『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』
「長崎の鐘」の歌(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、1949年)は、今の世にどれほど知られているだろうか。何年か前に朝の連続テレビ小説で歌われていたから、その場面を思い起こす人もいるだろう。ある程度以上の年齢の人ならば、「思い出のメロディー」等のテレビ番組に出演していた藤山一郎氏が、祈りを捧げるような目で歌い上げていた姿を思い出せるかもしれない。
この歌は、長崎市浦上に投下された原子爆弾により重傷を負った長崎医科大学助教授(被爆当時)・医学博士(放射線医学)の永井隆氏(1908-1951)が1949年に発表した著書『長崎の鐘』をモデルにして作られている。『長崎の鐘』の本は幾度か再版されているが、現在は地元のNPO法人「長崎如己(にょこ)の会」が日本語・英語併載本を出している。
永井氏は島根県松江市生まれ。旧制松江高等学校を卒業している。すなわち同校において『暮しの手帖』編集長・花森安治氏の先輩にあたる。1928年長崎医科大学に入学。卒業した頃日中戦争が始まり、軍医として2度従軍。最初の従軍から復員した1933年にカトリックの洗礼を受け、キリスト教徒となる。二度目の従軍・復員後、1940年に長崎医科大学助教授となり、放射線医学の研究に携わるが、折からの戦争による物資不足がたたり、日々の研究活動において放射線被曝が重なり、1945年6月に慢性骨髄性白血病と診断された。その矢先に原子爆弾投下を目の当たりにする。
爆弾投下当日より数ヶ月間、自らも重傷を負いながら、被爆者の救護活動に奔走する。その際に体験・観察した出来事を「原子爆弾救護報告書」としてまとめ、それを随筆形式に改めた作品が『長崎の鐘』である。
赤、赤、赤
この本は「赤色」に支配されている。被爆当日の朝の日の出に始まり、「赤いもの」が次から次から登場する。
さるすべり、夾竹桃、カンナの花。
ストロンチウムの炎色反応。
爆心地から数km離れた集落に降ってきた火の玉。
永井氏の身体から噴き出る鮮血。
自らの皮膚にできた血餅をはがし、白いシーツに貼って作った”日の丸”の旗。
救護活動を手伝った看護師(17歳)が幼い頃に作っていた、赤いぐみの実の塩漬け壜。
夜空に輝く、さそり座のアンタレス。
著者がどこまで意識して書いていたかはわからないが、身の回りにある”赤”を書き尽くして、原子爆弾の業火を強調させる筆致である。無我夢中で救護活動、医療行為を行い、やがて体力が尽きて倒れ、奇跡的に回復してから振り返ると、ただただ赤に塗れた日々だったと思い起こしたのだろうか。
対して広島の被爆記録であまりにも有名になった、放射能を含む「黒い雨」については、ごく簡単な記述のみにとどめている。
まるで津波
第2章「原子爆弾」では、浦上から3~8km離れた周辺地域で原子爆弾投下を目撃した人々の証言が綴られている。
B29がやってきて、浦上の方角に爆弾を落としたと思った瞬間、とんでもない強さで光った。その時は静かだったが、少し遅れて爆風や白煙が押し寄せて、樹木も家屋も何もかもなぎ倒していったという。山間の村にいきなり津波が来たような感覚だったのだろうか。その物理的・心理的衝撃は、実際に経験した人でないと語り得ないだろう。
『長崎の鐘』では、永井氏が直接見聞した出来事に加え、学長や同僚の教員、学生、看護師などの大学関係者、旧知の患者たち、近所の知り合いなど、当時氏の周囲にいた人たちから聞き及んだ話も記録されている。彼らが話す肥前訛り言葉が生々しい。永井氏は地元生まれではないので、周囲の人たちの訛りもまた、客観視できる立場である。
当時の永井氏にとって、彼らは日常的に顔を合わせる人たちだったゆえ、本では「〇〇さん」「△△君」と原則姓のみで書かれている。愛称で記されている人もいる。脚注には彼らひとりひとりの氏名と、当時の職業や学年が付されている。しかし、被爆で身元に関する資料が失われたのだろうか、長崎如己の会で長年調査してもなお、どこの誰のことかわからない人が何人も残されている。
