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無人島・鳥島への最終便

第1話 プロローグ

20年ほど前、私は日本各地の島々を訪れていました。なぜ「島」だったか、よく思い出せないのですが、当時、旅行ガイドブックシリーズの中で、「島旅」だけを扱った書籍が刊行されていて、それに影響を受けたかもしれません。北は礼文島から南は波照間島まで、まさに津々浦々巡りました。
次はどこに行こうかと考える折り、有人島だけでなく無人島も数多く、その中には日本人であっても訪問すらできない島があることも知りました。伊豆諸島最南端の鳥島もその一つです。(最初の画像が鳥島の全景です)

鳥島は伊豆諸島の最南端。青ヶ島と小笠原の間に位置しますが、どちらからもずいぶん離れています。青ヶ島までは隣の島が見えるため、昔から船で行き来できたのですが、それ以遠になると隣の島が見えないため、江戸時代の航海術では対応できませんでした。
そのため有史以来、「原則」無人島。「原則」と限定したのは、ジョン万次郎のように漂流して島にたどり着いた人が何人かいて短期間住んでいたため、そして、明治から昭和の一時期に「村」があったためです。前者については吉村昭著『漂流』などの作品で紹介されるなど知られています。しかし、「村」についてはどうでしょうか。「アホウドリ撲殺」が影を落とすためか語るのがためらわれている気がします。
さて、漂流して本土に帰還した人の証言もあり、江戸時代から鳥島の存在は伝わっていました。そして、明治になり、小笠原と同様に鳥島も開拓しようという気運が高まりました。
八丈島に住んでいた玉置半右衛門氏はその発起人で、1887年に上陸しました。最初は牧畜を考えたようですが、島を覆い尽くすアホウドリを見て、撲殺し羽毛を採る「産業」に変更しました。この「産業」はずいぶん隆盛を極め、島中にトロッコの線路がひかれたほどでした。絶海の孤島に線路、とても理解しがたい光景です。しかし、同じ玉置が開拓した島である、南北の大東島にもトロッコはあり、1980年代までは貨物列車が走っていました。
伊豆諸島からは多くの人が鳥島に渡りました。渡航の背景には、各島とも耕地が少なく、人口を増やせなかった事情があったからです(200人を越えると人減らしをする御蔵島の例もあったほど)。アホウドリを撲殺し絶滅寸前に追い込んだため、鳥島開拓は冷たい評価にさらされていますが、社会背景を考えると非難ばかりはできないと思います。
アホウドリの犠牲により、島は発展しました。村が開かれ、小学校もありました。火山島ですから温泉もありました。本土と小笠原を結ぶ航路ができた際は、年に数回(4回か)でしたが定期便が寄港しています。

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(青ヶ島郵便局の風景印。鳥島には郵便局はないようだが、あったならばどのようなデザインだったか。アホウドリと流人が描かれたかもしれない)

そんな中、1902年の夏、大噴火が起きました。全島民125人が亡くなり、島の形が変わるほどに溶岩が流れ、火砕流が噴出しました。北側に大きな湾があったのですが、それが全部埋まるほどです。漂流民が滞在していた江戸時代にも噴火はあったのですが、これほどの大災害には至りませんでした。
アホウドリを撲殺し始めたのは明治からです。「鳥の祟り」だと噂になったそうです。

第2話 最終便秘話(1)

さて、「秘話」を紹介させてください。
当時、東京と小笠原の間には船便があり、途中、八丈島、青ヶ島、鳥島を寄港し、小笠原に到りました。往きの船は、1902年8月7日の日中、鳥島に寄港しています。これが最終便になりました。
鳥島の大噴火は、別の船・愛坂丸が8月10日に発見しています。船は鳥島が噴煙を上げているのに気づき、島を旋回したのですが、人影はありませんでした。汽笛を鳴らすにもまったく応じません。集落はもちろん、大きな湾もすっかり噴出物で埋まっていました。島の周りに、家屋のがれき、多数の遺体が浮かんでいたという記録もあります。
噴火はこれ以降も何度かありましたが、島の形を変える規模はこのときだけ。船は危険を感じ、上陸せず東京に戻りました。
目撃者がいないわけですから、どんな災害か不明ですが、噴火が日中だったら、逃げ延びた人もいたと考えられます。船の発見日時を考慮すると、8月7日、8日、9日いずれかの夜、大噴火が起き、火砕流が流れ出したのではないでしょうか。なお、アホウドリは、島を離れている季節だったため、助かっています。

