なぜなら貴方もまた魚雷だから

 何方で伺った何方の話だったか毎度ボンヤリしたまま書いて誠に恐縮だが、漫才というのは異世界への小旅行であるという。

 能や狂言にしても同様だ。拍子木の音はタイムマシンのエンジン音であり、「こりゃまた失礼しました」とばかりに幕が降りきれば、私たちは元の日常へ送還される。
 不可触で完結しており、しかも尊いという幟はある種の結界を構成する。拍手や歓声は「あちら側」の筋書きを改変しようとしない。「君たちはどう生きるか?」という哲学も往々に芸術に成り下がる。出し抜けにインターホンが鳴り、同じ問いを隣人にされたときの血の気を引き方を思えば敵わない。

 先日、澤井啓夫先生の『ボボボーボ・ボーボボ』に寄せられた海外からの感想とされるものの中に「暴力的な表現が多いね」というのを見かけて神妙な気分になった。

 確かにな、と思った。「どつく」ことはツッコミに必須ではないはずだ。

 笑いには日常とのズレが不可欠だという。これも何方の記事だったかを忘れた。ご存知の方がもしおられたら是非ご監修願いたい。羊。
 となればやはりお笑いに緞帳は必要だ。少なくない命題でそうであるように、ズレてさえいれば笑えるとは限らない。煌めく剣を携えた屈強な闘士たちや、雄々しい猛獣共がこの観客席にはよもや上がって来まいという安心がコロッセオを見せ物たらしめる。トタンだかアルミだかの金属塊がただ頭上に降ってくるならそれは高確率で不慮の事故だ。落とす位置、タイミング、カツラに仕込んだヘルメット、そうしたものが彼らを超人に留め置き、彼らはお笑いであった。

 そうだ、ズレがなければ笑えない。思えばそうだ。こんなのは堪らない。実際に金だらいで頭を何針だか縫うことになった人間にとっては。そしてそれを側で看病した人間にとっては、「あちら側」など単なるおふざけに写って仕方ないだろう。

 暴力で笑うためには暴力がズレでなければならない。生成、過程、結果が筋書きの上でこちら側と縺れたとき、共感が頭を擡げてしまうだろう。

これも言っちゃ失礼ですけど。
裸でお盆を持って何が芸なんですか。

デイリー(2017)

 あちら側の人間が全きあちら側であるためには、「ぼくにはとてもできない」、今度の忘年会までにはとてもじゃないが形にならないという凄味が欠かせない。

 ことこの文脈において、テレビは私を大層暈した。
 テレビは街中に浸入する。第一村人がインタビューを受けることは既にさして珍しくもない。聖飢魔IIのデーモン閣下はむかし、世を忍ぶ仮の姿の仮の姿で楽屋入りしようとして警備員に止められたという。
 テレビに映ることは必ずしも凄味に裏打ちされないし、神様はその辺をブラブラしている。YoutubeやTikTokにして同様だ。テクノクラート的価値体系は再生数やチャンネル登録者数の多いことに凄味を縫い付けたが、再生数やチャンネル登録者数が多くなったことと凄味は時に何の符合もない。

 そういえば最近は「この物語はフィクションです」との注意書きも鬱陶しく思った覚えがない。映画や芸術の製作秘話は間々超人の変身を解いてしまうだろう。自身の成功は努力によるもの、他人の成功は努力以外によるもの、という折角のデフォルトも、ジャーナリズムやSNSは融解させてしまうかもしれない。
 ライスボウル氏はかつてトポロ劇場のステージに登り、ビーナスに迫ってガードマンに取り押さえられた。昨今は彼女らに触れることも比較的容易そうに見える。適切な火種と追い風さえあれば。

 結界は弛んだ。ように見える。しかし、これはおそらくラジオや芝居の昔なら良かったとかいう類の話ではない。コロッセオに事故はあっただろう。アリストテレスが悲劇について論じていたそうだが、古代ギリシアといえば寓話がある。私は山に入る際その手の抵抗はないが、ツォディロの岩山なら結界はあっただろうか。

「そうはならんやろ」
「なっとるやろがい‼︎」

大川ぶくぶ(2015)

 私たちはあちら側とどう付き合えば健全だろうか。
 端的、というのはステキな言葉だ。何の端っこかと問われればベルカーブのだと答えられる。なお、語義からして誤りであることを付しておくがそれはそれで中々の皮肉である。羊。
 引用は私のお気に入りの一コマだ。『獺祭』の旭酒造は幻の酒は幻であってはならないと語っていた。であれば、奇跡めく英雄譚も当の本人にしてみれば浄玻璃の鏡であり得る。

