兆さんと千さん、億政さんのこと

※『百と卍』5巻までを読んだ最初の感想です。
※続きを読んだら随時更新予定。
※作品外の情報を仕入れていない状態で個人が受けた印象なので、作者様の  
 意図や真実とは異なる部分が多々あると思います。



『マイペースな美人』。
第一印象はそれだった。
見ず知らずの若者から突然「ちょいと羽織貸しつくンな」と頼まれても動じず、あっさり手渡す。しかも喧嘩の仲裁に入る役まで担ったという。お百の策を吟味する時間は無かったろうから、綺麗な顔して結構な度胸である。
当の本人は涼しい顔で、どこか超然としているというか、茫洋とした人に見える。表情が乏しい。口数も少ないけれど、金ちゃんと親しい様子を見て、『ならきっと良い人なんだろうな』と思える。

どの角度から描かれても美人である。
ちょっと翳りのある吊り気味の目尻に物憂げな下がり眉、華奢な骨格と長い首。幸薄そうな唇が却って色っぽい。
万次の兄ィや火消し衆、祝さんの放つ雄の色気とは違う、何かもっと淡泊でさらりとした艶めかしさがある。
それでいて兆さんは、ちゃんと『男』である。
この時点ではまだ彼が世帯を持っていることを読者は知らないが、彼は『涼やかで粋な江戸の男』の魅力に溢れていた。しっかり手に職を、地に足をつけて生きている町人の安定感がある。
その第一印象こそが、後々の展開で受けるインパクトを更に増大させた。

「紋々」と「弟」の話題に至った時、兆さんは明確に口を噤む。
読む側は既に万次さんと千さんの過去に触れているので、"人は動物だから力が貰える"と語る人を知っている。
「弟が紋々の彫師だった」という紹介と(読み返すと『だった』という何気ない金ちゃんの表現にまで確かな情報が込められていたことに気付いて感嘆する)、舞留の薄紅梅を吸っていた、千さんの『あンなに忘れまいと想った野郎』の存在が、不在のままここで一気に匂いたつ。

彼の話は後に回して、とにかくお百と兆さんの邂逅はまだ終わらない。
私が勝手に『地に足ををつけて生きている人』だと思った兆さんは、「舟が好き?」というお百の問いに振り向いて「風まかせ波まかせ」「たゆたって流れに身をまかせている時」「心持ちがよくって」「気に入ってンだろうね…」と語る。
こんなにたくさん喋る人なんだ……である。
この時見せた笑顔を、初めて読んだ時の私は『好きなもの(舟でたゆたう時)を想うと自然と顔が綻ぶんですね』と思った。それは実際そうなんだと思う。ただ千さんの言葉を引用している事実を注視すると、『本当にこの時想ったのは、舟のことや流れに身をまかせることについてでしたか…?』と余計な勘繰りをしそうになってしまう。
兆さんにとって舟は千さんとの接点を保てる唯一の媒体で、彼にとってそれがどれだけ重要な意味を持つかを認識して読むと、欄干に肘をついて風に吹かれる表情に殊更グッとくる。
特に深く考えず笑っているお百が可愛くて、魂が浄化される……。

初読時の感想から連ねようと思ったのに先走ってしまった。
この時点での兆さんは、表情や言葉に感情の起伏が少なく、風まかせ波まかせ……世のものに執着しない、淡々とした人なのであろうという印象だった。
社交的には見えないのに、羽織を返そうとするお百にわざわざ『また逢おう』という意志表示をする。まったく粋である。
美しく、超然とした、良い男。
すごい安定感だ。
すごい安定感の筈なのに、「彫師だった」弟の存在と、危険人物すぎる男の言葉を口にしたことで、兆さんのことが漠然とそして猛烈に不安になる。『こんな意味深な美人に何もない訳がない』という謎の確信を抱く。
そしてそれはすぐに現実のものとなる。


