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なりたかった自分。そして、なりたい自分。

やぶ蚊とハチが登場する前にと、今年もギリギリで庭の草抜きが終わった。
広くもない庭だが放っておくと雑草は勢いよく伸びて、すぐに蓬生(よもぎう)状態になる。

草を抜くという作業はストレス解消にもなるので嫌いじゃない。
が、草抜きをするといつも30代の専業主婦だった頃の自分に引き戻される。

当時の私は草を抜きながら,「このままで人生を終わるものか」と呪文のように繰り返していた。『なりたかった自分』を諦めきれず、このままなら死んだ方がマシだとさえ思っていた。

その時の『なりたかった自分』とは、いわゆるキャリアウーマン。
正社員でバリバリ働くのが理想だった。

ところが現実はあまりにかけ離れていた。
四大卒の女子は就職が難しい時代、つまりは私は就職に失敗したのだった。
今のように多様な選択肢がある訳でなく、仕方なく役所のアルバイトをすることになった。

絶望の真っ只中、その時知り合った現在の夫と逃げるように結婚した。合法的に独立するには結婚しか思いつかなかった。そして、子供がある程度大きくなったら就職したらいいかと計画を練り直した。

だが、あろうことに32才で双子を含む4児の母となってしまった。
こうなったらとことん育児を楽しんでやろうと、私は気持ちを切り替えた。
毎日がこども園のような生活。それはそれで、楽しかった。

でも子供が大きくなって時間に余裕が出来ると、やはり本来の自分の願望が甦り悶々とする。
それに4人分の教育費のことを考えると私が仕事に出るしかない。

扶養を外れて自分で税金を納めて健康保険に入る。
そうやってこそ初めて、個人として一人前になるのだとの思いに駆り立てられるようになった。

専業主婦の身では自分の勉強に使う時間とお金を工面するのは大変だったが、何とかして英語とPCの資格を取り、密かに就職の機会を待っていた。

ハロワに繁く通ったが、想像を絶するほど就職先が少ない奈良で、まして私の条件に合うものなど無いに等しかった。

正社員の経験ゼロでもOK/16時に終業(子供の塾送迎のため)/英語とPCを使う事務職/通勤時間は30分以内/時給高め

周りのみんなに無理だと言われたし、自分でもそう思った。
が、何とほぼ自分の理想が叶う就職先が見つかった。
求人票をめくっていて(当時は紙ベース)、自分の希望どおりのことが書いてある一枚を見つけた時は、跳びあがらんばかりだった。
神の計らいとしか思えなかった。

私は44才で、県内にある自動車部品メーカーに就職することになった。
扶養を外れ、自分で税金を納め、自分の健康保険証を手にできた!

海外企画部に配属され、嬉々として働いた。
肉体的にはしんどかったけど、専業主婦でいるより、刺激的で毎日が楽しかった。
得意先の海外進出に合わせて、海外に自社工場を拡大することを余儀なくされた田舎の中小企業には、私はちょうどいいスペックだったようだ。
パートでありながら、色々な専門的な仕事を任され、最終的に法務局や外務省大阪府分室、入国管理局まで出入りするようになっていた。

やっと『なりたかった自分』になる夢は叶えられた。

が、また…

時間が経つに連れ、今度は正社員でないことが不満になってきた。
次の『なりたいは自分』は正社員。

50才を過ぎていた。
これはとても難しかった。
交渉の結果、やっと契約社員にしてもらったが、正社員は無理だった。
入社時の年齢が若ければ可能だったが、私はそれに合わなかった。専業主婦だった20年を恨めしく思った。

そのことも意欲をなくす一因だったが、時を同じくして仕事の内容がつまらないものになってきた。
会社の海外進出も落ち着き、作業が現地化されたりして、エキサイティングな仕事が無くなってきたのだ。

後で考えると、同族会社の権力争いの煽りをくったのかも知れない。
私は当時の専務に気に入られて面接、即入社となった。
専務は過去の経歴や役職とかに固執しないので、私にもどんどん新しい仕事をやらせてくれた。ところが創業から三代目の同族会社だったので派閥争いが強く、専務は従兄の社長から疎まれて、結局辞職に追いやられた。私は後ろ盾を失った。

そのあたりから、仕事が面白くなく、時間潰しのようになってきた。
毎日が退屈だった。

お金は入ってくるが、こんな所で時間の切り売りをしていていいのか?
何か行きたい講座やイベントがあっても会社員の身では時間が限られている。こんな退屈な仕事と大切な時間を引き換えにするのは悲しすぎる。

平日に好きなところに出かけたい。
もっとエキサイティングな何かをしたい。

その思いはだんだん強くなり、私は当初の計画より早く仕事を辞めた。
で、次の『なりたい自分』は自由業となった。

退職後どうしようかと思っていたところ、前からやりたかった観光案内所でのボランティア募集の記事を夫が偶然に見つけてきてくれた。
お陰で、好きな英語と奈良の2つが合体した外国人対応の案内業務を始めることができた。
会社員時代は、メールの読み書きが主体で英会話には全く自信が無かったが、やっているうちにだんだん面白くなり、通訳ガイドのような仕事が出来たらいいなと思うようになってきた。

そう思っていたら、今度は奈良県の地域通訳案内士の募集のチラシが目に止まり、ダメ元で応募したら合格した。が途端にコロナパンデミックに突入。
昨年からボチボチと稼働しているというのが現状。

確かに自由人だが、仕事バリバリというのではない。

今、草抜きをすると甦えってくる「このままで人生を終わるものか」という呪文を繰り返していたあの時の自分に何て答えようか。


確かに「あのままでは」終わらなかった。
色んなことをやってみた。
でも「ひとかどの人」になれた訳でもない。

いつも頑張ってたのは偉いね。
やっぱり語学とか人に何かを伝えるとか好きなんだよね。
ワクワクしながら生きたいんだよね。

振り返ると、やるべきことはもの凄いタイミングで繋がっていることも証明できる。

少しでも就職に有利なようにと英語の資格を取った。
仕事で英語を17年間使った。
退職後、観光案内所で外国人対応のボランティアを始めた。
地域通訳案内士の資格を取った。

それから思うのは、時間の流れは本当に早いということ。
永遠に続くかと思われた子育ても怒涛のように過ぎ去った。沢山の人たちと出会い、別れもあった。この世から旅立った人もいる。


正社員の身分なんてどうでもいい、とやっと言えるようになった。
今考えると、何に固執していたのだろうか。

正社員でバリバリ働いていた友達も今はみな退職してただのオバサンだ。
それに時代は移り、働き方もすっかり変わり、会社だの正社員だにあまり価値を見出すことはできない。
こんなに早く、こんなにすべての価値観がひっくり返る時が来るとは思いもしなかった。

そして今、私の『なりたい自分』は、時空を超える人。
時=年齢、空=場所に捉われず、自由に生きる。
もちろん、それでお金を稼ぐ。

何のかんの言っても、ついつい年齢を口実にしてしまう。
自分が作ったダメの壁と自分が投影した他人の目線に阻まれそうになる。

時空を超えて、可能性の扉をこじ開ける。
そして、その向こうにある景色を見てみたい。

『なりたい自分』=目標はあった方がいい。
でもそれは修正可能で、固執する必要はない。
「必要なものなら,繋がるよ」とあの時の自分に答えたい。


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