ご近所ミステリー 孝行息子

あらすじ:一流企業に就職をしていたが、不祥事を起こし職を追われた市山卓次は実家に戻り、毎日病弱な母親を病院まで送り迎えをする。そんな卓次は近所から孝行息子と思われているのだが、予期せぬ様々な事が展開してゆくのだった。
ご近所ミステリー第十弾です。読んで頂ければ幸いです。
 

市山卓次、三十代後半で独身。家では母親と二人暮らし。大企業に勤務し、都心で一人暮らしをしていたが、母親に持病のリューマチがあるため、一年程前から、母親が暮らす実家に戻っている。仕事は出勤しないいわゆるテレワークに切り替えてるんじゃないかという近所の噂である。
彼は、ほぼ毎日、ワンボックスカーの後部に母親の車イスを搬入し、母親を抱きかかえるようにして助手席に乗せ、リューマチの専門医がいる大病院へ車を二十分程走らせ通院している。そこで母親は診察を受けるばかりでなく、物理療法を受けたりリハビリも行っている。
ほぼ毎日通院し、母親を乗せた車イスをゆっくり押している卓次は院内でも顔なじみになっているようだった。しかも、しばしば見かける人には患者であろうと医師や看護師などの病院関係者であろうと、彼は明るく挨拶をし、また身なりもきちんとしていて、さわやかな雰囲気もあった。
 また、母親が診察を受ける時も、彼は車イスを押して自分も診察室に入り、無口な母親の代わりに受け答えをしたり、主治医に質問をすることもあった。それに、母親を物療室やリハビリ室に連れて行った時も、室内に入り、他の患者の邪魔にならないように気を使いながら、そっと患者のお手伝いをしたり言葉を交わすこともあった。
 そのような彼なので、近所ばかりでなく、病院でも彼をうさん臭く見る人はいないようだった。一人を除いて。
 その一人は総合受付にいた。ショートヘアーを栗色に染め、一重の切れ長の目をした二十代半ばの女性だった。一度彼女にリューマチ外来はどこかと聞いた時だった。マスクに覆われていたため表情すべては分からなかったが、はっきりと目元に少しの驚きとかなりの嫌悪が一瞬見て取れた。声のトーンも低く敵意の響きも感じられた。
 悲しい事に卓次はあまり弁は立たぬが、感性特にネガティブな事についての感性は人一倍鋭かった。さらにより悪いストーリーを勝手に作ってしまう性向もあった。つまり表向きの善人さをアウトプットする分、同時にネガティブな面を隠し持っているのかも知れない。
 その彼が大勢の人達がうごめいているこの大病院の中で、たった一人、この受付の女に反応したのは、彼女が彼の正体を見透かしているからかも知れない。また、ネガティブとネガティブ同士で反応をしたのかも知れない。

