美線と接続する智頭駅の隣で、普通列車しか停車しない小さな無人駅である。智頭急行では対向列車行き違いの待ち合わせを兼ねて、正午前後に恋山形駅で長時間停車する列車を設定している。私はこれに狙いを定めて出発した。

姫路にも停車する、東京6時51分発の新幹線「のぞみ」に乗車、「スーパーはくと3号」に乗り継ぐ。「スーパーはくと」は智頭急行を代表する京阪神直通特急列車。以前2度乗車した経験があるが、山陽本線に入ると気動車でありながら新快速電車にもひけを取らない最高時速130km/hで明石海峡や須磨の海岸を目指し爆走する姿が印象的だった。今回の乗車目的は狙う普通列車に追いつくことなので、山間部のみ使う。休日のためか5両編成でも結構混雑していて、通路側に辛うじて座れた。

10時48分上郡発。山陽本線から分かれ、北にカーブして山深い地に足を踏み入れる。このあたりは鎌倉時代末期に赤松円心が支配していた地域で、新田義貞が率いる軍勢を長期間手こずらせて戦力を削いだ堅牢な城を持っていた。

12分で姫新線と交差する佐用(さよ)に着く。存外多くの人が下車して、車内が少し落ち着く。町名は「さよう」と読む。どうせならば接近チャイムに「ハイケンスのセレナーデ」(小夜曲)を使ったら面白いと、くだらないことを思いついているうちにすぐ発車。里山が尽き、トンネルを抜けると岡山県に入り、11時12分大原着。ここで下車して、途中の平福で追い抜いた普通列車に乗り継ぐ。

大原駅は岡山県北東端、旧英田郡(あいだぐん)大原町(現・美作市)の中心駅である。智頭線の計画段階では「大原町」の仮称がつけられていた。国鉄では千葉県に大原駅があるがゆえであろう。それなりに人家も多いが休日のためかひっそりとしている。智頭鉄道運転の拠点で、街並みの反対側には車両基地が設けられている。

イベントに使うのか、ラッピング車両が留置されていた

ホームは斜面に設けられていて、街並みより高い位置にある。鏡張りのようなガラス壁面の立派なビルがホームと相対するように建てられていた。

大原駅にて

ホームの時刻表には「恋山形駅に15分停車」列車の案内も掲載されている。

大原駅下り時刻表

ホームには私のほか、若い人がひとり列車を待っていた。下り普通列車は11時23分到着、上り「スーパーはくと」との行き違い待ちで13分停車する。1両の車内には十人程度の乗客がいた。旅行者と見られる若い人が多く、高齢者はあまり見かけなかった。

大原を発車した普通列車は深い谷間を黙々と北へ向かう。全国どこにでもありそうな光景ではあるが、鉄道施設が古いか新しいかによってだいぶ印象が違って見える。

「線路のない時刻表」では「影石」として登場するあわくら温泉を出ると、一直線に掘られた長いトンネルに突入する。志戸坂トンネルといい、智頭急行で最長である。ここが分水嶺で、抜けると鳥取県すなわち山陰入りなのだが、停車した山郷駅には鳥取県であることを示すものは何もない。智頭急行の駅名標はJR西日本のデザインに準拠しているからだが、不便であり、どうしても好きになれない。

車内のつり革でひとつだけピンクのハート型が取り付けられていることに気がついた。帰路に乗車した車両にはなかったので、たまたま当たったのかもしれない。

走るとゆれて、止まるとゆれて

杉の木に囲まれつつさらにトンネルや高架橋をいくつか通り、11時57分恋山形に到着した。うわさ通りのピンクぶりであった。智頭急行線は新しい路線なので踏切はほとんどないが、相対式ホームの端には昔ながらの構内踏切がある。12時05分に上郡行き上り列車が到着した。この列車も恋山形で16分停車する。

真昼時、恋山形に2本の列車が並ぶ

有名なミニ絵馬堂の下には「50」と記した標識が隠れていた。上郡起点50kmを示す距離標(キロポスト)である。

ここでポール・サイモンを思い出してはいけません!

今の若い人はポール・サイモンなど知らないだろうし、キロポストも絵馬堂も縁起を理由として動かせるものではないから、多分このままでよいのだろう。

駅の脇には地元で管理している「恋ポスト」や、ハート型のテーブルを置いた休憩所がある。お手洗いは作られていない。

駅舎壁面のひときわ大きい真っ赤なハートの下には記念写真用に立つポジションを示すハート印とセルフタイマー用のカメラスタンドが用意されているが、私は駅から近くの道路へと下っていく坂道に着目した。智頭急行では2017年にこの道を「恋ロード」と名付けてアスファルトにピンクの塗装を施し、「恋」を意味する13種の文字を記している。

この他に常用漢字の「恋」があり、全部で”13の恋”

恋ロードを出ると、斜面に数軒の家屋があるのみの小さな集落であった。林業に従事している家がほとんどなのか、高架下にも材木置き場が設けられている。

地元の古刹案内と対照的なピンクの看板

道路は結構急な下り坂として智頭急行の下をくぐる。コンクリートの壁面には大きなハート型の駅案内が取り付けられている。

橋梁建設から開業まで20年、開業からピンク化まで19年

ここでは右上の「1974-10」に着目する。この橋梁は1974年10月に建設されている。すなわちそれから20年間、深い山奥にいつ列車が通るようになるとも知れぬコンクリート橋が建っていたことになる。その間メンテナンスにあたる人の心境はいかばかりだっただろう。道端にはキバナコスモスが格好のお口直しであるかのように咲いていた。

秋は未だ遠くとも、花は咲く

乗車してきた下り智頭行きは12時12分に発車するが、上り上郡行きは岡山始発の特急「スーパーいなば5号」とも行き違うためもうしばらく停車する。ホーム壁面にはハート型の1番線・2番線表示、恋山形駅の楽しみ方案内、鉄道営業に関する各種掲示が取り付けられている。ピンクというよりもスカーレットカラーに近い。

1番線表示と駅名板は白地。
ピンクにすると見た目埋もれてしまうためだろうか

気動車の音が近づいてきて「スーパーいなば」が姿を現し、しばし運転停車する。智頭に向けて発車すると上り方面の信号が変わり、12時21分に恋山形を離れた。

恋山形駅の開業により「恋駅」は4ヶ所まで増えた。しかし2005年、前述した通りのと鉄道能登線の廃止により恋路駅がなくなり、一旦3ヶ所に減少した。数年後、新たな”恋駅”が現れる。

<参考資料>
智頭急行株式会社ホームページ
「停車場変遷大事典 国鉄・JR編」(JTB、1998年)
「国鉄全線各駅停車 北陸・山陰510駅」(小学館、1983年)
宮脇俊三・著「線路のない時刻表」(新潮社、1986年)
同「駅は見ている」(小学館、1997年)
雑誌「旅」2003年8月号臨時増刊 宮脇俊三の旅(JTB)


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