ご近所ミステリー25 魔の母娘
あらすじ:
公立高校の数学科教員の正木田直紀は家族が増え、この近所の中古住宅を購入し引っ越してきた。彼がこの近所で感じたことは、やたら子供達が多く、あちらこちらで遅くまで遊んでいるという事だった。直紀は特に中学三年生の子供達をチェックしていたのだが、彼らの中でとりわけ茶髪で尖った感じのする少女が気になるのだった。彼が恐れていたように彼女は直紀の高校に入学して来た。予想通り彼女は直紀を振り回すばかりでなく・・・
ご近所ミステリー第二十五弾です。読んで頂ければ幸いです。
三十代半ばになる正木田直紀はアパート暮らしだったが、次女が生まれたことで手狭になり、初めてローンを組み、昨年一戸建ての中古住宅を購入した。この界隈に引っ越しして感じたことは、やたら子供達が多いという事だった。とにかくあちらこちらの道路や広場で遅くまで子供達の叫び声がこだましている。日々、少子化と言う言葉を耳にするが、この界隈では全く無縁のように思われた。
何よりも経済的なことを優先したため、そのような環境であることを事前に考慮することも無かった。要するに、直紀一馬力では3DKのこの家しか選択肢が無かったのだ。それに職場から比較的近いことは彼にとっては不安材料であったが、経済的理由を優先せざるを得なかった。
彼は公立高校の教員だった。だから、近所に住む子供達が職場である高校に入学して来る心配があった。彼は近所の住民にこの近くの高校の教員だと知られないように、もうすぐ三歳になる長女に「お父さんはどこに行ってるの?」と訊かれても「分からない」と言うんだよと言っておいた。妻は直紀の心配など全く眼中になく、生まれた乳児の世話をしながら、この地域に溶け込もうとしていた。それに、もともと明るく社交的な妻は、近所の独特の雰囲気をあまり気にかけているようには見えなかった。勿論直紀の仕事について口を滑らすことは無かった。
元来無口で、近所の事には無関心に見える直紀だが、近所でよく見かける子供達のチェックを忘れることは無かった。普通中学生にもなるとあまり外で遊んだりはしないものだが、この近所の子供達は外でウロウロ集団で遊んでいるのだ。おそらく彼らは中学校では勉強が分からず大人しくしているが、帰宅後はようやく自分を取り戻し大声を張り上げて遊んでいるのだろう。そういった生徒は他の公立高校や私立高校に行ってくれればいいが、偏差値の低い高校に行く生徒もいるだろう。それが心配なのだ。直紀が勤務する高校は、いわゆる教育困難校で、学習指導ばかりでなく生徒指導も大変な高校である。もしそこで、そういった生徒の担任になるとどうなるだろう。校則違反のバイク乗車や喫煙行為などで家庭謹慎になる近所の生徒宅に直紀は毎日家庭訪問をしたり家庭連絡をすることになる。生徒指導上の問題を起こさなくとも成績面で留年することも考えられるし、不登校になる事もないわけではない。そういう事態になれば直紀は近所のその一人の生徒のために振り回されることになる。直紀は今、二年生の副担任をしており、来年度は新入生の担任になることはほぼ間違いないのだった。
そんな中、三月になり、直紀は近所の中学三年生四、五名の中でもとりわけ髪をまっ茶に染め尖った感じの女子生徒が気になっていた。その少女はいつも遊びほうけている連中の中にいるのだった。
今まで直紀は最悪の事態を覚悟していると大体逸れて行ってくれた。だから習慣として直紀はいつも最悪の事態を想像する癖がついていた。だが、今回は逸れてはくれなかった。入試当日、その近所の中学生の中で茶髪の少女だけが受験室に座っていた。直紀の勤務する高校はよほどのことが無い限り、答案に名前を書けば合格できるような高校で、高校浪人を出さないための失対事業だと言う同僚もいた。実際、受験者全員が合格したばかりでなく、数十名近くの欠員が出て二次募集をすることになった。だが、ともかく直紀は覚悟をしなければならなかった。
