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0.幸せとは「新鮮な心の感触」に近いと思う

夜中、家族が寝息を立てている横で寝付けずに、動画サイトで時間を潰しているとTV番組の切り抜きが流れてきた。

人気のコメンテーターが、幸せの定義について注意深く語っている。「結婚とか子供を授かるとか、そういう幸福はわかりやすいけど」

「それをクリアすることだけが、幸せとは言えない」
「幸せは他人とは切り離して、自分の中に見つけたいものだ」と言う。
コメンテーターは本当はもっと「いい感じ」に語っていた。誰が聞いてもわかりやすいシンプルでまっすぐな語彙選びで、聞いていて深みもあった。わたしが書き起こしても全然よくない。

そうだそうだ、このコメンテーターは本当に心に響くことを言う。人気者なだけはある。とわたしはしみじみ思った。

そして自分にとっての幸せの定義はなんだろう?と考えた。
わたしも、こうスマートにかっこよく幸せの定義を胸に抱いて生きたいものだ。という一般人の憧れである。

わたしは幸せとは理屈がどうこう言うものではなく、心の感触そのものだと思った。
望んだ物が手に入る、入らないとか、人との関係性がどうのとか、ではなくその先で起こる心の動きそのものが幸せだと思う。

そりゃそう。な話なのだが、意外と見落としがちではないだろうか。
幸せは自分と物体の間とか、自分と人様の間に落ちているものではないのだ。

なにかの事象を受けて、心が動いて心地よい感触を感じる。それが幸せじゃなかっただろうか。

さて、もうちょっと地に足ついた話がしたい。コメンテーターが言っていたように、世間では結婚、出産、就職、進学など、「これが立派にクリアできれば幸せ」と認識されやすい人生の分岐点がある。
思うのだが、こういう路線変更をすると「新鮮な体験を得やすい」のだ。例えば子育てすれば毎日子どもの成長を目の当たりにして、新鮮な刺激が次々と得られる。
大手企業に就職すれば、学生時代には得られなかった新鮮な環境で仕事をすることになるし、そこで大金が得られれば好奇心のままに体験をお金で買える。

新鮮な体験、新鮮な刺激は、心をめぐるましく突き動かし、幸せを感じやすくする。
きっと心は飽きっぽくできているのだ。同じ環境、同じ刺激では心が新鮮な感触を得られなくなる。
一日中家に篭っていると気持ちが鬱々としてきて、外で夜風にあたると清々しい開放感を感じないだろうか。この心が新鮮な感触に触れて感じる喜びを、わたしは幸せと呼びたいのだ。

ここでちゃんとはっきり言及したいのだが、幸せは結婚やら就職やらを立派にこなさなくても感じられる。間違いなく。
新しい趣味を始めたり、引っ越したりしても、ペットを家族に迎えてもいい。新鮮な刺激を得やすい環境を作る術はたくさんあるだろう。
普段の生活そのものに、新鮮さや喜びを感じられるようになれば、つまり心が飽きることなく毎日の出来事に感動できるようになれば無敵だ。

わたしは最近では、子どもがわたしが知らない歌を口ぐさんだ時、自転車を漕いでいて季節の変化を感じた時、着物の着姿が前よりよくなったと感じた時に幸せだった。
心が新鮮な感触に触れている心地よさがあった。

今の所は、これがわたしが考える幸せの定義だ。回りくどい。一言で言えなくて定義と呼べるのだろうか?

まだまだ人生は長く、思いもよらない出来事がたくさんあるだろう。だから今日たどり着いたわたしの幸福観はまた変わっていってしまうと思う。
それでも今日の所はとても気に入った。心の新鮮な感触。明日もたくさん触れたいものだ。

ライライ

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