辞世の下ネタ
本書で描かれている状況は、おそらく人類が経験した中で最も苛烈な出来事のひとつと位置づけられるだろう。それでもなお、怒りや恨み、あるいは同情を乞うような心情はほとんど綴られていない。代わりに、医科大学の人たちの被爆直後の反応や行動、考えていたことが客観的に記されている。
当日、長崎医科大学では平常通り授業が行われていた。病院では外来患者の受付が行われていた。空襲警報発令時の対応も、いつも通りだった。
原子爆弾が炸裂した瞬間、「広島の新型爆弾だ」と勘づいた人が、次に「昼めしはどうする?」と言う。
授業中に爆弾が投下され、教室の屋根や天井が落ちて下敷きになった学生は、火が自分のすぐ近くまで迫ると死を覚悟して、即興の漢詩を朗詠する。
「此亦放尿喫飯脱糞之徒耳」
その後、この学生は床板を剥がすことを咄嗟に思いつく。爆風で釘がゆるんでいたので簡単にはがれ、自分の身体を床下の土に落として助かったという。
人は突然、生命の危機をつきつけられると、怖いと感じる前にまず「しょーもない」ことを思いつくものだろうか。1985年に起きた日航機墜落事故で、手帳に「怖い、怖い」と書き続けた乗客がいたと報道されていたが、「このままでは数十分後に墜落」と説明されたがゆえに、かえって恐怖に苛まれる時間ができてしまったとも考えられる。
永井氏は、被爆当日病院に来ていた負傷者たちの運び出しを手伝ってくれた16~17歳の看護師2名について「身体の縦と横との釣り合いが変調をきたし」と形容している。要するに「頭頂部の毛髪の数が不足している」と同種の表現だが、そうでも言っていないと到底やっていけない状況だったのだろう。現代の「不適切な表現」摘発は、平和あってこそのものとつくづく思う。
長崎と浦上
原子爆弾投下については「広島・長崎」とセットで語られることが、終戦直後から定着している。しかし、長崎市の中でも浦上という地域に落とされたという事実に、永井氏は意味を見い出そうとした。
米軍は当初、2個目の原子爆弾投下目標を福岡県小倉市(北九州市小倉北区)に定めていた。ところが当日、航空機が現地上空に来ると、厚い雲に覆われていて投下できない。航空機は長崎市に向かい、港湾近傍の軍需工場を目標に投下したところ、風に流されて浦上に命中したという。
米軍機の狙い通りだったら、長崎駅周辺の市中心部およびグラバー邸やオランダ坂、稲佐山などの観光名所は姿を消していただろう。
対して浦上は天主堂を中心にいただく、日本の中で最も高度に宗教的な町である。そこに住んでいる人々は、「異教御禁制」とされた徳川政権時代の長い弾圧を耐え抜いた、筋金入りのクリスチャンである。
浦上天主堂は、爆弾投下からおよそ半日過ぎた夜半に出火したという。東京の宮城(きゅうじょう)で昭和天皇が終戦の決断を下した時刻であった。
永井氏はこの経緯を聞き、思考を進めた。「原子爆弾が他でもない浦上に落ちたのは、ただの偶然と片付けられないのではないか。神の摂理により、この地にもたらされたのではないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上こそが、神に詫びるための犠牲の祭壇にふさわしかったのではないか…。」
永井氏は同年11月に挙行された、浦上天主堂主催の合同葬に信者代表として、その旨を書いた弔辞を読み上げた。
この主張は、賛否真っ二つに分かれたのではないか。熱心なカトリック信者は腑に落ちたかもしれないが、長崎市はカトリック信者だけがいる街ではない。仕事その他の都合で、他の地域から来ている人も大勢いる。地元出身者でも、投下当日は出征とか、疎開とか、仕事などで町を離れていて、戻ってきたら家族全員が犠牲になっていたケースもあるだろう。彼らにとって永井氏の考え方は、悔しさや憎しみという感情では言い表せないものがあったとしても不思議ではない。
この弔辞は全世界に向けて発信された。広島はじめ、他の被災都市の住民はどう感じただろうか。永井氏の超人的な救護活動は、宗教心が支えになっていたからこそ成し得たものでもあるが、宗教が持つ危険性を客観視する発想とは、ついぞ無縁であったように思える。現在、原爆投下といえばまず広島という認識になっているのは、最初の被爆都市というだけでなく、長崎(浦上)に関しては宗教上の問題がからんできて、うかつに語れないという事情も隠されているだろうか。「広島・長崎」というよりも「広島・浦上」として語るほうが、本来はふさわしいのかもしれない。
