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アルド・ロッシ「セグラーテの市庁舎広場と記念噴水」

 アルド・ロッシ「セグラーテの市庁舎広場と記念噴水」 
 1965年に設計されたロッシの処女作、彼の作品集を眺めているときに飛び込んできたその衝撃的なプローポーションにたまらなく心惹かれ、ミラノに来たら必ず見ようと決めていた作品の一つだった。中心部からバスで30分、団地に囲まれた広場にこのプロジェクトは鎮座する。作品集の見開き2枚の写真はどちらも子どもと撮られたものだったので、よい意味で想像よりも少し小さく感じた。周囲のヴォリュームとのスケール感がかなり絶妙でグッとくる。。。

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 本来であれば噴水と直行する水路へと水が滝のように流れ落ちているはずなのだが、改修中らしく黄色いフェンスに囲まれている。照りつけるような日差しの中、子供の遊び場になっているような風景を勝手に想像していたのだけど、今回は残念ながら鳩の住処と成り果てている、まぁ気にせずそのままロッシの作り出す意味を持たない幾何学の記号をくるくると眺める。一般的に記号って何か意味を見出そうとしてしまって形態を見る上で雑念になってしまうと思うんだけど、彼の記号からは何も感じ取れないところが良い。深読みさせてくれないのだ。円と四角と三角を適当に配置しただけだよ、と言わんばかりの素っ気なさ。だからこそそこに本当に純粋なかたちとその無限の在り様を見る者に与えてくれる気がする。(これが後述するロッシの魅力につながっていると思う。)

Aldo Rossi archtectures 1959-1987, Electa Moniteur,  p35
この広場は噴水とそれに直行する水路、噴水と並行に並べられた5本の小さな円柱と水路と並行に階段上に並べられた3本の大きな円柱で囲むようにして計画されている。実際の水路は計画図よりも短めに省略され実現している。(図: Aldo Rossi arhitectures 1959-1987, p.35)

 裏手の階段側に回る。シザのサンタマリア教会が頭をよぎる。シンプルな形態の操作でハッとするような美しさを生み出してくれる2人の作家が私はとても好き。

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 もはや祭壇とも言うべき階段を登る。(後から測量するとほぼ1:1の勾配だった。)膝に力を入れて1段1段確実に登っていく、三角形と対面し広場を振り返ったとき、私は宙ぶらりんになった。

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 そこは団地の一角で、テニスコート2つ分ぐらいの広場の隅にある円柱たちを眺めていて、登ったのはたった3m程の高さだった。そうであるはずなのに、円形劇場の1番高いところから競技場を見下ろすときにも似た立派で壮大な景色を感じていた。

 初めての感覚にびっくりしてしばらく立ち尽くす。当惑しつつも嬉しい。たまらずその遥か遠くにそびえる小さな円柱へ向かうため階段を下る。するとそこには高さ600mmのベンチが現れ、途端に先程までの巨大な神殿は消え失せて、少しだけ寂れてしまった幾何学の構成が横たわっているだけ。一瞬のうちにぎゅんと1:1のスケールに引き戻されてしまう。

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 これは、、、と興奮気味に今度は広場から少し階段を登ったところにある大きな円柱の方へと歩く、噴水と小さな円柱から距離を取る。大きな円柱の高さは2200mm程だが小さな円柱に腰かけた後だとアテネのドーリア式ような存在感を放っている。その陰から振り返った噴水は積み木になっていた。小さなころに遊んだカラフルに塗装された積み木、それと同じ大きさの中にいる。私の身体が小さく縮んでしまったのか、あるいは記憶という次元の中に大きさを持たず存在しているのかもしれない。どちらにせよ、この関係においてスケールは1:1から今度はまた大きく飛ばされてしまった。

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 これが多分ロッシなのだ。先述した彼の作り出す意味を持たなげな幾何学記号、その絶妙な大きさ、適当な距離をもった配置計画。そしてこれらによってもたらされる時空の中に宙ぶらりんになるような感覚。

 今回のプロジェクトでキーになっている幾何学記号は言うまでもなく円柱である。噴水の三角形を支える円柱には少し隙間があいていて独立したエレメントとして鎮座している。(しかしこれはぱっと見では認識しにくい操作で、他の2つの円柱の存在感もさりげない。これもポイントなのかも。)広場を訪れたときから噴水の円柱、小さな円柱、大きな円柱は無意識に意識される。円柱はそれぞれ絶妙な大きさを持っていて、それら3つの距離感/配置もまた巧妙に計算されており視覚の中に絶えず2つ以上が相対化させられるようになっていると思う。3つの円柱たちの適当な距離の間を移動する中で、今見ている小さな円柱は少しずつ大きくなって、さっき見ていた大きな円柱は段々と小さくなる、、、といった経験を反復させられ、私たちは実にたくさんの大きさの円柱を目にすることになる。視覚においてか、記憶においてか、いつの間にか円柱は連続性を持って統合されていき、伸び縮みする「ひとつのかたち」となってしまう。しかもそれは極度に純粋な「かたち」をしていて、ふと記憶の中のかたちとして思い出される。(それらはほとんどが過去の記憶だけどもしかしたら分からないだけで未来を見ていることもあるのかもしれない、そうだともっと面白い。)記憶の中のかたちと今現前し見えているかたちはもちろん大きさが違う。しかしその2つが重ね合わせられる中で、物理的な距離が伸び縮みして、スケールの階層を急激に登らされたり、突如として落っことされたり、ふわりふわりと定まらずに宙ぶらりんにさせられてしまう。

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 だから私はロッシの建築が好き。時空旅行に飛ばされてしまう。なんとか生還して不思議で愉快な気持ちであたりを見回す。すぐ横にあるカフェでは変わらず人々が昼間からビールを飲んでる。だけど円形劇場に登ったあとだとそれはさっきまでと全く同じではない。古代ギリシャ人たちが巨大な舞台を見た時間と子どもの頃積み木で遊んだ記憶、長い長い1本の線で結ばれた目の前の彼らと私、我々は何か意味があってここに存在しているのではないか、と妄想を膨らませてしまう。そうすると世界はもっと面白く映る、そんなきっかけをロッシの建築は与えてくれる。

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 留学中に見たものの中で確実にトップ5に入る建築。ロッシのエスプレッソメーカーのかたちをした住宅のドローイング(これが私は大好きで今回ついにALESSIを購入しちゃった。)を見たときからぼんやり想像していたことを実際に体験できたことが本当に嬉しかった。(ミラノで彼にそういう感性を与えたであろう建築をいくつか見れるかなという予感が外れたのは意外だったのだけど、ヴェネチアやヴェローナにおいていくつかそういう歴史的な建築を見た。)こんなものが生涯1つでも生み出せたら本当に幸せだろうなと思う、生きている間で時間は足りるだろうかと考えだすと恐いけど諦めず頑張らなきゃいけない。

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