ご近所ミステリー19不都合な隣人

あらすじ:
 突然のリストラに遭った多田木良治の隣りの空き家に五人家族が引っ越して来た。だがこの家族はどことなく奇妙な家族でもあり、その頃からいろんな事件も耳にするようになった。また、不適切な女性関係のある良治だが、いつしか事件に関わって行くことに・・・
ご近所ミステリー第十九弾です。読んで頂ければ幸いです。
※なおご近所ミステリー第一弾から第十一弾は「#ミステリー小説部門」にもあります。 

多田木良治は国立大学の工学部卒のエンジニアだったが自社の業績不振のあおりを食って五十を前にして突然のリストラに遭った。昨年中古ではあるが市内の高級住宅地に一軒家を購入し、理系でもあるので順風満帆と思っていただけに妻芳江のショックも激しく、彼自身も心の整理が付かず無気力な日々を送っていた。今となれば子供が出来なかったことが幸いに思えるのだった。
失業した当初は「今度は私の出番ね」と強がりを言っていた芳江も今では何も言わなくなっていた。ただ、多少の貯えもあるし雀の涙にしろ退職金も出たので、意欲が湧いてくれば働けばいいと思っていた。彼のキャリアなら仕事が無いことはないので、それほど悲観することは無いと自分に言い聞かせていた。だが、不景気な芳江の顔を見るたびその考えもおぼろになって行きそうだった。

そんなある日、良治がスーパーに行くと
「あら、お久しぶりですね。奥さんの代わり?」
と良治は自治会内にある美容院のマダム脇田多恵から声をかけられた。
「え、まあ。妻はギックリ腰をやっちゃいましてね」
「あらまあ、お盛んな事」
「何言ってるんですか。ずっしり重い宅急便をうっかり受け取って腰を痛めたんですよ」
「ま、それはお気の毒に。お大事にね。それに旦那さんもウチに来てくださいよ。今は男性の髪染めは美容院でする時代ですよ、それに私、上手ですヨ」
と艶っぽく言われまんざらではなかったが、何気ないこんな会話でも誰かに見られていると、痛くもない腹を探られるのだとも思うのだった。
 それでも寂しさが身に沁みる夜になると、多恵の中年の色香が彼の飢えを目覚めさすのだった。
すぐにでも多恵の美容院へ行き髪染めをしてもらいたかったが、すぐに行くのも本心を見透かされそうなので一週間程して多恵の美容院へ行った。店内には多恵の他に二名の美容師もいたが、多恵が素早く良治に応対してくれた。良治を見た多恵の顔に多少驚きの表情が浮かんだが、セットチェアに案内しビジネスライクに髪を染めてくれた。
「よくいらしてくださいましたね。やはり男の人は髪染めをすると随分若返りますね。良い感じですよ」
と鏡に映る良治の目をしっかり見つめながらお愛想を言うのも忘れなかった。良い気分だったが、家に帰り芳江の顔を見るなり気分がしぼむのだった。
 ひと月近く経ったある日、ふと多恵が気になり散歩しながら美容院のそばを通った時、驚いたことに、美容院の前には黒塗りの車が二台停まっており、何かあったようだった。そして入口のお洒落なドアは上から半分ほどシャッターが下がっていた。実は、ついでにまた髪を染めてもらうのもいいかなと思っていたのだが、良治は家に帰るしかなかった。

