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乾燥と強風中の火災で犠牲者は10万人超!!


江戸時代のネタが続きますが(笑)、何せ歴史が好きなもので……^ ^;

今週はお江戸の大災害についてご紹介しようと思います。

ではでは🤲




1 . 振り袖の火からはじまった大火災 


江戸時代、最も多くの人命を奪った災害は火事であり、その最大被災都市は、政権のおかれた江戸でした。

 記録されているだけで1500件以上。人口100万人という住宅密集地であり、家屋が紙と木でできているのだから、火事は宿命ともいえました。

なかでも『明暦(めいれき)の大火』は、その規模、被害において群を抜いています。 


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1657年1月18日の午後、未曾有の大火災は発生した。
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一件燃えるとたちまち火の海に…😱

           
その日は朝から強い北西風が吹き荒れ、砂ぼこりで数メートル先も見えぬほど。

すでに2か月間、まったく雨は降っていない。 

火元は本郷の本妙寺。※死者の遺品である紫色の振袖を焼却 しようとしたところ、強風で火のついた振袖が舞い上がり、本堂に燃え移ったとされる。そのため明暦の大火を、『振袖(ふりそで)火事』ともいう。

火は勢いを強めながら湯島、駿河台、鎌倉河岸へと拡大。

同時に各地へ飛び火し、茅場町、八丁堀、小伝馬町方面にも追ったので、近隣の数万人は霊巌(れいがん)寺の境内へ避難した。

ところが、寺の建物にも火が燃え移り、雨のごとく火の玉が人々に降り注いだ。

群衆はパニックになり、灼熱から逃れようと近くの海に飛び込んだ 。

が、なにせ真冬の話🥶。約1万人が凍死するという惨事になった......😱


2 . この世の地獄・浅草橋門の人の山


もっと犠牲が大きかったのは浅草橋門である。

小伝馬町の牢獄の囚人たちを焼死させないために、牢屋奉行(ろうやぶぎょう)が解放したのを脱獄だと勘違いした門番が、浅草橋門を閉鎖してしまったことで、群衆が足止めされた。

後方から猛烈な勢いで火が迫る。門は開かない。

人々は死に物狂いとなって他人を踏み越えて門をよじのぼり、30メートル下の江戸城外濠(そとぼり)へ次々と飛び降りたのだった…😱

 門前で踏み付けられ下敷きになって圧死する人、飛び込んだとき身体を石垣に打ちつけて即死する者が続出、運良く濠に入った者も後から降ってきた人間に激突されて命を失った。

驚くことに、濠はやがて死体でいっぱいになり、最後の方の群衆は遺骸で埋まって平地になった濠を、難なく渡って逃げることができたと伝えられる。

この地で命を落とした者は、2万3000人にものぼった。

こうして江戸の過半を焼き尽くした炎は、その日の夜に鎮火する。

ところが、翌日ふたたび各所で火の手があがった。これは放火だと伝わる。実のところ、お江戸での出火原因のほとんどは、放火だといわれている。

町が消失すると、再建のために職人や商人が儲かるからだ。また、火事場泥棒による盗み目的の放火も多かったようです。

最終的に、この未曾有の大火では四谷・赤坂を除いた江戸全域が焼け野原と化し、犠牲者は10万人を超えました。


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以上、今回は日本史上最大規模の人的災害と言ってもいい《明暦の大火》を取り上げました。

飢えや伝染病、干ばつや大洪水や噴火などの自然災害、そしてこうした人災による多大な犠牲と常に隣り合わせだった時代...

対して、安全な建物やテクノロジーに恵まれ、毎日を当たり前に安全に生きられる私たち現代人。

ここに至るには先人たちの多くの知恵と努力と犠牲があったことを、頭の片隅に入れておきたいものですね🙏✨

 
※同じ紫色の小袖を着た同年齢の少女が、同日に3年続けて死んだ。気味悪くなった遺族がその小袖を焼却しようとして、それが『明暦の大火』の火元になったという。


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