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ラベンダー観光今昔


『わたしのラベンダー物語』

そろそろ、富良野地方のラベンダーが見ごろを迎える。
例によって観光バスがひっきりなしに現れ、降りてくる人たちの中国語や韓国語による屈託ない声が丘を覆うのだろう。十勝岳を望む広々とした、天井の高い木造のカフェで、紫色Tシャツ姿のスタッフが、コロッケやソフトクリームを次々と出して行くのだろう。

周辺の道路では車が列をなして、少しずつ進むのだろう。
臨時に設けられる駅をめざして、中国語や韓国語の声が橋を渡り、行進していくのだろう。

この季節になると開きたくなる本がある。

『わたしのラベンダー物語』(富田忠雄・著、誠文堂新光社、1993年)

富良野地区のラベンダーを一躍有名にした農園「ファーム富田」創設者、富田忠雄氏(1932-2015)の著作である。

富田氏の自伝とファーム富田設立までの歩み、日本におけるラベンダー栽培の歴史、代表品種紹介、季節ごとの作業のあらまし、氏が1980年代半ばに訪れたプロバンス、イギリス、タスマニアのラベンダー園の様子などが綴られている。冒頭には氏が撮影した、ファーム富田の四季写真が添えられている。

素朴で、優しさあふれる筆致である。「好きなことを生涯の仕事にできた」人だが、都会の人が書く文章のようなぎらぎらしたところが微塵もない。プロバンスのラベンダー蒸留工場長、ルネ・ギャロン氏との交流はこの本の白眉である。富田氏は1984年のラベンダー視察旅行中に偶然工場を見つけ、ギャロン氏とたちまち意気投合。富田氏はその後も渡仏のたびにギャロン氏のもとを訪れ、ラベンダー談義に花を咲かせた。ギャロン氏は、富田氏のラベンダー園を訪れたいと願ったものの病に倒れ、その夢を果たせぬまま、1990年に亡くなったという。以前の記事で取り上げたファーム富田園内のカフェ「ルネ」は、ギャロン氏を偲び命名されている。

富田氏は、ファームを訪れる観光客を「花人」(はなびと)と言い、敬意を表している。後に国道237号線の旭川から占冠までの区間に「花人街道」の愛称がつく契機にもなっただろう。

富田氏には一度お目にかかった。1990年代から2000年代にかけてファーム富田が作っていた「ラベンダークラブ」のイベントが東京で開かれた際、お見えになっていた。大柄で穏やかな、「農夫」のイメージそのもののお方だった。

小雨色のラベンダー

「ラベンダー」の名は、小学生の頃から幾度か耳にする機会があったが、それが具体的にどのようなものか、子供の時は考えようともしなかった。花の名前、それも日本伝統の渋い紫とは一線を画す鮮やかな紫色の花で、鎮静作用のあるオイルが取れると知ったのは1990年代半ばになってからである。富田氏の本や新聞の季節記事を見て、頭の中のイメージが一気に固まった。

子供の頃、紫色が好きと言って周囲から変人扱いされていた(赤や青、緑などシンプルな色を答えるのが”望ましい子供像”らしい)私としては、ぜひとも見たい、見に行かなければ。

初めての来訪は1996年。以前の記事でも言及したが、どんよりとした雲がたれこめる涼しい夏の日だった。平日だが、観光客はそれなりにいた。家族連れが多い。外国語はほとんど聞かれなかった。

初めて対面したラベンダー畑は、雲の下どこか黒ずんで見えた。時折小雨が降ってくる。「ラベンダーカラー」はパステル系の明るい色合いを指すことが多いが、実際のラベンダーの花はほとんどが濃紫色である。当時はまだフィルムカメラで、現像した写真はさらに黒味がかっていた。

この日は鑑賞後、滝川経由で奈井江に出て、バスで浦臼に向かい、札沼線の札比内と新十津川の間を往復した。雨脚が強くなってきた。

当時の勤務先では、休暇を取ること自体は楽だったが、あらかじめ時期を申請しないといけないので、お天気は運まかせだった。次は明るい色のラベンダーを見たいと願いながら、雨の於札内駅の小さな待合室で列車を待った。

Time Slip in "Hokutosei 6"

翌1997年も訪れた。今度は、普段使わないリバーサルフィルムを用意して臨んだ。この時も雲が多めだったが、時折日が射した。そのたびに花は、体操で大きく伸びをする時のように輝いた。

ファーム富田彩りの畑(1997年7月)