真っ暗な水面の表現が堪らない舟の場面で、不安は別のものに昇華した。
この二人が一緒に描かれる時を心配していた。
心配したけど、兆さん冷静だ……と思った直後、千さんが笠をとって顔を露わにしただけで、『ああ』なってしまうのがすごい。昼間はせいぜいちょっと笑ってみせてくれただけなのに。
もう(読者からすると)最初から、千さんは兆さんを「万の字やあいつ」と比べて憚らない。つらい。兆さんは「一向かまやしねェ」って言ってるけどこっちがつらい。万次さんはともかく、死んだ人間には誰も敵わないと知っている。図らずもそのことには、後で兆さん自身が言及している。

ここが個人的に一番びっくりして、且つ兆さんから目が離せなくなった要因でもある、千さんへの「熱り」「情念」を伴う烈しい執着。
お百に見せた落ち着きが堂に入っていた分、その時との対比、落差があまりにも鮮やかで、一気に心を掴まれた。
川の水に顔を押し込まれても、足蹴にされても、(お尻剥き出しにされても)微塵も揺るがない。
兆さんの何が好きって、それだけされても「下せェ」という要求を千さんにしっかり突き付けられる強さである。完全服従のいじらしさだけでは終わらない。この度胸は、昼も夜も一貫している。ちゃんと一人の人間として成立しているので、意外性に驚かされるのに納得もいくのだ。

もちろん兆さんにすれば、それは強さとか度胸といった類のものではなく、「はじめて」知った激情に突き動かされて自分でも制御できなくて、ただ無我夢中で縋り付いているだけなのかもしれない。
それでも、その一種のパニック状態にあってなお想い人に何かを要求できるというのは、確かな逞しさだと思う。
儚くて触れたら壊れそうな美貌の人が、ただ柔く脆いだけではないと知った時の高揚。もう一気に虜になった。
なので千さんの「強欲な男には虫唾が走る」を『酷い言い草だなぁ』と思ったものの、読み返すほどに『確かに兆さんは強欲なお人だ……けど……そこが堪らないですよね』と思うようになった。
ありがとう千さん。



次はまた昼間の兆さん。お百と兄ィが会いに行く駒形の渡し。
見目で選んでいる訳ではないだろうに、兄ィと兆さんがお互いを認識する場面で『千さんは面食いだなぁ』と思ってしまった。お顔に泥つけて働く男の美しさよ。昼間のパパはちょっと違う……。
舌を巻くのは、お百や万次さんと話している時の兆さんが、しっかり第一印象そのままの人だということ。
妻子持ちであることを心底「別に…」と思っているのが伝わってくるし、「嬶ァの何が関りある?」も照れ隠しなどではなく本当に不思議に思っているのがわかる。時代が違うから自然なことなのだと頭で理解していても、現代の感覚ではちょっとこわい。
そういう時は可愛いお百がいつも気持ちを和ませてくれるんだ……。
「すけべ」を巡る二人のやりとりは微笑ましくてホッとする。ホッとした瞬間に卍さんが不穏な気配を察する。もうこの緩急の激しさが、千さん兆さん絡みの堪らんポイントの一つでもある。目が離せない。

「人の"持ち物"」呼ばわりするのに兆さんを抱いてやらない千さんは実に罪な男だと思う。苛立ちが爆発寸前の千さん、正面から言い返すお百に対して、この場の兆さんは冷静である(船頭スタイルも綺麗だ……)。
咄嗟に千さんからお百を守る決断力と行動力。めちゃくちゃキレてる千さんにオロオロすることなく、真顔で『何が気に喰わねェンだろう』と考える落ち着きぶり。二人きりの時は顔を合わせただけであんなにドキドキしてたのに…。兆さんのこの読めない感じが底なし沼。



出逢いの回想、これは時期にしてどのくらい前なんだろう。千さんに万次さんがつけた傷があるから、一度は『あいつ』のことを忘れられるかと思った後だというのはわかる。
「人生は私の心に関係なく進む」と感じていた兆さんが初めて抱いた情念、欲求が『何もかもを奪われたい』だったことは実に業深い。
ただこれは千さんの業でもあると思う。
いくら愛した男と自分を重ねて寂しげな顔を見せられたって、相手が並の男だったら兆さんは多分そんな風になってない。これは千という男が有無を言わさず人を夢中にさせる魅力の持ち主だからこそ起きたことで、皮肉にもそれが新たな地獄の始まりでもあったという。