数日後、当然のように新担任団に入っていた直紀は、二次募集の結果を待たずに新学年のクラス分けの会議に出席していた。クラス編成をする際に、要注意生徒に対して配慮をする高校もあるが、直紀の勤務校はどの生徒もそれなりの生徒なので配慮してもあまり意味が無く形式的なものになっていた。そして新学年主任によって機械的に各担任に新クラスの生徒名簿が机上に置かれていった。二次募集で入って来る生徒はその名簿に追加されることになる。直紀は覚悟を決めて名簿を上から見て行った。直紀の目が下にたどり着いた時、あの茶髪の生徒である桐岡紗千香の名前は無かった。直紀は地雷を踏まずに済みホッとしたが、激しく波打つ胸の鼓動が隣りの若い新卒の教員に聞かれるのではないかと心配でならなかった。
その日の新担任団の会議はそれで終わったが、数時間後に数学科の教科会が待っていた。そこで担当するクラスが決められるのだった。直紀はまた胸の鼓動がドッキンドッキンと波打つのが分かった。油断してはならないのだった。教科会は五十代半ばの数学科主任が仕切り、
「今年度は先生方の机上にある用紙の通りに行いますので、先生方、今年度もよろしくお願いします」
と一言言って終わった。例年通りだった。直紀はおっかなびっくりそっと目を開け担当クラスの名簿を上から下まで目を通した。担当するどのクラスにも桐岡紗千香の名前は無かった。もう一度確認したがやはり無かった。この場でも地雷を踏まずに済んだ。直紀は自然と口元が緩み<この一年、何とかなる>と思うのだった。
その一週間後、昼食時に数学科の臨時教科会招集の放送が入った。二次募集の生徒が出揃い、選択数学の担当者の発表があるのだ。
「一年生の選択数学希望者は三十名ほどおり、本来なら一人が担当するのだが、教員の持ち時間の平等を考え四クラスに分割しました」
と教科主任は蒼ざめている直紀に気に留めることもなく、もったいぶって言った。直紀は油断していた。普通、勉強が苦手な生徒は数学ではなく、社会や理科、特に生物を選択するとたかをくくっていたが、あろうことか、直紀の目の前の机上の小さな用紙には桐岡紗千香の名前が書かれているのだった。<流れ弾に当たってしまった!>まさにその心境だった。さらに直紀は先日、校長が職員会議で
「先生方には今年度から今まで以上にきめ細かい指導をお願いしたいと思っています。授業についていけない生徒をなくすためにも、やむを得ず欠点を付けた生徒には分かるまでマンツーマンの指導もお願いしたいと思っています」
と言っていたことを思い出した。そうすることで県教委から評価され、この教育困難校からおさらばすることを目論む校長の魂胆は見え見えだったが、直紀はその校長の言葉を他人事のように聞いていた。だが、今はそれが鉛のように重く彼の小さな心臓に垂れ下がっているのだった。
直紀は欠点をつけることを避けるため、翌日の教科会で
「本校では定期試験はすべて共通問題でしたが、各クラスの実情に応じ、担当教員がそれぞれ受け持ちのクラスの試験問題を作るというやり方はどうでしょうか?」
と提案したが
「それは無理です」
と教科主任に一蹴されてしまった。<あの桐岡紗千香と個別で教科指導を・・・>と思うだけでフラフラするのだった。
新学期が始まったが、予想通り選択数学の授業では教卓の目の前の席で桐岡紗千香は教科書もノートも持たず、居眠りを決め込んでいた。
少人数教育と言われて久しいが、直紀は以前からそれには反対だった。一クラス四十名程いるクラスだと、内職している生徒にも寝てる生徒にも漫画を読んでる生徒にもスマホを出して動画を見てる生徒にも気づかないふりをしながら授業を進める事が出来た。だが、こんな少人数だといやでも生徒が丸見えで、気づかないふりをして授業を進めるには無理があった。強引に進めると必ず「先生、だれだれ君は寝ています」「先生、だれだれさんはスマホでゲームをしています」と生徒が言ってくる。それでも以前の直紀なら不思議そうに見つめる生徒達の視線を無視して授業を進めることもあったが、今ではネットで「ウチの高校では無法地帯になっていても何も注意せず授業をする数学の教員がいる」「ウチの高校には税金泥棒の数学の教員がいます」と書かれる恐れもあるのだ。<世知辛い時代になったものだ>とこぼしてみても詮無いことである。
