ファッションと視線と幻像

ごあいさつ

どうもこんばんは邪念(36)です。
ファッションについて考える、しぉしぉの中年女性です。

服が非常にまずいからなんとかしたいな、というお気持ちでnoteを始めたのですが、日に日に『服とは…?』みたいな気持ちになってきてよく脳汁をほとばしらせています🧠💦

私はしばらく、「服で人に『こういう人なんだな』という印象をなにひとつ持たれたくない」というこじらせすぎている感情から自問自答ファッションに取り組めずにいたのですが、その理由がわかってきたのでみなさんにもこのお気持ちをお裾分けします。(いらんやろ)

服=布≒皮膚=外層=真理を隠すもの?

まずもって、服は身をおおうものであり、実利的な目的がまずありますよね。そして昨今、基本的には外的要因から身を守ることは、前提としてどの服も可能だとしましょう。

そうなってきたときに、いま、服はなんのために無限の意匠で存在するのですかね?(スポーツのユニホームとか別としてね)

富とステータスを示すため?
美を誇示するため?
ビジネスや協調を円滑化するため?
自己表現するため?
センスやバランス感覚の発現として?
自分の気分を上げるため?
着心地と利便性の向上のため?

いろいろ考えてみましたが、私はどれもぴんときません。強いて言うなら、『自己表現しないため』に近いんです。でもそれも厳密には違います。どうせコストがかかるなら見合ったリターンを回収する、必要な機能を満たした上で。という感じです。あとだれに対してもマウントにならない服が着たいです。というか外見で勝負する土俵に立ってるつもりがない、に近いかもしれません。それだけ、『服での自己表現』に抵抗がありました。

『見る』『見られる』ことの意味

私は美術と宗教画と神話が好きなのですけど、古来から視線が合うというのは非常に重みがあることなのですよね。
瞳=人見であり、その瞳で対象をみているようでいて、相手と目があったとき、その瞳にうつる自分自身と向き合わざるをえません。
あとメデューサとか、オイディプスとエウリュディケとか考えるともう視線が合う=死です。

視線が合う=目合い(まぐわい)でもありますね。んなことないやろと思いつつ、たまに人と目が合うとかなりハッとしたりしませんか。

完全な自己表現=死

そうなると、この感情の根幹がわかるような…。外見に内面があらわれていればあらわれているほど無防備だといえないでしょうか。直接つながらないけど、なんとなくそんな雰囲気。

完璧を自負すること、それは神への挑戦でもあり破滅

調和のとれた、つっこみどころの少ない、匿名性の高いつるっとした服(全身UNIQLOとか)はもうそういう意味では個性を消す服に近いような気がしますね。

『えっ…こちとら仕事人として日々まじめにおちごとしているのにそんな△△(プライベート要因or外的要因or運要素)なことをわざわざ言ってくるの…? は…?』

というお気持ちになれるというか、じぶんの服装について『仕事にふさわしい』『安い(身の丈に合っている)』など根拠付けやすく他人に攻撃させる隙を与えない効果があると、考えます。

それに対して、「好きな服を着る」ということは、とても勇気がいることです。
求めていなくても、ほぼ必ず評価されます。

好きなブランドの新作をぐぐろうとしたら『○○ ダサい』『○○ 30代 痛い』と出てきたり。

おしゃれの基準値はどこかに数値指標があるわけではありませんから、どんなジャンルであろうと、『可愛い服着てますねぇ』の言葉の意味を深読みしてしまうときもあるでしょう。

これは…おしゃれなのか…? とか
おしゃれしすぎたか…? と考えすぎることもあるかと思います。それがおしゃれだと思ってんの? というイマジナリー世間集合体と戦うことでもあると思います。

しかしながら、それらのしがらみからふと解放されたとき、どんな服を着ていようと、誰かになにか言われたときに『は?』と言えるようになると思うのですよね。その感覚を得るタイミングは人それぞれなんでしょうけど、私のなかでは「やることやってる」とじぶんで思えたときな気がしています。

才能を驕り神に挑戦した人間はほとを突かれたり皮を剥がれたりして基本死ぬのですが、目立って才があるものは自己実現として挑戦し続けざるを得ない側面もありますよね。自分を鼓舞しながら。それがライフワークであり職業である方も広義の意味では多いかと思うんです。

神に近づくことを目指し続ける

大なり小なり、人は生きて行くうえで宿命的にそうなのかなとか思ったり。
完璧なにんげんはいませんが、人に優しくなりたい、可愛くなりたい、仕事で失敗したくない、いつもご機嫌でいたい…

できません。100%、自分の理想の自分には私はきっと一生なれないのですが、それでも誇らしくいられるとしたら「でもやることやってるからな」のときかなと思うんですよね。

その理想の自分に近づく、いっぽいっぽ頑張った証を金からモノに変えてうつくしい自分の具現化やら象徴的モチーフなどを首に巻きその足に履いて踏みしめることが、あらゆる服や服飾品がある意味のひとつかもと、それが自問自答ファッションかもとか思っています(突然の理論のなすりつけ)(怖)(個人の感想です)。
結局自己満ですか? という話ではなく、その繰り返しがにんげんのビジュアルの説得力を補完する可能性も大いにあるのではないでしょうか。それは最終的に説明コストを下げ、印象起因の不利益を排除して交渉と会合をスムーズにすることに寄与するでしょう。

強く自己主張し続けることで、ある日自分より強い者から皮を剥がれて死ぬかもしれませんが、自分を信じることができた証があることは良いことだな〜って思います。急に語気がゆるくなってすみません。また、何が言いたかったのか忘れました。

結局わたしは、「なりたい」のかもしれません。何になりたいのかは、まだわかりません。

おわりに

おまえはこんなん書いてる暇があったら試着に行けよ…!という感じなのですが、まじに時間がなく、文章のほうがまだ書けるという感じです。

ボナベンチュラのミアトートが気になってるので見に行きたいです。しかしな…ハワイ行くからな…買うにしても次ボのさらに次ボくらいかもしれん…

ではでは、また何か書きますね。

(邪念 2570文字)

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