 ところで、ほぼ毎日車イスを押しながら院内を歩いていると、卓次と同じように車イスを押している人がいる事に気付いた。そのような時、卓次は常にその人に目礼をしたり、行く方向が同じ時は目礼や挨拶ばかりでなく一言二言言葉を交わすこともあった。ただ、中には卓次の目をじっと見ながら「お互い疲れますね」とか「いい加減勘弁してもらいたいですよね」というオーラを送りながら車イスを押している人と行き交う事もあり、改めていろんな人がいる事に気づいた。
 先日は、彼の後ろを車イスを押している中年の婦人が彼に追いつき、いきなり
 「どうぞこの本を読んでみてください。きっと明日はもっと良くなって行きますから」
と言って彼に一冊の本を差し出した。数年前、職場でもこのようなことを経験していたので、手渡されたその本をすばやく見て宗教の勧誘だと悟り丁寧にお断りした。
 また、ある時は、彼にそっと近づいて来たかと思うと一緒に歩きながら
 「私達のような患者の互助組合をこの病院内に作りませんか?」
と意味不明な事を言われ言葉に窮したこともあった。
 それだけでなく、怪しげな若い女性を決まった曜日に目にするのだった。ガンの宣告を受けたり、検査結果に打ちひしがれたような男性を野良犬のように見つけ出し、その男性に近付いてはそれとなく話しかけているように思われた。彼女はそんな男性を励ます言葉を掛けながらその男性の弱みに付け込んで、彼のカネばかりでなく心まで奪おうとしているのではないかと卓次は想像をたくましくするのだった。
 また、駐車場で、老女自らがワンボックスカーから車イスを降ろし、セットして座り、付き添いの娘のような女性に車イスを押させている光景を目にして唖然としたこともあった。とにかく車イスを押したり、押してもらっている人もいろんな人がいる事に気づいた。
 学校もよく社会の縮図だと言われるが、病院も様々な人間の素の姿を映し出す場のような気もするのだった。
 そんな中でも特に気になった人物がいた。その人物は卓次と同じ三十代後半の男性で、車イスの小奇麗な身なりの老婦人をゆっくり押しており、この一か月、ほぼ毎日顔を合わすのだった。車イスの老婦人は彼に押してもらいながら整形外科の骨折・捻挫外来に通っていた。彼も卓次のようにいつも会社勤めのような服装でいた。老婦人の息子かも知れないが、孫と言っても言えなくはない気もした。ただ、何となく二人には距離感があるような気もした。この老婦人には「年寄り扱いをするな」というオーラを感じるのだった。
 そんな老婦人の気持ちを熟知しているのか、彼はスマートに車イスを動かし院内をすいすいと動いていた。二人には何となく距離感があると思ったが、阿吽の呼吸かも知れないと卓次は思い直しもした。
 彼とは受付でも待合でもまた、薬局でもよく見かけた。お互い目礼をし、挨拶をする関係になっていたが、気さくに言葉を交わす関係にはなれそうになかった。彼に卓次をどことなく寄せ付けない空気を感じるのだった。            
ところがある日、車イスの後ろで会計を待っていると、彼が卓次に近付いてきて話しかけた。
「そちらは週当たりのペイはいくらだい?」
卓次は訳が分からず黙っていると
「実は大変なんだよ。こっちは」
と少し声を押さえて卓次の耳元で話し始めた。
 「婆サン、久しぶりだ久しぶりだとか言って、ハッスルしちゃってさ、腰を痛めちゃったんだよ。それで旅行をキャンセルして病院に来てるんだけど、歳だからなかなか良くならないんだ。医療費も想定外で困ったよ。おたくはどう?長くかかりそうかい?」
 卓次は彼が言っている意味がよく分からなかったが、母親がすぐ前にいる状態で、何度も聞き返すことも出来ず、ただ生返事をするしかなかった。
 それでもはっきりしたことは彼が卓次を仲間、言い換えれば同業者と思っているという事だった。

