ステキな週末を
私に掛かっている数ある呪いの内の一つは次のようなものだ。
「ああ、今日はせっかくの休日なのに、何も有意義なことができなかったな。」
まったく、忌々しい。貴方もそうは思わないだろうか。こんなのはしみったれだ。日本テーラワーダ仏教協会のweb根本仏教講義を仮にもつまみ食いした身として、あるいは鈴木祐さんの『無(最高の状態)』を齧った身として、こうまでばっちり二の矢が突き刺さっているのには誠に不甲斐ない限りである。
この、せっかく、というのが良くない。せっかく人に生まれてせっかく生きているのだから、人生何かを成しとげたい。これもまた私の呪いの一つだと認める。期間限定の割引券があるから別段使いもしないモノを買ってしまうとか、用事があって遠出をしたから別段行きたくない観光地でも寄ってしまうとか。せっかく、という言葉はそんなしみったれを私に放射している。
休日はどこかそわそわする。やろうと思ってできなかったこと、せねばならぬと思ってしなかったことが私を苛む。私にとって後悔のない休日とは何だろうか。四季の植物がめいめい背を伸ばす境内を散歩することだろうか。友人の結婚式を祝いに慣れない革靴を履くことだろうか。それとも、猫と一緒に猫に倣って家の中でひねもす暮らすことだろうか。
これは価値観であり、倫理だ。思考の癖であり、神経細胞の連絡のけもの道だ。世界は狭くなって、モノやコトが人生に乗りきらなくなってだいぶになる。世界は短くなって、折り重なった情報は今に私の記憶領域を本当に不自由にするだろう。
効率性や機会損失を追求することそれ自体はそのてん極めて真っ当なことだ。しかし、それは後腐れなくあるべきである。圧縮して空いたスペースは価値で満たされるべきだし、あるいは効率化そのものに価値を感ぜられなければまた空虚である。
私はフォーマル・スーツが好きだ。文化や歴史や美意識の諸々に形式を雁字搦めにされているくせに、それでもなおその枠組み内でせめてもの選択の自由の余地を残しているスーツが好きだ。私にとって価値とは何だろうか。カタログは分厚く、眺めているうちに腰が曲がってしまう。
いや、それにしても、ああ、なんだって私は休日にただ何もせずにおれないのだろう。有意義であるとか、ないとか、そんな物差しを当てることすらもはや厭わしい。しかし、これが、ええい、やめだ、やめだ!といって南中前に布団に潜りこんだとしても、10分を待たず何かに急きたてられてむくり起き上がるか、あるいは耐えきれずうとうと寝入ってしまうだろう。
何かを楽しむためにはそれなりの工夫が要される、と宣ったのはラッセルだったか。とすれば、何もしないを楽しむためにも、それなりの工夫が要求されるだろう。いずれにせよ、こんなのは贅沢な悩みであるなと書けば、サルトルなどは顔を顰めるだろうか。ラッセルも並んでくるかもしれない。
つまるところ、私には信心が足りないのだ。何をしようが、しまいが、「これでいいのだ」と太鼓判を押せるだけの潔さが私には足りない。そういうことで…いや、待て、早まるな。そう軽々に詰まってはならない。「これではよくない」という斥力の強大なるもまた捨てがたく、いや、それより、そもそも脳が改まって評定する余裕があるというのが悩みの種であるわけで、むしろ、あくせく働いてさっさと寝入ってしまう方が、いや、待て、それではスマナサーラ長老に申し訳が…
【主な参考文献】
●鈴木祐(2021)『無(最高の状態)』クロスメディア・パブリッシング
●日本テーラワーダ仏教協会「根本仏教講義」
<https://j-theravada.com/dhamma/kougi/>(参照日2023年11月2日)
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