ゲーミフィケーションの限界

塾のバイトで小学3年生の作文を読んでいたのだが、ここ最近2人の生徒に共通する内容があった。それは小学校への疲れである。一人の子は、今までは前日に翌日の準備がしっかりできていたのに、最近は準備する気力が起きず忘れ物が増えたというもの。一人は土曜日はたっぷり寝れるので待ち遠しいというもの。後者は、サラリーマンか!とツッコミたくなりはしたものの、前向きな気持ちが感じられる文章だったし、そのくらいは私も感じてたなという気はする。しかし前者については明らかに悲壮感が仄見えていた。
最近かなえ先生というVtuberが不登校について話している配信を観たのだが、不登校の理由として最も高いのが無気力で、半数近くを占めているらしい。

ここ最近はゲーミフィケーションを始めとして、いかに学習や経験を豊かで密度の濃いものにしていくのかという理論がどんどん進化している。私も、どうせ同じ時間を過ごすなら楽しい方がいいと思い、ボードゲームやワークショップに興味を持っていた。しかし、本当にそれが最適解なのだろうか。仮に、勉強も習い事も「楽しい」建付けのもとに行われていったとして、その先にあるのはギャンブル依存、ゲーム依存と同様な勉強依存、習い事依存なのかもしれない。つまりそれによって心身が削られていながら、楽しさ故に適切に距離をとれないという状況である。

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