ある日のこと、自宅に病院の薬局から電話があった。母親には五、六種の薬が出ているのだが、痛み止めの薬を薬局内で落としたのだった。それに気づいた薬剤師が自宅まで連絡してくれたのだ。その薬は夕食後の服用でもあったので、夕方になっていたが取りに行く事にした。
駐車場に停め、急いで薬局に行き、シャッターが閉まっている薬局のドアホーンを押し、用件を言うと薬剤師が出て来て無事薬を受け取ることが出来た。
ホッとして広い駐車場に戻ると、いつも敵意があるような視線を投げてくる栗色のショートヘアのあの女が、群青色の大きなボルボステーションワゴンのそばに立っていた。何か異様な雰囲気を感じたので、卓次は近くにあるワンボックスカーの陰に隠れた。すると彼の右の視界に一人の若い男の姿がぼんやりと入ってきた。女はその男を待っていたのだ。男は女に何か言いながらそっとドアを開けたようだった。女を助手席に乗せるのかと思ったが、そのまま一人車を走らせ消えて行った。
隠れていたのがバレるのもまずかったので、できるだけ自然に彼の愛車マーチに近付いた。その気配を感じた女は彼に視線を投げながら
「お母さんの状態はどうですか?」
と卓次に意外な事を言った。女の思いがけない言葉に、卓次は
 「まあまあです」
と答えるのが精一杯だった。広い駐車場にポツンと一人とり残されたような女に
 「送りましょうか?」
と自分でも予想外の言葉が緊張した口から飛び出した。
 「近所の噂になるのでやめとくわ」
 「近所って?」
 「とぼけないでよ」
 「とぼけてなんかいませんよ」
 「ホント?私の事、覚えてないの?」
 「・・・」
 「あなた、市山さんでしょ?私、あなたの家の筋向いの新山康美よ。あまり覚えてないようね」
と康美はどことなく拍子抜けしたような声で言った。
 実際、卓次は康美のことは全く覚えていなかった。少しの沈黙の後、康美はゆっくりと話し出した。
 「いい機会だから話すわ。ずっと前のことだけど、おたく、プランターにいろんな花を植えていましたよね」
と言われて卓次は幽かにあの時の記憶がよみがえって来た。
大学の三回生だったあの当時、戯れのつもりで遊んでいたゼミの女に本気でホレて溺れてしまった挙句、ポイと棄てられ、大学に通うことが出来なくなった期間があった。その時、気を紛らわすためにパンジーやベゴニアなどを大事に育てていた。それを小学校低学年の女子数名が家の敷地に入って来てその花を触ったりしていたので、大声でいきなり「さわるな!」と吠えたことがあった。花をいじられ、損なわれた怒りが当時の卓次にはなかなか収まらず、数日後、小学校から帰宅する彼女が家の前を通り過ぎる時、背後から「おい!こら!」と大声を上げ鬼の形相で睨みつけたことがあった。そのことに触れて康美は
 「あれ以来、男性が怖くなったの。一種のトラウマよ。だから今、病院の受付にいても、話しかけてくる男の人には常に身構えてしまうのよ。傍から見ると情緒不安定な職員だけど、元を正せばおたくのせいよ。都心で就職していると聞いていたので、まさか病院でおたくの顔を見るとはビックリだったわ」
 卓次はただただ聞いているしかなかった。康美はさらに話し続ける。
 「でも、おたく、よく実家に戻ってこれたね?」
 「どういう事?」
 「うちの母親とおたくの母親は、ともに夫がいないという事でそれなりに言葉を交わす間柄だったの。あんたの過去のことは私も母親に言わなかったしね」
と言う言葉に卓次はまたドキリとしたが、静かに康美の言葉を待った。
 「おたくの母親は、親を棄てて出て行った息子に二度と敷居を跨がせないと言ってたそうよ。そのことを聞いた時、子供心に無理もないと思った。おたくの母親の気性の激しさは近所でも知られていたしね。その近所の噂を気にしてたのか、やせ我慢なのか知らないけど、それからよくおめかしをして旅行などにも出かけたりして近所では「跳んでるおばさん」ってよく言われてたらしいわ」
 「そうなんだ」
と言いながら卓次は複雑な気分だった。
「就職して家を出た時、母親はむしろ自分の時間が持ててホッとしたと単純に思っていたよ」
「それはそうだけど、きっと彼女は世間体を気にしてたのよ。傍から見ればあんたは親を棄てたのよ。それがどういう訳か知らないけど、おめおめと実家に戻って来た。しかも敗残兵のようなおたくに病院へ送り迎えしてもらっている彼女の気持ちを思うと、私まで悲しい気持ちになってくるわ」
と言う言葉を聞きながら、卓次はこの近所での自分の立ち位置を思い知らされた。確かに母は卓次の前では能面のように自分の感情を出さず、必要以上の事は一切言わない人間になっていた。一言でも言えば、言いたいことが洪水のように襲ってくるのを恐れていたのかも知れない。
 康美は急に難しい顔になった卓次をチラッと見ながら、少しトーンを違えて言った。
「さっき、私達を見た?ボルボの男性と付き合ってたんだけど、私の性格が分かったのか最近よそよそしくなってきたので、じっくり話をしようと待ってたの。でも御覧の通りよ。確かに医者になるまでに相当の時間とおカネを費やしているので、私のような情緒不安定な女と関わってると将来がダメになると思ったんでしょ。きっと私のような女は一度寝れば十分と思っているのよね」
と言って康美は寂しそうに笑った。気付くと二人は立ったまま一時間近く話していた。
 「送るよ。暗くなったので家の近くまで送っても誰にも気づかれないよ」
と言って家の近くまで康美を車で送った。途中、康美は
 「でも、おたく、エラいわね。毎日・・」
と言って卓次の言葉を待った。だが、卓次は何も答えなかった。答える代わり<オレは根っからの怠け者なんだ。世間で言う一流企業に就職が決まった時点で燃え尽きたのかも知れない。あとはこんなことをして何になるんだと愚痴ばかり言うヤル気のない孤独な社員で、入社後半年で窓際になったんだ。ただエクセルだけはどの同僚よりも出来たので、十数年生き延びたが、そこまでだった。それからは、会社の備品の持ち帰りに始まり、仕事を中途半端のまま早退したり、仕事中、同僚の女性社員に誰彼構わず「お茶しませんか?」と誘ったり、タガが外れた性格は元に戻らず、何のためらいもなく会社のカネに手を付けクビになったんだ。退職金は当然無くわずかな貯金だけしか残っていなかったオレは、アパートからも追い出され、やむなく母親が一人暮らしをしている実家に帰るしかなかった。実家に帰ってきてもぐうたらなオレの性格は変わらず、母親の年金をあてにするパラサイトなんだ。だから母親は大丈夫だと言うけれど、これ以上体調を崩したり、死んでもらっては困るので毎日病院へ連れて行ってた。それに、そうすることで近所の人達は母親の介護のために地元に戻り、テレワークしながら母親を毎日病院まで送り迎えしている孝行息子と思ってくれるだろう。実はそれだけじゃないんだ。孝行息子を演じながらあわよくば病院の看護師や事務職員やそれに薬剤師から好意を持たれ交際にまでこぎつけ、いい思いが出来るんじゃないかとも期待してたんだ>と心の中で独り呟いていた。