『青ヶ島島史』によると、鳥島への寄港時、いつもと変わらない様子で、前兆らしい前兆は「ほとんど」なかったようです。
その寄港の際、2人の下船がありました。八丈島からの男性、青ヶ島からの女性で、2人はつい数日前、夫婦になったばかりでした。青ヶ島出身の花嫁は、「おとめ」という名でした。この世のものと思えないほどの美女だったそうです。
初夜に噴火、名前は「おとめ」、この世のものと思えないほどの美少女・・・ なぜか、生け贄のように思えてしまうのですが。

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(青ヶ島の情景。同じ火山島の鳥島も海岸は険しい)

第3話 最終便秘話(2)

ここに記したお話は、私がすべて調べたわけではありません。山陰出身で、小笠原に在中していた「アカバさん」が運営していたウエブサイトに基づきます。2000年代に閲覧できました。
一般人が行けないような島の写真も持っていましたから、たぶん、工事関係か公務の方だと思います。

さて、花嫁「おとめ」という名前を紹介しましたが、実名とは思えない名前です。しかし、近年でも、同島には「おとゆ」という女性がいらっしゃいました。青ヶ島ならではの宗教にかかわる「巫女」でして、名前は別の「巫女」に付けてもらったと聞きました。花嫁「おとめ」も実名であり、巫女だったでしょうか。
また、「おとめ」は、人名だけでなく、鳥の名称でもあるようです。鳥島に漂着した人の証言で、「おとめ」という鳥が出てきますが、アホウドリのメスなのだとか。そのような名前を付けること自体、不思議な一致を感じずにはいられません。

鳥島寄港、最終便には別の話もあります。
8月7日、船が若い二人を鳥島に届けたとき、逆に島から一人の男が船に乗り込みました。
島で気分が悪くなり、連れて行ってくれと懇願。伏せるなら陸地にいた方がいいのではと思いますが、何か感じ取ったのでしょうか。前回の文章で前兆は「ほとんど」なかったと書きましたが、この人だけは「何か」を感じたと考えられます。
男は小笠原に行ったのか、それとも帰りの便で八丈島に引き返したのか。
アカバさんは、彼が直前の異常を知っているのではないかと考え、必死に本人を探したそうですが、叶いませんでした。アカバさんが伊豆や小笠原の島々に入ったのが昭和30年代ですから、この男は年代的に生きていた可能性があります。
ただ、鳥島への入植者は八丈島出身者がほとんどのため、皆、顔見知りだったこともあります。自分だけが助かったことを苦にして本人は隠れたのか、親族で知っていたとしても「恥」として黙殺したのか、真相は分かりません。

第4話 100年目の夜

今は閉鎖されましたが、アカバさんのホームページには、各島のこまごまとした地勢や歴史が紹介してあり、非常に興味深いものでした。今ほど情報がない時代、最東端の南鳥島、最南端の沖ノ鳥島も出ていて、私はしばしば閲覧したものです。
ホームページには自由に書き込める「掲示板」がありました。私もいろいろ記したものです。あそこの島に行ったことがあるとか、参考文献の話題とか。

そんなホームページを見ていたある夜、就寝しようかと時計を見たら、ちょうど12時を過ぎて8月8日になったところ。
8月8日、そう、大噴火の候補日だったのです。以前紹介したように、被害状況から噴火は夜中に起きたと考えられます。自分が気づいたときは夜中であり、同じ時間帯です。さらに、驚愕したのは、噴火は1902年で、その夜は2002年。ちょうど100年目だったのです。すぐに手を合わせ、冥福を祈りました。候補日は三つありますが、若い二人が来島した初めての夜なのではないかと思い続けています。

後日、アカバさんに当夜のことを尋ねてみたのですが、全然気づかずひどく後悔されていました。鳥島の開拓団の多くは八丈島出身で、八丈島には慰霊碑があります。しかし、地元新聞「南海タイムス」は何も触れていません。
また、開拓団の末裔は、沖縄の大東諸島に移ってしまいました。南北の大東島では何か催されたかもしれませんが、より近いゆかりの島で哀れむ人がいないのは不憫です。
溶岩の下で眠っている125人の島民が、私に何かを訴えたかったのでしょうか。20年たった今でもそう信じています。最期に、青ヶ島で自生していたサクユリの画像を供え、本稿を終わりにしたいと思います(完)。

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