園内一番の名所「彩りの畑」の定番構図写真が撮影できるポイントに来てみたが、観光客の姿が途切れない。ポスターや写真集などは、早朝などほとんど人がいない時間帯に撮影しているのだろうか。

この時は帰路、寝台特急「北斗星6号」に乗車した。寝台の上には浴衣やシーツとともに「The JR Hokkaido」という広報誌が置かれていた。その中に、驚くべきエッセー記事が掲載されていた。筆者の北城景氏は、1990年代に札幌で活動していた作家とみられる。本稿執筆にあたり検索をかけてみたが、ほとんど情報が得られなかった。

できれば全部引用したいところだが、さすがにそれはできかねるゆえ、かいつまんで紹介する。

1981年夏。北城氏は札幌の旅行会社で、ラベンダーが一面に咲く丘の写真を見かける。早速カウンターで聞いたが、誰も知らない。方々問い合わせて、中富良野という町とつきとめる。

氏は実際に出かけてみる。中富良野の駅員にパンフレットを見せたが

「どこだべ?」

たまたま居合わせたおじさんが

「トミタさんのとこでないかい?」

と言い、そのおじさんに道を教えてもらう。
駅からかなり歩いた。木立を通り過ぎると、花畑が現れた。

瞬間、目の前がパレットになった。
赤、薄紅、黄、白のポピー。それに青い矢車草が微風に揺れ、丘全体が波打つ織物だった。丘裾に沿って歩いて端まで来ると小さな林。そこを過ぎると、ふいに紫一色の丘が現れた。

ほんとうにあったのだ。道からせり上がってゆく斜面を埋めつくした紫---ラヴェンダーの畑が、強い日ざしの下にシンと広がっていた。

あのとき、私は確かに息をしていなかった。我に帰ったとき、軽いめまいがしたから。畑の端、ひとりやっと通れる細道をたどって丘を上った。芳香があたりに満ち風が吹くと銀色に光る葉と、紫の濃淡の波。

「The JR Hokkaido No.113 北城景のショートメモリー」(1997年)より

北城氏は夕方まで丘にいて、駅に戻る。駅員は言う。

「なあんもなかったショ、畑だけで。」

なあんもなかったって?
氏はそれを聞き、白昼夢でも見ていたかのように思えた…と綴る。

このエッセーは富田氏の著書の、見事なまでの傍証だった。東京の若者がハワイだタヒチだ、清里だ軽井沢だと浮かれていた時代、中富良野のラベンダーは旅のアンテナを高く立てていた人だけにその神秘的な姿を見せていた。長らく町に暮らしていたであろう国鉄職員でさえ、その真価に気づいていなかったあたりが、またよろしい。

富良野地方のラベンダーが広く知られるようになったのは、1980年代後半以降である。それまでの富良野は、旅行会社などが作る北海道の周遊モデルコースに、ほとんど選ばれていなかった。

読み終えると、これから青函トンネルを通り南へ向かう寝台列車が、本当は時のトンネルを通り抜けていくのではないかと思えてきた。

3年目の1998年、ようやく清々しい青空が広がる日に訪れることができた。

ファーム富田彩りの畑(1998年7月)

トラディショナルラベンダー畑や彩りの畑を見た後は、隣接する「とみたメロンハウス」に立ち寄って、メロンゼリーをおみやげに買い、青玉メロンを宅配注文する習慣ができた。田舎の小さな町では、同じ姓の家が何軒もあるのは珍しくない。さして気にも留めなかった。

花については3回目で一応の満足が得られたので、次からは他の季節に訪れようと思った。いくら広大な土地でも、大勢の人がいると落ち着かなくなる。ファーム富田の商品は通販で買い、とみたメロンハウスから「今年のメロン」の案内カタログが届くと注文する夏がしばらく続いた。ゼリーやメロンは、周囲にも好評だった。

Wall of Nakafurano

以前の記事で書いた、2015年7月のファーム富田再訪を計画していた頃、新聞に富田代表の訃報記事が載った。急行「はまなす」を使って、久しぶりに行ってみようと思い立ったのは、「忠雄さんが育てたままの畑が見られるのは今のうちですよ」と、虫が知らせてくれたのかもしれない。

ご子息の富田均氏が経営を引き継いだ。ファームのたたずまいは、少しずつ変わっていった。

2018年、ラベンダーの季節を目前にした頃、「ファーム富田彩りの畑脇に壁設置」というネットニュースを見かけた。彩りの畑に接する道路沿いに、木造の高い壁が建設されたという。公式ホームページには「隣のとみたメロンハウスとは無関係です。とみたメロンハウスの飲食物の持ち込みはお断りします。」という注意書きが大書されていた。