荒野にひびけ
『長崎の鐘』の最終章「原子野(げんしの)の鐘」は、浦上天主堂のアンジェラスの鐘が鳴らされる時刻に合わせて祈りを捧げる、永井氏の二人の子の姿を描いてしめくくられている。
浦上天主堂の鐘楼は1925年に作られ、戦争が始まるまで毎日決まった時刻に大小2つのアンジェラスの鐘が鳴らされていた。原子爆弾により、小さい鐘は割れてしまったが、大きい鐘は被災を免れた。永井氏たちは瓦礫から鐘を掘り出し、仮設の鐘楼を組み、1945年12月24日のクリスマスイブに再び鐘を鳴らした。
永井氏はこの時、一首の短歌を詠んだ。
新しき朝の光のさしそむる
荒野にひびけ長崎の鐘
形見のロザリオ
「長崎の鐘」の詞の核心をなすこのフレーズに該当する記述は、『長崎の鐘』の本に全く記されていない。永井氏は8月11日夕方に一旦帰宅して、妻の緑氏の遺体と、手にしていたロザリオを目の当たりにする。永井氏は、被爆当日のうちに妻が現れなかったので、即死を直感したという。
しかし、永井氏はそのことを『長崎の鐘』の原稿に書かなかった。もともとは救護報告書として、原子爆弾という最新兵器を浴びた人間、動植物、自然環境などの変化を観察し、記録する目的で書き始めた文章であるため、私事は極力省いたのである。
『長崎の鐘』の原稿は、被爆1周年の1946年8月に書き終えていた。その後程なくして永井氏は再び倒れ、そのまま病床生活に入る。周囲の人たちは、この原稿を書籍として出版しようと奔走したが、GHQの検閲で難色を示されたことから、引き受けてくれる出版社が見つからなかった。
永井氏は1948年春、知り合いの信者が建ててくれた家「如己堂」(にょこどう。”己の如く隣人を愛せ”という聖書の教えに基づく命名)に移り住み、執筆活動に専念する。そこで書いた原稿数編が先に書籍として刊行された。そのひとつ『ロザリオの鎖』の冒頭で、永井氏は妻の思い出と、遺体を見つけた時の話を書いている。「長崎で被爆して、妻を亡くしてもなお、被災した人々を救ったクリスチャンの医科大学教授がいる」という評判が先に立った。
1949年1月、『長崎の鐘』の原稿についてようやくGHQの承諾が得られ、出版社も決まり、刊行にこぎつけた。発売されるや、たちまちベストセラーとなる。評判を聞いたレコード会社の人が「この話を題材にした歌を作ってほしい」と、サトウハチロー氏のもとに企画を持っていく。サトウ氏は最初「便乗商法か」と乗り気でなかったが、本を一読すると心底驚き、「これは、神様が俺に書けと言っている。書かねばならない。」と思い立ち、一気に詞を書いたという。作曲家古関裕而氏が曲をつけ、藤山一郎氏の歌でレコード化された。
サトウ氏は作詞にあたり、下ネタあり・独特の宗教観あり・原子物理学の話ありの原作をそのまま歌にしたら、問題作になりかねないと考えたのだろうか。特に前半はキリスト教色を抑え、『ロザリオの鎖』で永井氏が書いた、愛妻との突然の別れの情景を代わりに織り込んだ。作詞家としての巧みなテクニックゆえにこの歌は普遍性を持ち、長く親しまれた。
ラジオ放送でこの歌を聴いた永井氏は大いに感銘を受け、前述の「新しき朝の」の短歌を記した短冊を制作スタッフに贈っている。藤山氏は1950年に如己堂を訪れ、永井氏と面会した。古関氏は永井氏と文通を続け、「いずれは長崎を訪れてお目にかかりたい」と願っていたが、1951年の永井氏逝去により、その希望は実現できなかった。福島市の古関裕而記念館には、永井氏から送られた手紙やお礼のロザリオが展示されている。それは撮影できないが、浦上の永井隆記念館に展示されている藤山氏や古関氏のサインは撮影可能である。
平和の”正体”
『ロザリオの鎖』の本は、『長崎の鐘』とはまた違った意味で驚かされる。戦争が終わり、被爆の直接の影響がひとまず落ち着いた1945年末から、永井氏が病に倒れる1946年秋ごろまでの間の短編随想をまとめているが、その内容はあまりにもストイックな、徹底した禁欲ぶりと利他行動、そして知り合いの非カトリック信者に向けたとおぼしき、入信の口説き文句で埋め尽くされている。
