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人形作家と鏡の男

「やぁ」

現れた"男"は、今が昼前であるにも関わらず一筋の光も差し込まない闇を纏っていた。
背骨に氷を詰め込まれた様な、鳥肌が立つ寒気すら覚える圧倒的な存在感。その手の中に、この世界そのものを握って眺めている様な圧力。
内包する底無しの邪悪とはかけ離れた様な満面の笑みを浮べて、その"男"はいつも現れる。
いつ"来ていて"、どうやって"来ている"のか。それは全く分からない。だから"現れる"。そうメアは認識している。いつの間にか気配すら感じさせずに、机の向こう側に座っていたり、ソファで寛いでいたり。
昼下がりにたまに勝手に上がっていて、気のおけない親しい友人かの様に挨拶をして。少し何でも無い様な取り留めのないお話をして、満足したらまた来るよと言って帰る。お茶菓子や手土産を持って来て、それを勧められて一緒に食べたり、興の乗らないチェスを何ゲームか指す事もある。

しかし今回ばかりは、いつもの様にアフタヌーンティーを(とは言っても彼だけが一方的にだが)楽しもうという穏やかな雰囲気では無かった。
男は何時もの通りにこやかな、人を安心させる為に研究し尽くした食虫植物の様な笑顔を浮かべているものの、その手には何も持たず、椅子にも座らず、腰を落ち着けて話す様なゆとりも匂わせていない。

「…何の用なの」
メアは普段滅多に使わないキッチンを掃除する手を止めて、見上げる背丈の男に訝しむ視線を向ける。
男は男で、メアの剥き出しの警戒心を意に介する様子もなく、慣れたことかの様に微笑み応えた。

「なに、可愛らしいリトルレディをお出掛けに誘おうと思ってね。」
「…嫌。」

きっぱりと、声に少しの怯えの色を滲ませながらもメアは男の申し出を断る。
男はそれが心底意外な出来事であったかの様に目を開いて、「どうして?」と尋ねた。

「十二時に遊びに来るの、人が。うちに初めて。今日はわたしがご飯を作るの。だから、嫌。」

「ふぅん」

飽くまで参考までにそう聞いただけだろう、男の相槌の身の入らなさからメアはそう判断する。
自身の要求が断られるなんて、滞るなんて、この男からすれば思いもよらなかったのだ。

「でも、関係無いね。君はもう誰とも逢わない。」

ただ、男は自身の要求を、意思を、ただの一度も通さなかった事は無い。百余年の生涯に於いても。
それはいつ振りかも分からない程久しい、庭に出た蟻の一匹にも満たない取るに足らない者に拒絶をされても。丁度、木の葉一枚が道に落ちていた所で、進路を変えようとする人間などいない様に。

「……どういう事」
分かっていながら、その質問の答えは既に心得ていて、確信に限りなく近い予感がほんの僅かでも違っていればと半ば縋る様な気持ちでメアは問う。

「分からない程馬鹿じゃないから、私は君が好きなのに。いや、分からなくても良いか。さぁおいで」

何となく不穏な予感はしていた。遠くない内、そんな日が来るのではないかと。彼が彼らしくなく、珍しく他者と仮にも同じテーブルに着いて、言葉で、話し合いでわたしを陥落させようとしている。

そんな"奇跡的な安全状態"が、崩壊する日が。

元より有ってなかった様な物だったんだ。
そんな回りくどい真似をわざわざするという彼の完全な気紛れの上に成り立っていた、バランスにすら見せ掛けたこの茶番劇は。
組木細工の箱から飴を出すのに、解く必要は無い。力尽くに壊してしまえば良いだけ。
彼は一年近く、ただ何となくでパズルを遊んでみて今になってパズル自体への関心を失った。
飽きたのが、たまたま今日だったというだけ。
寧ろ、よく此の日まで保ったと言うべきなのかも知れない。メアはそう思った。

差し伸べられた手を、精一杯睨み付ける。
成る可くいつも通りに、恐怖を気取られない様に。
今背を向けて走った所で、わたしの脚で逃げられる訳が無い。だからせめてもの抵抗として、微かに震える拳をぎゅっと握って男を見据えた。

「…?」

男はそんなメアに対して心から理解に苦しむといった様相で首を傾げた。全く以て意味の無い事だ。
抵抗する術など一つも持たない、多少頭が良いだけで常人よりもずっと非力な彼女が、素直に従おうとしない合理的な理由など存在しない筈だ。
どうせ無駄なのだから、優しく言っているのに。
これだけ歩み寄って応じないのであればと、溜息をついてゆっくりとキッチンのメアに近付いていく。