また描かれる順番を少し無視して語ってしまうと、千さん億政さん、兆さん(更に言えば万次さんまで含めて)の間で起きることは、始点となる千さん億政さんの二人が共に『他社のその後の人生に影響を及ぼすほどに魅力的な人物である』ことが、成立するための必須条件なのだと感じている。
そして当然『百と卍』という作品においてメインとなる二人ほど丁寧にエピソードを重ねられる訳ではない(5巻までの時点で)ので、彼らがどういう男たちであるかは、限られた描写で語られるし、読み取るしかない。

億政さんが特別な「どこまでも良い男」だったから、千さんは「己を曲げてはじめて やさしくしてやりてェと思った」し、今も忘れられない。
その千さんは億政さんが自身の「傑作」に値するとみなした「野獣の見世物」で、万次さんが(色々あったとはいえ)初めて肌を許したほどの男っぷりである。
素人の感想なので全く客観性に欠けることを自覚しながら言うことになるけれど、これがもう滅茶苦茶に『わかる……』のだ。

僅か数ページの回想で描かれる億政さんの魅力的なこと。
どんな魅力的な「弟」が出てきたって、こっちは既に兆さんに肩入れして読んでるんですからね…彼以上の人物なんて認めませんよ……という気持ちで読んでいたのに、すごい勢いで理解させられてしまった。
千さんが認めるほど、顔立ちそのものは兆さんと同じ筈なのに、表情で全く違うタイプの美人に見える。
少々やんちゃな表情と明け透けな物言い。悪態もつく。
図太く世を渡っていけそうな『強さ』が見て取れるのに、不意に縋りついて「死にたくねェ」と吐露する。胸を痛める千さんの手に頬を寄せて笑う。
もうこれ全世界が『解らせられた』でしょ……。
そりゃ「やさしくしてやりてェ」し「閉じ込めておきてェ」し手放せねェよ……千さん……私が解ってなかったよ……。となった。
「何故"お前"の骨を」の頁で並ぶ双子を眺めては、『兆さんの美貌は下がり眉あってのものだから……』などと決め込んでいた己を恥じた。どちらも違ってどちらも綺麗だし、大事なのは顔そのものの造形の美しさというよりも、人間的な違い、それぞれの個性が表情に表れているが故の差異であると、読む側が自然に受け止められたこと。

繰り返しになるが、この『億政さんがどれだけ魅力的な人物であったか』という点は、千さん兆さんのストーリーを受け止める側、読者をどれだけ納得させられるかにおいて非常に重要な要素だと思う。
少なくとも私は完全に降伏した。
すごいと思った。何もかもに納得がいった。

それは同時に、今後描かれるという千さん兆さん編に向き合うにあたって、多分めちゃくちゃしんどいぞ……という恐れに拍車をかけるものでもある。
億政さんの死についても、改めて描かれたりするんだろうか。まだ「痩せこけてゆく」最中でなお一気にこちらを夢中にさせた姿と、綺麗な骨しか見ていない。なのにもうすっかり千さんの心情に添ってしまっている。
こわい。でも知りたい。
新たに何かがもたらされた時、この数ページの回想に触れた時のように、自分の中の全てが一気に引っ繰り返されるかもしれないと思うと、不安と期待がどろどろに湧き立つ。


駒形の渡しの場面に戻らねば。
千さんの舟から離れた後、お百に胸の内を打ち明ける兆さん。
その後の胸の内で、"兄ィ"が"鬼殺の万次"であったことを改めて受け止めて、「生きている奴になら──」という思いと共に「有り難うな」とお百に告げる。
もう本当にこのお人は……「私は一向かまやしねェ」って千さんに言ってるけど、実際のところ完全にそう思っている訳ではないという。
『敵う』奴には奪われたくない(むしろ順番的には自分の方が後だから、なんなら『奪いたい』になるのかもしれない)。ちゃんと欲がある。いいぞ……!
この、ただ『与えられるものなら欲しい』という消極的な態度ではなく、千さん曰く「餌のように俺の周りを彷徨き」、ちゃんと「下せェ」って自分から求められる兆さんの積極性と貪欲さが、儚げな美貌と『欲や執着の薄い人』という最初の印象との強烈なコントラストを描いていて最高。
回想明けにちゃっかり千さんを膝枕している度胸も素晴らしい。