仕事への意欲も未だ湧かず、いい加減な日々が半月近く経ったある日、人の話し声が隣りの空き家から聞こえて来た。窓を開けてみると引っ越しによく使われる大型のトラックが空き家の前に停まっていた。ここに来て以来ずっと空き家になっていた家にようやく人が入るのだった。もともとこぎれいなモダンな家で、多くの人が抱いている空き家のイメージとは程遠いものだった。それでも人が入ることに多少安堵した。
そのまま窓から見ていると、四十歳前後の夫婦と思われる二人が引っ越し作業員に荷物の置き場所を指示していた。荷物の出し入れが一段落すれば、こちらに挨拶に来ると思っていたが、結局挨拶には来なかった。
しかし翌朝新聞を取りにドアを開けると、家の周りの片づけをしていた隣りの女性が目敏く良治を見つけ、にこやかな笑顔で明るく朝の挨拶をするのだった。いかにも愛想のいい女性で良治はホッとした。その声を聞きつけたのか、男性も出てきて「初めまして岡名です」と言った。ただ印象としては仕方なしに出て来たという感じがした。良治は自分と同じように、普段は無口で人付き合いはあまり好きではない感じがした。
その日の午後も何やら話し声が聞こえて来たので、窓から見ると彼らの両親なのか、七十前後の男女の姿が見えた。少し遅れて合流したのかも知れなかった。さらに夕方には高校生のような若い男の姿もあり五人家族のようだった。
いちいち見ているわけではないので、詳しくは分からないが、自治会長には挨拶に行ったようだった。また、翌日にはペットなのか子犬を連れて近所を散歩している二人の姿があった。さらに数週間後には早速犬の散歩友達もできたらしく、歩道の真ん中で話し込んでいる姿が見られた。夫はともかく、この妻はいかにも社交的だった。
夫は会社の役員なのかテレワークなのか分からないが、家にいたりいなかったりしたが、彼らは休日の自治会の清掃活動やボランティア活動、それに女性の方は児童の登下校の指導などにも参加していた。
一方、老夫婦については、老夫は盆栽の手入れに余念がなく、老妻は家の周りをいつも丁寧に清掃しているのだった。ただ、二人が庭で話しているところを見たことは無かった。

良治は多恵の美容院のその後のことも気になり、しばらくして髪染めに多恵の美容室へ行ってみた。その時、店内は思いのほか広いという印象を持ったのは、今まで二名の美容師がいたが、今は多恵一人で切り盛りしているせいだと気づいた。良治は以前と同じように髪を染めてもらったが、店内に二人きりと言うのは得も言われぬ空気感があり、良治は言葉を探していたが、多恵はそんな良治の気持ちとは裏腹に
 「そう言えば、半月ほど前、多田木さんのお隣の空き家に引っ越して来た家族ってどんな感じ?」
と思いもよらぬことを多恵は訊いた。
「特に隣りだからと言って交流がある訳でもないのでよく分からないけど、何となく奇妙な家族のように感じるね」
「どういうところが?」
と多恵は訊いた。
「いや、これと言うことは無いけど何となくね。それがどうしたの?」
「この間来たお客さんが、明朗な奥さんばかりでなく無口な旦那さんもいろいろ自治会の活動にも参加していて活動的よ、と言ってらしたのでね」
などと多恵は言ったが、そのような話は密かに予想していた話題とは異なり何となくつまらなく、これ以上いても盛り上がることはなさそうなので帰るしかなかった。多恵は彼の気持ちを察したのか
 「いい感じになりましたよ。また来てくださいね。きっとですよ」
と上手なお愛想は相変わらずだった。だが良治は多恵とは意外に波長が合うことが分かった。
 
異変は美容院ばかりでなく隣りの家でも起こっていた。
引っ越しして来てから数週間は平穏な日々が続いたように思われたが、高校生と思われる男の髪が突然金髪に変わっていた。これには良治も驚いた。その翌日の夕方の事だった。窓からそっと見ると隣りの家の玄関口で金髪の男と三十代と思われる男性とが何やら言い合いをしていた。
「オレは直さねえぜ。昭和じゃないんだぜ。今は金髪にしたぐらいで家庭謹慎はないだろう。新聞読んでいねえのか。こういうのをブラック校則と言うんだ」
「我が校は開校から人はまず身だしなみからと言うのが伝統的な校訓なんだ。多くの卒業生も従ってきた。だから頭髪を元の状態に戻してもらいたい」
「オレは直さねえぜ」
などと言い合っているのだった。おそらく担任の教師で、頭髪を元に直さないと家庭謹慎が解除されないなどと言っているのだろう。そこへ母親が出てきて
 「ここでは何ですからどうぞ家の中にお入りください」
と言ったが
「こんなセンコーを家に入れる必要なんかない。とっとと帰れ」
と金髪の男は悪態をついていた。諦めたのか男性は少しするといなくなった。
普通なら高校に行っている若者が一日中家にいるというのは隣家の住民としては気持ちの良いものではなかった。しかもそれ以降、しばしば数台のバイクがやって来るばかりでなく、いつの間にかバイクで出かけていることもあった。先日の夕方の件は近所中でも知れ渡っており、散歩等で通る住民も問題の家をしげしげと見て通るのだった。