メアは眼前で崖が崩落しているかの様に、萎縮した様子で後ろに下がる。一歩ずつ、退く度に、男が迫る度に、着実に精神が擦り減らされていく。



「良い子にしてくれないなら、君が一番嫌がる事でお仕置きしなくちゃ」



男の貼り付いた笑顔に全くそぐわない、淡々とした調子の物言いにメアの視界は真っ白になった。

頭がずきずきと痛む。
ざらざらと砂嵐が流れ込んでくる。
さっきまでは平気だったのに、今は寒くて、虫が身体を這い回ってる様な鳥肌と震えが止まらない。
内臓が搾られているみたいなお腹の痛みと苦しさ。

「うぅ…」

感覚のある右手の指先が冷たい。筋肉が硬直してるみたいに、軽く痺れて力が入らない。
口の中もからからに乾いて、舌の根が貼り付いてしまったみたいに声も出せなくなってしまった。
それでも引き摺るように、脚が縺れながら、どうにか逃げないとと下がっていた。

「…ぁっ…」

小さく、声でも無い様な声が出る。
後ろには壁があって、他には何も無かった。

「いや…っ…やだ…」

尻餅をついて、へたり込んでしまった。
縋る様に壁に手を触れても何も起こる筈がない。
助けを呼ぼうにも、この家には誰もいない。

メアのもっと低くなった視線は怯えに震えていた。
幼児の様にふるふると、恐怖に収縮した首をぎこちなく振って必死に拒む意思を伝えようとする。

男は愉快そうに、ふふ、と微笑った。

「おや、メアは"変わった"んだね」

子犬でも見る様な視線で、じっとりと舐め回す。

「今までだったら、そんな明ら様に怯えなかった」

メアが逃げられない分、必要以上に勿体振った様子でゆっくりと、距離を縮めながら。

「どんどん氷が溶けて、"人間の女の子"になってるのかな。家に遊びに来る友達も出来たんだろう?」

今度は、娘の成長を喜ぶ父親の弾んだ声色で。

「こ…っ…来ないで…」

引き攣ったメアの顔に浮かぶ脂汗も愛しそうに。

「いや、単なる友達だけじゃないのかな。こんな可愛いワンピース、きっと今まで持ってなかったよね」

「いや…ぁ…」

男は遂に、メアの眼前でしゃがみ込んだ。
手を伸ばして顔に、髪に優しく触れていく。

「肌も綺麗になったね、白磁みたいに滑らかだ。髪もこんなに指通りが良くなってさらさらしてる」

「う゛…っ…ぅっ…」

触られた所に芋虫が這う様な嫌悪感を覚える。
嗚咽と共に胃の中身がせり上がって来そうだ。
しかし男は構わず、さぁ、と続けた。

「息を吐いて、力を抜いていた方が楽だよ」

飽くまで親切心から来る言葉の様にそう言って、男は大きな右手を、握れそうなメアの首に伸ばす。

「首、細くて可愛いね。つまらなかったら使わせて貰うと思うけど、殺さないから安心して」

左手でするすると撫でながら、男はへたり込んでしゃくり上げているメアの脚を広げる。

ひゅっ…と、メアの喉が鳴った。

「…ぃや……ママぁ…」

潤んだ目から雫を零しながら、そう呻く。

「"ママ"かぁ。ベタだよね、それ。君も言うなんて意外だな。親なんか禄に知らない癖にね」

男は退屈そうに溜息を吐く。
しかしメアは譫言の様な弱弱しい声を漏らした。

「…っっ…ぃ…じ…ジェーン…っ…」

「ジェーン?それは何だろう?君が昔飼ってた犬?それとも友達?それとも」

声と共に、メアのスカートの中に、脚の上を滑らせながら伸ばしていた男の手が止まった。

呆気に取られている隙を突いてメアは男の手を振り払って走り出し、キッチンから、視界から消える。

「わたしはね、小さい頃子供劇団に入ってたの。」

首元を抑えて咳き込みながら、捨て台詞の様にすれ違いざまにそう呟いて。







メアが涙を袖で拭ったのは、気休め程度にキッチンの扉を閉めて、階段を駆け上がりながらだった。

「…っ…ふっ…ぅ…」

元々引き籠もってばかりで体力が無いのもあるが、中々乱れた呼吸が落ち着かない。

「…はっ…はぁ……うぅ…」

立ち止まって休みたい。だけど、そんな事をしてる余裕は時間的にも精神的にも無い。
さっきは精一杯の強がりを言ってみせたけど、まだ心臓はばくばく言っている。じっとりした汗が止まらない。手だってぶるぶる震えてる。