 幻のみを用いてなお魅力ある英雄譚は作製できるものだろうか。『ボボボーボ・ボーボボ』に寄せられたコメントの中には「日本人はみんなこれを理解できるんだな。俺たちはまだまだだ」というのがあった。全く、買い被られたものだ。
 ジョアン・ミロのコラージュ作品はしばしば解説が必要かもしれない。しかし、釘や布生地、ポスターなど、視野を絞ればそれが何かはわかるはずであってーーなどと、これ以上は止しておこう。私たちのゴーストライターは勤勉で、一度その気になったなら、それが何であれいずれは何かを見出してしまうだろうから。

 弛まない結界は望むべくもない。これは喜ばしいことでもある。悪意ある結界への"勇者の拳"が私たちには既に組み込まれているということなのだから。
 結界がハラリの言う虚構ならば、その強弱や範囲は恣意的であって、であれば、結界を認識するためには認知資源を消費するはずであって、つまり、というか、万人に対する一律の結界など史上そもそも存在した様があったのだろうか。

 『ヘテロゲニア・リンギスティコ』には「おはなし」というテンプレートを持つことがマイノリティであると表現される一節があった。
 オマキザルは人間で所謂ところの公平感を持つらしい。しかし、それは道徳の証明にはならない。彼らの脳に平等さを検知しているらしい領域があるとわかったためだ。
 ホモ・サピエンスの結界にジャスティン・グレッグの言う"規範"が紛れているとすれば、それは私たちの汎用結界たり得るだろうか。

 いや、むしろ。仮に"規範"がありました、となった場合、私たちはより厄介な問題に絡み付かれるかもしれない。

 むかしある友人が話してくれたことを思い出す。私は雪の女王が恐ろしい。ありのままの姿など、とても見せられない、と。
 リベラル化はある種の地獄を産み出した。そうなったのは、私たちに何か決定的な疎外があったからだと思いたい。しかし、だからこそ、逆に、何もかもが正常に機能したが故に世界は地獄になったしたら。例えばそんなようなことが判明したとして、しめやかに私たちは甘んじるだろうか。

そして輝く喜びの瞬間と
悲しみも、鷲のごとく人間存在の高みから
魂へと堕落する。

ローベルト・ヴァルザー&パウル・クレー(2018)

 十回立ち上がったならそれは辛い。呪文を唱えれば人は誰かになれる。そして六回怒れば人は魚雷に戻れる。
 地獄でなぜ悪いか?と問われれば、それはユートピアではないからだと答えられるが、地獄でなぜ悪いか。と言われれば返す言葉もない。17世紀から既に地獄はもぬけの殻だ。私だって恐ろしい。魚雷が雪の女王と肩を組んでやってくる。

 地獄をただ進むことは蜘蛛の糸を引き摺り下ろすだろうか。ルサンチマンその他によるスリップ・ダメージはその前に彼を狂気に陥れるかもしれない。いっそ私たちが地獄を腐すこともまた魚雷であると暴かれたらいい。そうしたら本稿も少しは浮かばれる。

 貴方と貴方の隣人との間にも結界があり得る。例えば常識という結界が。ぶっきらぼうに隣人は時たま結界を突き破るだろう。なぜなら彼もまた魚雷だから。
 貴方は彼の無神経を非難めいて諭すだろうか。彼を鬱陶しく思った貴方自身を恥じたりするのだろうか。しかし私たちはあるいはそうしていく他ないのでは。そんなわけでタイトル回収です。

【主な参考資料】

●澤井啓夫(2001-2005)『ボボボーボ・ボーボボ』集英社
●衛藤ヒロユキ(1992-2003)『魔法陣グルグル』ガンガンコミックス
●マイケル・サンデル(2021)『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(鬼澤忍 訳)早川書房
●エイプ&ハル研究所(1994)『MOTHER2:ギーグの逆襲』任天堂
●橘玲(2023)『世界はなぜ地獄になるのか』小学館
●大川ぶくぶ(2015)『ポプテピピック』第1巻 竹書房
●ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(上):文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之 訳)河出書房新社
●瀬野反人(2021)『ヘテロゲニア リンギスティコ:異種族言語学入門』第4巻 KADOKAWA  
●ジャスティン・グレッグ(2023)『もしニーチェがイッカクだったなら?:動物の知能から考えた人間の愚かさ』(的場知之 訳)柏書房
●ローベルト・ヴァルザー(詩)&パウル・クレー(画)(2018)『日々はひとつの響き:ヴァルザー=クレー詩画集』(柿沼万里江 編、若林恵&松鵜功記 訳)平凡社 pp.97-98.
●國分功一郎(2022)『暇と退屈の倫理学』新潮社 第4章
●星野源(2013)『地獄でなぜ悪い』SPEEDSTAR RECORDS

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