それなりに時間が経過し、恐れていた中間考査の時期になった。予想はしていたものの、紗千香の答案は白紙だった。直紀は担任を持っていたが、クラス内で、いじめや不登校の問題、それに盗難や暴力事件が起ころうとも、どこか他人事のように見ていた。その時の直紀には近所に住んでいる紗千香といかに付き合うかが問題であった。
悶々としている直紀だったが、学校は毎年中間考査前後に中学校との連携を密にするため、教員は分担して近隣の中学校を訪問することになっていた。その時、直紀は紗千香の出身中学に行き、紗千香についてそれとなく訊いてみようと思った。
当日、放課後、直紀はその中学校へ車を走らせた。応対に出てきた五十代半ばと三十代半ばの二名の教員に対して、直紀は各学年、各分掌等で日々取り組んでいることを話したが、いつも通り熱心に耳を傾ける様子は無かった。それもその筈で、いくら高校の取り組み等を話しても、中学校にとっては直紀の高校は最後のすべり止め校なので、彼らの反応も無理は無かった。ただ、今回は直紀にはすべきことがあった。それとなく、桐岡紗千香について訊く必要があったのだ。年長の教員は
「桐岡紗千香ですか?う~んう~ん」
と言葉を探しているようだったが、
「いやあ、特に問題となるような生徒ではなく、どちらかと言えば自分の意見を持っている生徒だったかな。どう?」
と言って年長は若い教員に振った。
「そうですね。特に問題となるような生徒ではなかったですね」
と若い方は一人頷いていた。直紀はこれで紗千香が彼らにとって厄介な生徒だったことを知った。「自分の意見を持っている生徒」とは「校則など何とも思わない厄介な生徒」と言う意味だろうと思った。<やっぱりそうか>と思いながら駐車場に行く途中、「先生!」と声をかけられた。直紀が振り返ると
「あなたですか、桐岡紗千香について聞いておられたという先生は?」
と言いながら三十代後半の男性が近づいてきた。
「ええ、まあ。少し気になることがありましてね」
と直紀は曖昧に答えると
「先生に何て言ってました?ウチの教員は」
「別に問題のある生徒ではありませんとおっしゃってました」
「ま、そう言うしかないですよね」
「えっ、どういうことですか?」
とすかさず直紀は言った。
「聞きたいですか?でもあなたとは初対面ですし、詳しくは話せませんが、とにかくあの生徒のために二人の教員は辞めましたよ。あなたはあの生徒と関りがあるんでしょ?いきなりネガティブなことを聞かされたら楽しくないでしょう。また機会があれば話しますので連絡先を交換しておきましょう。私は八吹と言います」
と回りくどく言った。直紀は
「私は正木田と言います」
と言って別れた。何であれ紗千香は中学校でも大変な生徒だったことは間違いなかった。
直紀は気が重かった。土曜日だけは多少ホッとするが、日曜日になると時間が経つにつれて気分が重くなるのだった。そんな直紀を見たくないのか、ここ最近日曜日の昼下がり、妻はそっと家を出て行くことが多くなったようだ。確かにネガティブの権化のようなオレの顔なんか見たくないよなと思う直紀だった。
徐々に気分が滅入ってきたある日曜の夕方、気分転換に近所を散歩していると、初老の男が直紀に近づいてきて
「あんたも大変だね」
とポツリ言った。近所付き合いは極力避けている直紀なので、その男性が誰なのか分からなかった。そんな空気を読んだのか
「私は自治会長の原坂です」
と初老の男は言った。
「あー、それはどうも」
と言いながらも、紗千香のことが自治会長の耳に入っていることに少し奇妙な感じがした。