著者は「八百万の神」を否定し、往診先の神社の老神主(末期癌患者)とその妻を憐れむ。「国家神道こそがあまりにも悲惨な戦争を招いた元凶」と断じ、正しい神への信仰を持たなければならないと訴える。
私の世界史知識はほぼゼロだが、もし永井氏の考える通りにカトリックが完全無欠な教えだったら、宗教改革を起こす必要などなかったはずというツッコミくらいは入れられる。永井氏と二人の子供の暮らしぶりを聞いた出雲の親戚から送られてきた、まとまった金額のお金をまるごと教会に寄付したという話を読んだ途端、昨今話題になっている「宗教二世」問題が頭をよぎり、何ともやりきれない思いがして、あまり芳しくない意味の涙が出そうになった。そこらの新興宗教と一緒にするなと叱られそうだが。
私が思うに、日本のキリスト教は長年「御禁制」で、信者は公儀に悟られないよう、何代にもわたって慎重に暮らしていたからこそ、聖書の教えを忠実に守ろうとする気持ちが高度に純化されたのではないか。永井氏もまた、その世界に合流したひとりであったのだろう。欧州諸国のように公式な宗教だったら、聖書の教えをそのまま守っていたらあまりにも生活が不自由だからと、時代の変化に合わせてカスタマイズしていき、本来の教義から遠ざかっていったかもしれない。
同時に思う。「平和」とは、我欲物欲を優先したい凡百の人民が、永井氏のようなストイックな禁欲主義者・社会奉仕者に甘え、もたれかかり、やがては食いつぶしていく歴史の積み重ねではないだろうか。”御恩と奉公”の関係において、重い奉公だけを強要して、与えて然るべき御恩を次第次第に惜しみたくなる、さもしい根性が育つ歴史ではないだろうか。私自身もまた、我欲物欲を優先したい側に属する。『ロザリオの鎖』を読み進めていくほどに、”平和の正体”の一端が明かされたような思いがした。
当時の人はまだ知らなかった
永井氏はいずれの著作でも、いわゆる「原子力の平和利用」についての希望的観測を綴っている。幼い二人の子に「これからは原子力の時代だ」と教えた話も載っている。今の世から見れば、あまりにも無邪気にすぎる希望に、またもやりきれない思いを抱く。
永井氏のみならず、当時の人はまだ知らなかった。大きな地震や津波、噴火がたびたび起こるこの国土に大規模な原子力施設を数多作ったら、原子爆弾とはまた異なる災厄が降りかかりかねないということを。平和利用目的でエネルギーを取り出した後の廃棄物は、人類が把握できる範囲の時間を越えて永続的に残されるということを。そして原子力施設もまた利権の温床となり、我欲物欲側の人間にいいように扱われるということを。それらはもはや、永井氏が言うところの「神の祝福」から逸脱するものではないか。
これらを勘案すると、『長崎の鐘』をはじめとする永井氏の著作は残念ながら、現代の人にはそのまま勧めがたい。権力や財力を持つ、我欲物欲側の人間に都合よく利用されたり、「お笑い」「エンタメ」というお化けに飲み込まれたりしかねない。現代の為政者や富豪たちは「自由意志」の看板を掲げたままで、実質的に強制させる方法を思いつきはじめている。「公共」を旗印として国民の基本的人権を制限して、全体主義に回帰させようとする、大日本帝国憧憬派の発言力が強まりつつある。この状況で永井氏の著作を世に問えば、戦前の歴史教育で楠木正成・正行父子の「忠義」の側面のみが肥大化して教えられたように、永井氏の「清貧」「禁欲」「奉仕」の側面のみがいたずらに強調され、国民に不本意な暮らしを強いて、権利の行使を押さえつける道具とされかねない。それは決して長崎如己の会の人たちや、氏とゆかりのあった人の子孫たちの本意ではないだろう。
今は、永井氏が発したメッセージを世に広める時ではない。だが、いずれまた永井氏のような崇高な精神の持ち主を必要とする時が巡ってくるだろう。その時どのようにしたら、永井氏の思いを正しく伝えられるだろうか。
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