 その後ひと月も経たない頃、良治は多恵の美容院にまた行った。その良治の淫靡な気持ちを察知した多恵は髪染めが一段落した時
 「セットチェアに座っていると疲れるでしょう。奥の部屋でくつろぎませんか?」
と言った。勿論その日はもう客は来ないと思ってのことだ。セットチェアが三脚並んだ奥の方には、カーテンで仕切られてはいるものの四畳半ほどのスペースがあり、そこにレンジや冷蔵庫などの他、ベッドを兼ねたソファもあった。
 良治は出されたモカに口を付けるのも忘れ、飢えたビーストのように執拗に多恵を貪った。その後のけだるさのせいではないが、良治は言葉に窮し口を開くのも躊躇った。それでも沈黙に耐えられず
 「この店、失礼だけど前はもっとスタッフがいたよね」
と言った。
 「そう、高級住宅地という立地もあって経営も順調に行ってたわ。面倒臭い夫を追い出し、仕事が本当に面白くなってきて、支店を開くことも考えていた矢先、あなただから言うけどタレコミがあったのね。少し前、予告もなしに税務署職員が数名やって来て帳簿など調べられたの。正直に言うと脱税していたの。ウチの店には二名の美容師が働いていたけれど、売上等については私が慎重に管理していた。だから脱税に関して彼女達から漏洩したとは絶対に考えられないわ。実際、翌日店に来た彼女たちは店内の様変わりに仰天して自ら辞めて行ったの。このことは近所に知れ渡り、やむなく一週間ほど休まざるを得なかったわ。とにかく私はあのタレコミでこの住宅地にあってみんなの笑いものになったのよ。幸い大学生になっていた娘は都内でアパート暮らしをしているので、無様な様を直接目にすることは無かったけどね。私がこんな事態になったこと知ってるでしょ?」
 「女房が何か言ってたけど、詳細については知らなかったよ」
 「あそう。近所の人はみんな知ってるのかと思ってたわ」
と言って口を噤んだ。少しして
 「店を閉めていた時、どうしてたの?」
と良治が言うと
 「別に」
とそっけなく言って、どうしてそんなことまであなたに言わねばならないのと内心思ったが、<あの時、若いツバメと温泉地を回っていた。ツバメは突然の誘いに最初は喜んでいたけれど、度重なる私の求めに疲れ果てていた。だけど、ツバメと絡んでいても私の心は絶えず「誰のタレコミなんだろう?」の思いが消えなかった>などと良治の一言でつまらないことを思い出していた時
「でもよく持ち直したね」
と言う良治の言葉で我に返った多恵は
「そうよ、ホント大変だった。従業員の未払いの給与、設備投資のローン、追徴金の支払いなどがあるため歯を食いしばってでもこの店をやってゆくしかないのよ」
と言う多恵の言葉に良治は女の決意を感じた
 「それにね・・・」
 「それに何だい?」
 「垂れ込んだやつも憎いしそれに乗っかって、手のひらを返したように私を笑いものにした近所の人間もみんな憎いわ。それに女の意地と言うか負けてたまるかと言う気持ちもあるの。あの高慢ちきな松浦麗子と吉住福江よ」 
 「へえ~」
と言いながらこの近所でもいわゆる有名人の名前を耳にした良治は多恵の次の言葉を待った。
 「多くの客は離れて行ったけど、あの二人だけは今まで通り来るの。でも今度来るときはきっと閉店していると想像してはにんまりしている筈よ」
 「言ってる意味がよく分からないな」
 「あの連中とはね、ウチの娘が行ってる大学繋がりなのよ。同じ大学に通ってるんだけど、ウチの娘と違って彼女たちの娘は付属の幼稚園に始まり小中高のエレベーターで大学に入学したいわゆる生え抜きなの。それで大学を支えているのは私のような外様組じゃなく生え抜きの我々だというプライドを持っているのよ。あの連中は同じような仲間とサロン的な集まりを定期的に行い自尊心を満足させていて、私とははっきりと線引きしているのよ。しかも、当てつけのようにしばしば行う彼らの集いの前日には髪のセットに来るのよ。さらに二言目には「あなたのお嬢様、私たちの大学に入学できて良かったね」と上から目線で言うのよ。私の娘はおカネやコネではなく実力で入学したのよと言いたいけれど、この地で美容院を経営してゆく以上沈黙するしかなく、彼女らは私のうんざりした表情を見るまで容赦しないのよ。だからそんな彼女達には負けてられないの」
とあくびが出るような多恵の長い話だったが、無理に松浦麗子の名前を出したのか、多恵の真意は分からなかった。ただ黙っているのも変なので
 「それは大変だ」
と良治は一人呟きながらいつの間にか芳江のいる家に帰って行った。帰途、この住宅地で高慢ちきで有名な松浦麗子のことを思い出さずにはいられなかった。