奇妙と言えば、紗千香の選択数学の欠席が増えて来た。いやな予感がしたので、職員室にある紗千香のクラスの出席簿を見ると、出席はしているものの選択数学の授業だけ中抜けしているのだった。直紀はあえて担任にこの状況を話す気にならなかった。直紀の高校も他の多くの高校同様、規定の欠席数を一時間でもオーバーすれば、それが一科目でも進級は出来なくなる。それでもとにかく紗千香と関りを持ちたくなかったのだ。
それからしばらく経ったある日曜の午後、珍しく直紀のスマホが振動した。誰かと思ったら、八吹からのメールだった。「今日、夕食ご一緒にどうですか?」との誘いだった。以前、中学校訪問した時の彼の思わせぶりな言葉が蘇ってきた。
待ち合わせのレストランで二人は言葉少なげに安いカレーを食べた後、モカをゆっくり味わいながら二人は言葉を探していた。
「ところで」
と八吹が口を開いた。
「気になるでしょ。二人の教員がどのようないきさつで辞めたのか」
「ええ。ぜひ聞かせてください」
「一人目をA教諭としましょうか。Aはいつもミニスカートのように制服のスカートを短くしていた桐岡紗千香にスカートをもっと下に下げなさいと言ったんですよ。桐岡はどうしたと思いますか?」
「分かりません」
「これ見よがしにスカートを徐々にどんどん下ろしていったんですよ、下まで。その様子を二、三人の生徒が見ていたんです。翌日、桐岡の母親が怒鳴り込んで来ましたよ。指導の行き過ぎどころか、ハレンチ行為でもう指導のレベルをはるかに越えてますよと校長に抗議しました。その上で、教育委員会ではなく新聞社に言います。目撃者もいるんですからと言うのでした。それ以降、家庭のあるAは登校しませんでした」
と唖然としている直紀をチラッと見た後
「もう一人のB教諭も同じような事ですよ。ネクタイを外し制服のブラウスのボタンを上から三つあたりまで外していたので、ネクタイを着けてボタンをきちんと留めなさいと優しく注意をしたらしいんです。そしたら桐岡はブラウスの残りのボタンも外し始めたのです。これも近くに二、三人の生徒が見ていました。あとはAと同じような事です」
「へえ~、驚きましたね」
「でも不思議でしょ。どうして同じような事が起こったのか?」
「ええ」
「桐岡は、相手をもっとも効果的に振り回すやり方を心得ているんです。それは残念ながら天性のものだと思いますよ」
と言いながら八吹は直紀を一瞥した後
「さらに最近、こんなこともありましたよ。桐岡の中学の元担任が高校でちゃんとやっているか気になって桐岡に連絡を取ったんです。そしてファーストフード店で会っていろいろと話をしたんです。元担任はそれなりに高校生活を送っていることにホッとしましたが、暗くなっていたので駅まで送ってほしいと言われたんです。途中、桐岡は急に入り組んだ路地に入りあちらこちら歩いた後、ラブホテルのある辺りをウロウロしだしたんです。元担任は変な気を起こし、桐岡の腕をつかんでホテルに入ろうとすると、彼女は「やめて!誰か!」と大声を上げたんですね。近くにいた数人が元担任と桐岡を引き離しましたが、それが公になり元担任は学校を追われましたよ。お分かりと思いますが、元担任とは私、八吹です。桐岡はある意味天才です」
と言う八吹の顔は苦悶に満ちていた。少しの沈黙の後
「そうだ、桐岡はこんなことも言ってましたよ。「選択数学のセンコーはいつもおどおどしていて、それがとても面白く、見ているとつい吹き出したくなるのでいつも寝てるんだ」って。気を悪くされました?」
「いえ別に」
「ま、そういう生徒ですから気を付けてください。家庭もおありなんでしょ?」
「ええ」
「あ、それに、あなた、桐岡の母親のことについて中学校で何か聞きました?」
「いえ、全然」
「桐岡の母親はね、彼女自身、高校時代、教員からひどい目に遭ったらしいですよ」
「どうしてそんなことまでご存知なんですか?」
「いやそれは・・・」
と一瞬奇妙な間があった。
「何かあったんですか?」