兆さん全然一筋縄でいかない。
いっそ千さんの方が直球で葛藤している。
この人でなし!と思っていた筈の千さんの人間味がクローズアップされると、相対的に兆さんの正体の知れない部分が浮き彫りになる。


『正体の知れない』という印象に繋がるものとして、千さんが見る兆さんには、そこはかとなく妖の気配がある。これも完全に個人の印象なので、読み取りが誤っている可能性しかないけれども。
なんとなく生者としての体温があやふやで、全てを差し出してきている筈なのに、胸の内にあるものが読み取れないような得体の知れなさ。
これは千さんが兆さんを「以津真天」と呼ぶことにも、二人の遣り取りが夜の闇の中で交わされることにも影響されている印象だと思う。
千さんが兆さんを、今なお『死んだはずの億政』が『何故か自分の骨を持って語りかけてくる』存在として認識しているのは一種の自縄自縛で、自分が億政さんの骨(=遺体の一部)を持ち続けていることを彼がどれだけ強く意識しているか、の表れだと思う。
以津真天は死んで遺体を供養してもらえない人の怨念が基になっている妖怪だから、千さんは兆さんを『解放してやれない自分の前に姿を現した億政の"呪い"』に他ならないモノとして受け止めたのかな、と……思って……読んでいるけれども、これを書いている時点で紗久楽さわ先生のインタビューやスペース等でのお話に触れられていないので、全くの頓珍漢な解釈であることも十分に考えられる。
まあ本当にただ作品を読んで最初の感想ということで……すみませんが……。

そんな千さんだけど、同も時に兆さんは億政さんとは違うということを既に理解してもいる。し始めている感がある。
えっちな場面はちょっと触れるのがエヘヘェとなってしまうので極力避けるけれども、行為に及ぶか否かという段階で「顔が同じだけの──…」とというモノローグが語られるところが非常にぐっとくる。
だって「──…」には『別の男だ』に類する言葉が入ると思うから。
兆さんと億政さんが別個の人間であるという事実を千さんが受け止めた時、果たして何が起きるのかを思うと、先のお話が待ち切れない。
待つのが幸せで苦しい。

強欲で貪欲なのに「だめ」って言う兆さんが好きだし、彼の表面だけ確かめて「つまらねェ」って断じる千さんがもう愛しい。なんだろう兆さんの一筋縄ではいかなさを噛み締めるほどに、どんどん千さんが愛しくなってくる。
ズタズタに心を踏み躙ってやったつもりでいるのに、された方の兆さんは「傷つけてくれ」たと思ってるし、なんなら「あと少し手を伸ば」すことまで考えていた。
涙を拭った後の表情も最高に好き。この表情をした瞬間に何を思ったかのモノローグがないことが、無限に想像を掻き立てる。
千さんが億政さんを想い出し「手放せねェ」ことに囚われているのに対し、兆さんは『先』『次』のことを考えているようにも見える。
好き。

おほのさんなぁ~~~~!!今の時点では最も語るのが難しい。
千さんのこと多分全部解ってる(「ご兄弟と旧知の仲」であることまで言及してるし)上で「健気でおぞましい」と言い切る。
所帯持ちであると語られた後、ううむ…いつか兆さんの家庭が描かれたら、千さんと兆さんの道行きに狂う読者は神妙な気持ちになってしまうだろうな……と思って構えていたものの、奥方もここまで読めない感じの女性だと思っていなかったので唸らされた。
兆さんの向こうに描かれている影絵?がものすごく気になる。
早く人様の感想や解釈を読み漁りたい。一旦まっさらな状態で自分の感じたことを吐き出すまでは何も頭に入れないぞ、と思ったら、考えた以上に纏まらなくて時間がかかってしまった。

読み返して違う印象を受けたり、先の展開で考えが引っ繰り返ったりしたら、基本的に消すのではなく追記していく予定。
がっつり千さん兆さん億政さんのことが描かれるのが楽しみで楽しみで、少し怖くて仕方ない。こんなに夢中になれる作品に触れさせていただけることに、改めて感謝申し上げます。


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