あれはひと月ほど前の雨の夜だった。駅前のタクシー乗り場で、鼻持ちならない松浦麗子がたまたま良治の前にいて、車が来た時に振り返り「お宅も一緒にどう?近くでしょ」と言った。彼女は後ろにも目がついていて良治に気づいており、便乗することになった。その時、ハローワーク帰りに都内で飲んだ酒が少し残っていたせいもあり、艶やか色のネオンに誘発され、つい「遊びましょうか」と彼女の耳元で呟いてみたら、意外にもすんなり頷くのだった。これには酔いがさめるほど良治はビックリした。適当なところで降ろしてもらい、逃げるように路地を曲がり、記憶をたどりながら古ぼけたホテルにたどり着き、麗子とのワンナイトスタンドを楽しんだ。 
しかしながら、二人が無言でそっとタクシーに乗り込んだところを誰かに見られており、そのことが多恵の耳に入ったらしく、近所の噂の格好のエサになった。無職で風采の上がらぬ良治と高慢ちきな麗子との組み合わせは面白おかしく尾びれ背びれが付き、ついには芳江の耳にも入ったようだった。
だが、芳江は何も言わなかった。もう言い争う関係にさえなっていないのだろう。

 隣りの高校生は相変わらず金髪で、学校にも行っていないようだった。
そんなある日、近隣の市でバイクによるひったくり事件が相次いで起こり、この住宅地でもパトカーが巡回するのを目にするようになった。
 またある日、パトカーがゆっくり巡回していたので、いつもの巡回かと良治は思ったが、その日は幾分異なっていた。
「最近、この市や近隣の市でもオレオレ詐欺や架空請求や偽の還付金などの詐欺事件が多発しており、被害者も出ている模様です。皆さん、不審な電話やメールそれに手紙などには十分注意してください」と連呼してパトロールをしていた。この住宅にもかと良治は思った。

 だがそのような一連の詐欺事件もひょんなことから犯人が逮捕されるに至った。
老人が自転車でかなりの距離を走っていたのか、駅前でよろけて倒れ意識を失ったのだった。そばにいた通行人からの通報で救急車が駆け付け応急処置を施したおかげで、その老人は意識を回復した。だが、ポケットから数枚のキャッシュカードが出てきて、不審に思った救急隊員が交番に連絡した。
警察官はその老人を交番に連れて来て、名前や住所を聞くのだが、認知症なのか認知症のふりをしているのか、老人はうつろな目をして一切口を利こうとはしなかった。そこへスーパーに停めていた自転車が無くなったと交番に申し出てきた老婦人が、その光景をじっと見ていたが
 「あの老人、ウチの近くの空き家に最近引っ越ししてこられた人で、確か岡名さんという盆栽好きのおじいさんですよ」
とそっと警察官に告げた。このことから事件が発覚し、芋づる式に何名かが逮捕されることとなった。

 数日後の新聞には「ネットで集められた空き家住民」という見出しで、事件が詳しく報道されていた。それによると、美容師脇田多恵は様々な詐欺をするためにネットで夫婦役祖父母役の四人、子供役の一人、それに教員役の計六人をネットで集め、そのうち五名を自分名義の空き家に住まわせ、住宅地内ばかりでなく近隣の市の住民から金をだまし取ろうとした容疑で県警は脇田多恵他六名を逮捕した。この一、二か月に渡り、公務員や教員や医者からは主として有料アダルトサイトの料金未納、主婦宅にはマッチングアプリに絡む料金未納、小さな子供がいる宅にはゲームの課金未納、それに高齢男性からも有料アダルトサイトの料金未納などの架空請求ばかりでなく、医療費控除や介護費控除などの様々な架空還付金による詐欺被害も多発しており、これら一連の詐欺事件は脇田多恵が疑似家族に指示をしていた模様である。なかでも夫婦役の二人は住宅内ばかりでなく近隣の市の狙いやすい住民の職業や家族関係の情報を主として集めており、老夫婦役の男女と高校生役の男それに教師役の男は受け子や掛け子としても動いていたと思われる。また、高校生役の男は盗んだバイクで他県でも受け子として動いており、そのたびに黒髪のかつらをつけていたと見られる。なお脇田多恵は黙秘している模様とあった。