「正木田さん、あなただから言いますけど、一時ですが、私、彼女と男女の関係になってたんです。その時、彼女が高校時代に受けたことへの怒り悔しさ悲しさなど言ってましたよ。ま、それだけ当時の彼女には、教員といえども寄せ付けない何かを持ってたんでしょうね」
「それが桐岡紗千香に遺伝したとか?」
「それは分かりません。ただ、母親は今もその恨みを持ち続けている気がします」
と言った後、八吹は
「じゃ、私はこれで」
と言って静かに店を出て行った。彼の後ろ姿を見送りながら冷めた残りのモカを口に含んだが、これほどまずいモカは初めてだった。
直紀はいろいろ聞かされたが、これと言った解決策にはならず、気の重い日常は変わらなかった。担任するクラスにいる不登校の生徒がこのままの状態が続けば進級不可になりますよ、と教科担当から言われても直紀は桐岡の中抜けの欠席の事で頭が一杯だった。当の桐岡は、たまにひょっこり授業に出席していることもあったが、笑いをこらえているのか教卓の前の席で相変わらず寝ていた。
しかしながら一学期の期末考査では桐岡は八十点を取り、中間考査の零点との平均が四十点で欠点をクリアした。ただ、期末考査で八十点を取るという事はどういうことか?もともと数学的センスを持っていたのか、人知れず努力していたのだろうか?それとも計算していたのだろうか・・・?そう言えば、一学期も後半になるにつれて、授業でも徐々に途中起きていることもあったし、中抜けの欠席も少なくなって来ていた。
一学期末になり直紀はクラス担任として、クラスに十人近くいる成績不振者や出席不良者の指導に前向きに取り組んでいた。やはり桐岡に欠点が付かなかったことが、彼をポジティブにさせていたのかもしれない。
学期末のそのような指導も終わり、夏休みに入った。一昔前は教員も「二学期に向けて、多角的な教材研究を行う」などと書いた用紙を提出すれば、生徒と同じように約四十日間、グータラして過ごせることもあったが、今ではこれと言ってすることが無くとも暑い中、毎日登校せねばならなかった。
直紀は推理小説でも読みながら、ただひたすら職員室に座っているのだが、はっきり言ってこれほど退屈で無意味な時間は無かった。隣に座っている若い女性教師のあくびとため息ばかり耳にすると、口を利く気さえ起らなかった。
そんなある日、暇つぶしに何かいい読み物は無いかと三階の図書室に行ってみた。どうせこの高校だから読書している生徒なんかいないだろうと思ったが、数人の生徒があちらこちらで読書をしていた。その中に紗千香がいた。こちらを見た紗千香と一瞬目が合った。さっと退室したかったが、もう遅かった。しかも紗千香が直紀を笑顔で見ていた。直紀は目を疑った。直紀は言葉を探しながらそっと紗千香に近づいた。
「数学八十点、よく取ったね」
「数学は小さい頃から好きなの。センセが読書?イメージがわかないわ」
「そう?もっぱら推理ものだけどね」
「ますますイメージがわかないわ。どんな作家が好きなの?」
「うーん、松本清張や笹沢左保かな」
「知らないわ」
などと紗千香は直紀にタメ語で話し続ける。直紀はそんな紗千香に大した抵抗も感じず
「松本清張の「或る「小倉日記」伝」は読んだ方がいいと思うよ」
「ふ~ん、でも興味が無いわ。私はラブストーリーの方がいいかな」
と少し話題が変わりかけた時、直紀はそれとなくその場を離れ職員室に戻って行った。
職員室の時計が五時を回り、ようやく長い長い一日が終わった。「やれやれ」と言う気持ちで駐車場に行くと、彼の愛車である中古のフォルクスワーゲンゴルフのそばに紗千香が立っていた。驚いた直紀は言葉も忘れ、無意識に車に乗り込んだ。そこでとにかく何か言葉を発しようとした時、素早く助手席のドアが開き紗千香が体を滑り込ませてきた。
「心配しないで。ママにはセンセが私の選択数学を担当しているなんて言ってないから。いつかはバレるかもしれないけどね」
と神妙な口調で言った後、急に明るいトーンで
