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天皇を名乗った男

天皇を名乗った男、通称葦原将軍と呼ばれていた
この
前に書いたアメリカ合衆国皇帝を名乗ったジョシュア・ノートンのような人物が日本にもいたのだ
今回はこの葦原将軍について書いていきたい

本名は葦原金次郎
1852年生まれ1937年死去
日本の皇位請求者であり、葦原帝、葦原将軍、葦原天皇とも呼ばれた


ジョシュア・ノートンのように記録が散乱しておりハッキリした生まれが分からない
石川県金沢市、富山県高岡市などがある

何にしても彼は若いときに埼玉県で櫛職人として働いていた
24歳のときに結婚したが、懲役になり離婚
大の酒好きで、よく暴れていたらしいが、何の罪で懲役をくらったのかは不明

この離婚から葦原の病気が酷くなっていったのではとする説がある

葦原の病気は具体的には不明
医師によっては、躁鬱の誇大妄想、分裂病の誇大妄想、梅毒からくる誇大妄想などなど
どれが正しいかはともかく、何らかの精神的病に侵されていたのは間違いないだろう

離婚の翌年には自分を葦原将軍と自称するようになる


1882年に明治天皇へと直訴未遂事件を起こす
その後は巣鴨病院へと強制的に入院される
彼は脱走の常習犯で、何度も何度も病院を抜け出そうとした

そして1885 年に再入院
そんな彼の誇大妄想は日露戦争勝利後にますます悪化し、昭和になると自分は天皇だと自称するようになる


明治13年には東京自由新聞に葦原金次郎のことが紹介されている
結構な有名人になっていたようだ
取材で訪れた記者達にジョシュア・ノートンのように色んな勅令を発していた


マスコミは彼を面白がって度々葦原将軍の会見を新聞に載せた
葦原は狂人でしかなく何を語ろうと政府は相手にしなかったし、できなかった
さらに葦原は歯に衣着せぬ意見で天下国家を語るのでマスコミにとっては都合の良い存在になっていた



当時珍しい精神病院を有していた巣鴨病院には多くの見学者が訪れて葦原は勅令などを発行し販売していたようだ
その売上で病院の入院患者に牛乳などを奢っていたという話もある

また政府関係者も巣鴨病院へ見学に訪れてることがあった
伊藤博文には金の無心をしたり
乃木希典には
旅順では尊公も苦労したのう。二人の息子を亡くしたことは気の毒である。ご苦労であったと本気で労った

さらに明治天皇の訪問にいたっては「やあ、兄貴」と声をかけることもあった

日露戦争時には、相撲取り部隊を派遣しロシアのトーチカを破壊せよとの命令も出したりした


彼は病院の名物男となり見学者、訪問者はますます増え勅令を代筆する秘書のような存在も現れという


フロックコートに手製の肩章や金モールをベタ金に飾りつけ、胸には所嫌わず金紙銀紙製の勲章をずらりと並べて紙貼りの大礼帽を被っている姿で庶民の代弁者のように政府の不満を語る彼はスターのように持ち上げられていった




1937年に病院にて死去する
88歳であった
その生涯をほとんど病院の中でも過ごした









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