新聞でこの事件を知ったオレだが、それほどの驚きはなかった。多恵はお金を必要としてネットでリクルートしたのだろうが、同時に彼らを利用して垂れ込んだ人間を見つけようとしたのではないだろうか。それで黙秘しているような気もした。
誰が垂れ込んだか、多恵は内心血眼になって探していた。それも当然のことだ。あのタレコミがなければ、あんなふうに無謀なことまでして金をだまし取ろうとはしなかっただろう。
誰が垂れ込んだのかって?オレだよ、多田木良治だよと言いたいがそうではない。

オレがリストラに遭ってからと言うものは、オレたちの家の中は無言の修羅場になって行った。オレたち夫婦には子供がおらず、いつでもどこでも絶えず二人だった。しかも角地の家で隣りが空き家だった事も「主人在宅ストレス症候群」に拍車をかけ、さらに最悪の「二人の世界」を作ってしまった。そんな状況で妻はぎっくり腰を繰り返し併発していた。
 麗子は確かに高慢ちきでいやな女だが、オレの腑抜けた根性をリセットしてくれる面白い女でもあった。それにあの古ぼけたホテルのベッドで「多恵の美容院はあんたがこの住宅地にやってくる前から、主婦仲間では脱税してるというのは公然の秘密だった」とも言っていた。
オレも莫大な借金を抱えている多恵が二人の女を見返してやるという女の意地だけで美容院を続けられる筈はないと思っていた。また、多恵もリクルートした人間を自分名義の空き家に住まわせるというあまりにも無謀なやり方に不安を覚えたためか、以前オレに彼らの様子を聞いていたのだった。
 それにオレは知っていた。あの雨の夜、麗子の後ろでタクシーを待っていた時、オレの後方にいた人物を。オレは男だが、匂いには女以上に敏感なんだ。家庭内別居で実質他人と同様だが、何をおいても我慢ならないのが芳江のあの安っぽい香水の臭いを嗅がねばならないことだった。あの雨の夜、タクシー乗り場で一瞬、その匂いを嗅ぎそっと周りを見たが奴さんはいなかった。だが、どこかで見た男が一瞬通り過ぎ、端でスマホでメールをしていた。その時、「じゃな」と言って別れる高校生を見てオレは思い出した。金髪と言い合いをしていた担任と思われた男だった。奴さんはあの言い合いを猿芝居だと見抜いたのだ。それがあの男と安物の香水が移り沁みつくような濃密なコンタクトを取るきっかけになり、芳江も適当に遊んでいたのかも知れない。
それにその不快な匂いは以前、別の場所でも感じた。スーパーだ。別に奴さんに頼まれて買い物に行ったのではなかった。オレがリストラに遭って間もない頃から家庭内別居になり、食事も家計も完全分離になっていた。そしてオレがスーパーで多恵と話しているところを奴さんに見られたのだ。奴さんはオレが多恵のところに髪染めに行き、きれいに黒髪に染め上げられたオレを見てどんな気持ちだったろう?とは言え、たとえオレに憎しみが湧いてきたところでどんな意味があるのだろう?つまりオレは奴さんにとってリベンジする値打ちもない人間だったってことだ。その苛立つ気持ちは多恵に向いたのだ。麗子も多恵の美容院の実態を知っていたくらいだから、奴さんもその状況を察知していたのだ。奴さんつまり芳江はオレへの憎しみを多恵に向け、知りえた情報を税務署にタレコミの投書したのだ。

この閑静な高級住宅地には様々な騒動があったが、オレと芳江の関係には何ら変化の兆しは無いままである。 

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