とみたメロンハウスでは2017年に古い建物を改築して2階建てとして、彩りの畑に面したテラス席を設けたらしい。折からのオーバーツーリズムの影響も加わり、ファーム富田の花畑にメロン製品を持ち込んだあげく汚して行く観光客があまりにも増えすぎて、均氏は業を煮やしたのだろうか。

苦渋の選択であったと思いたいが、メロンハウスを名指しで牽制するやり方には驚かされた。ファーム富田で花を愛でたら、メロンハウスでおみやげを買って帰るという1990年代の習慣は、推奨しかねる旅程だったと言うのか。メロンハウスを訪れる観光客は、もはや「花人」と優しく形容するに値しない下衆ども(『枕草子』基準)とでも言うのか。

失礼ながら、壁を建てるという発想は、再来も噂されている某国元大統領のやり方を想起させる。「分断と冷笑の時代」を象徴する出来事のように思える。近年、外国からの観光客呼び込みがまるで国策のように位置づけられているが、様々な面で時期尚早と思う。なのにこの頃は円安が一気に進み、重い税・保険料負担も加わり、海外旅行どころではなくなりつつある自国民が増える一方。逆に外国人にとって、日本はお得感のある旅先となり、国内の有名観光地はますます傍若無人な外国勢に占領される。おかしくないか。いずれ潮目が変わるまで辛抱するしかないのか。

最近も、山梨県のコンビニエンスストアで、屋根に富士山が乗っているような構図の写真が撮れると評判が立ち、外国人観光客があまりにもたくさん押し寄せるようになったので、道路の向かい側に遮断幕をつけたと報じられた。その幕に穴を開けて撮る人もいて、いたちごっこ状態という。そういう報道も結構だが、今の国策に疑問を持つ姿勢を根本に据えないと、ジャーナリズムとは言えないだろう。

かおりから見た目へ

富良野地方のラベンダーは、もともと香料を取るために栽培が始まった。より質のよいオイルがたくさん取れる品種が優先された。しかし、香料農園としての役割を終え、観光農園として再出発した後は、オイルの質としては一歩譲るが、より見た目のよい品種が人気を集めているという。富田忠雄氏は著書で、その変遷を認めつつも、胸に去来する一抹の淋しさを吐露している。

現在、富良野地方で栽培されているラベンダーは約50ヘクタールと推測されていますが、大半は観光を目的として市や町が植栽したもので、ほとんどがオイルの抽出とは関係なく、美しい花を観光客の皆さんに見ていただくためのものです。
(中略)
最盛期の20数年前のように、蒸留工場から漂ってくる、あのむせかえるような香りは今はなく、ただ、かつての夏の風物詩として懐かしく思い起こすばかりです。
(中略)
たとえば「濃紫早咲3号」は花も美しいし、その姿も私は大好きです。しかし、ラベンダーの最大の魅力はその香りにあると思っている私にとっては、少し寂しいような気もします。

富田忠雄『わたしのラベンダー物語』より

昨今は本州でもラベンダーを一面に植えた花畑を売りにする観光施設があちらこちらに増えてきたが、その多くは「濃紫早咲」や、富良野地方では栽培されてこなかった品種をメインとしている模様。富田氏の著書によれば、濃紫早咲はオイルの収量・香調試験で外されていたが、強健でつぼみの頃から濃い紫色を見せる品種とされている。

高温多湿や雑草を天敵とするがゆえに、北海道外ではなかなか育てられないとされてきたラベンダー畑が”南進”してきたのはそのあたりに秘訣がありそう。

たとえば、秋田県仙北郡美郷町のラベンダー園では濃紫早咲をメインに据えた畑づくりをしている。中富良野の主力品種「おかむらさき」もあるが、片隅で小さくなっている。

美郷町ラベンダー園では、薄い紫色の花を咲かせる「さきがけ」、さらに白い花を咲かせるオリジナル品種「美郷雪華」(みさとせっか)をあわせて栽培して、ファーム富田の彩りの畑とはひと味異なる、同系色のグラデーションを楽しめるようにしている。見ごろの時期も、中富良野より1ヶ月ほど早い。

「さきがけ」と「美郷雪華」(2024年6月)

ここは交通があまり便利とはいえない場所にあるからか、まだ外国人観光客の集団攻撃を免れている模様。みちのく言葉丸出しでおしゃべりする年輩の人たちの姿に、安堵するものがあった。

のどかなやすらぎを味わえるラベンダー観光も、少しずつ歴史を刻んでいる。




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