 彼に付きまとうネガティブな事象のようにねちっこく蒸し暑い日だった。母親のリハビリを終えて帰宅する途中、自動販売機に車を寄せて水を購入した。その時、うっかり釣り銭を取り損ね地面に落としてしまった。小銭は自動販売機と壁との隙間に入り込んでいた。卓次はかがみ小銭を何とか掴みながら立ち上がった時、自販機の側面に貼られているポスターが目に入った。そこには怪しげな中年女性の写真があり、男性募集という大きな文字が中央にあった。その下にはリッチでゴージャスな有閑婦人のお世話をしませんか。前払い週給制、高額報酬保証などの文字が踊っていた。
 卓次は病院であの男から話しかけられた不可解な言葉の意味をようやく理解した。

 数日後、その日は朝からとにかく暑い日だった。母親のリハビリを終え、ようやく家に着き、無言の母親に寄り添いながらドアのカギを開けようとした時、母親が急いで郵便受けに入っている封筒を取ろうと卓次の肩から離れた時、バランスを崩しよろけた。その拍子に郵便受けに入っていた封筒が地面に落ちてしまった。卓次はそれを拾って見ると母親宛の分厚い封書だった。表の住所と母親の名前の下には督促状と赤くスタンプが押されていた。ふと裏を見ると住所などはなく、熟女ふれ合いクラブと印刷されていた。その時、母親のバツの悪そうな表情が顔にしっかりと出ていた。

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