「私、数学をもっと勉強したいんだけど何かいい参考書か問題集ある?休み中にやってみようと思うんだけど」
と言う紗千香に上手く反応が出来ない直紀だったが、彼女は構わず言葉を続ける。
「それにさあ、ウチのクラスの男子からしつこく言い寄られてるんだけどどうしたらいい?ウチの担任はおじいちゃんだから話しても分かってくれないと思うの」
と言う紗千香の言葉は直紀の耳には入らず、一刻も早くこの車から出て行ってほしいとひたすら願っていた。その時だった。隣りに停まっているアウディの持ち主である教頭がフロントガラス越しに直紀と紗千香をジロリと覗き込んでいた。そのとたん、紗千香は勢いよくドアを開け走って行った。これ見よがしにブラウスをスカートにねじ込み、スカートをきちんと直すしぐさをしながら。
どのように車を走らせ家にたどり着いたか、直紀ははっきりと覚えていなかった。だが夢遊病者のような直紀の頭を家の前に停まっているパトカーの旋回する赤色灯が現実に連れ戻してくれた。家の周りには口を利いたことは無いが見覚えのある顔がいくつもあった。よく見ると警官が二人いて、一人はやや太めの中年女性を玄関横で何やら事情聴取を行っているように見えた。また、もう一人の警官は妻を連れて家の中に入ろうとしていた。その時、直紀は
「夫の正木田直紀です」
と言って一緒に家の中に入った。それを機に十名近く集まっていた近所の住民は少しずつ家に帰って行ったようだった。
直紀は警官の説明で、怒鳴り込んで来た女は紗千香の母親であることを知った。さらにその日、紗千香の母親は妻に「いつまで待たせるんだ」「しっかり自治会の仕事をしろ」と大声で喚き散らしていたので、それを見ていた隣りの主婦が警察に通報した事や、二人に怪我は無かったが、紗千香の母親は妻につかみかかろうするほど激高していた事などを知った。
警官が帰った後、直紀は改めて妻から詳細な事情を聞いた。直紀も妻が今年度から自治会の環境整備委員をしていたことは知っていたが、問題を抱えていたことは全く知らなかった。妻の話によると、五月半ば頃までは特に問題は無かったのだが、その後、臨時の役員会が何度か招集され、役員ではないのに出席している桐岡紗千香の母親から「いつになったらウチの前にカーブミラーが設置されるのですか」「以前から言っているのに近所にゴミステーションが設置されないじゃないですか」「昨年度からの引継ぎ案件ですよ。キチンと引継ぎがなされてなかったんですか」などと執拗に攻撃されたとの事だった。さらに先日行われた自治会の清掃活動に少し遅れたこと対しても、「環境整備委員が遅れたのはどういうことですか!」と激しく叱責されたとの事だった。
桐岡の母親は急にこみあげてきた怒りを抑えきれなくなって怒鳴り込んで来たのかもしれないと直紀は思った。
「今までそんな大変な事を抱えていたのにどうして僕に言わなかったんだい?」
と一応言ってみると、妻は
「毎日学校へ行くのも辛そうなあなたにそんなことを話せば、あなたはきっと登校できなくなると思ったのよ。だからネガティブな事はめったに言わないことにしてたのよ。でも何となく変なのは、臨時の総会でね、あの女、一度「何よ高校の教員の妻だと思って」とポロッと言ったのよ。よく分からないけど、何かそのことがキッカケになったのかしら?」
「ボクにもよく分からないな」
ととぼけて言った後、
「ボクが教員だなんて、言ってないだろう」
「勿論言ってませんよ。あなたが言うなって言ってたから」
と言った時
「この前ね、隣のおばちゃんがね、佳代ちゃんのパパのね、お仕事はなあーにって言うからね、センセイ、コウコウのってね、言ったけどね、どこに行ってるのか、知らないって言ったよ」
と三歳の娘佳代が泣き出しそうな顔をして言った。直紀は隣りに住む主婦の歯茎を見せて高笑いする顔を思い出していた。
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