「どうして、わたしだけ」

思わず、口をついて出た。

どうしてわたしだけ、女の子に生まれただけでこんな怖い酷い目に遭わなきゃいけないの。どうして酷い目に遭うのがわたしじゃないといけないの。

言うべきじゃないと、少なくとも今だけは考えるべきじゃないという事は分かってる。でも吐瀉物に似た抑えられない感情が奥底から溢れ出て。

わたしだって。

わたしだって幸せになりたいのに。
わたしだって友達が欲しい。
わたしだって誰かに愛されたい。
わたしだって望んで何も出来ない訳じゃない。
わたしだって望んで何も分からない訳じゃない。
わたしだって何も感じていないみたいに、何も傷付いてないみたいに、どうにも出来ないから平気みたいに取り繕ってへらへらしていたい訳じゃない。

セキア君みたいに自由でいたかった。
マクベスみたいに気高くありたかった。
リピルちゃんみたいに可愛くなりたかった。
ラミア君みたいに強かったら、奪われなかった。
わたしには何も無い。生まれ付き体も弱いし、誰にでも出来る簡単な事すら出来ない。記憶に無い程早くパパが死んで人並の生活をするお金も無かった。

良い物なんて神様は何もくれなかった。
なのに奪われた。

それでもやっと、やっと逃げ出して。左手まで犠牲にして。肋の浮く様な飢えと寒さに震えて。
そしてこの街でやっと手に出来た人並の生活。
誰も助けてくれないから自分一人で頑張って頑張って頑張った。それでやっとゼロに戻れた。
ようやくわたしが誰かを愛せる奇跡も起こって、これから初めて幸せになれると思ったのに。
あいつが来て、また全部奪われる。

「…っ……ぅ…」

どうしてわたしが気に入られるのかは知らない。
諦めた風でいて藻掻いて溺れてるのが滑稽だから?
何も持たない癖に奪われ続けてるのが愉快だから?
悟った様な態度で何も出来ないのが笑えるから?

分からない。弱くて奪われるだけのわたしに強くて奪う人の考えなんか分かる訳がない。

「………」

凄く悔しい。何でって腹が立つ。胸が詰まって泣きそうだ。実際、わたしの目にはまた涙が滲んでる。
嫌だ。またあの頃みたいに戻りたくない。
逃げ出したってあの男からは逃げ切れない。必ず捕まえられて壊れるまで遊ばれる玩具にされるだけ。
わたしの、メアの人生の最初と同じで、好き放題弄ばれて味がしなくなるまでしゃぶられるだけ。


でも、そんなのは嫌。絶対に嫌だ。嫌だと思える。

今わたしのお腹にぐるぐる渦巻いてる感情は、あの頃と違って恐怖だけじゃない。

わたしは"弱い"けど、今は"無力"では無い。
子供の力だって、引き金を絞って獣を殺せるんだ。



わたしは今から生涯で初めてわたしの誇りの為に、わたしのこれからの幸せの為に戦う。

にやにや嗤いながらわたしの幸せを奪おうなんて。
ふざけるな。絶対に許せない。
退路なんか無い、お前が塞いだ。

あいつは確かに超越者バケモノだけど、わたし達の最強ラミア君じゃない。
確かに刃が通ったんだ、必ず殺せる筈。
…いや違う。勝ち取る為にこの手で必ず"殺す"。

何度もそう反芻して、誰でも無い自分自身に使う。
曇った眼鏡のレンズを袖で拭いて、洟を啜る。

わたしはもう少し、もう少しだけ、今までの恐怖を知らない死体みたいな女を演じなければいけない。ラブカ先生、勇気を…いや、貴女みたいな狂気と冷徹さをわたしに分けて下さい。




頬を叩いて目を大きく開く。


「気合い入れるよ、"北の四神メア"」






「わたしはね、小さい頃子供劇団に入ってたの。」

あまりにも突飛で予想外の事に、何が起こったのか解らなかった男は十秒ほどそのままでいて、やっと違和感を覚える背中へと手を伸ばす。

「はは…」

思わず笑みが溢れた。

男の背中には深々と包丁が突き立てられていて。
それを両手で握り、抉る様に刺し込む人形がいた。
「ギャハハハハッ!!アタシがジェーンよ!!」
「…凄いな。これが君の能力なんだね。」

けたたましい程に甲高い声で喚く人形を払い除け、男は包丁を引き抜く。

「私の血も赤いんだね…こうして見るのは初めてかも知れない。」

少なくとも記憶にある内は…と続けながら、男は先端が赤く光る刀身をうっとりと眺める。

「ギャハッッ!!もっと見せてあげようかァ!?」

今度は正面から、ジェーンを名乗る子供程の背丈の人形は男に躍りかかって来た。首をその小さな両手で掴み、折らんとする勢いで締め付ける。

「イヒヒヒッッ!!キモチイイッッ!?ねぇッ!?ギューっって締まってキモチイイかってなァ!?」

「クレイジーだね…これはメアが動かしているのか、それとも意思を持って自立しているのか…」

「おらァッ!どうした蛆虫クソ野郎ッッ!!お前がメアにしようとしたのはこういう事だろ!?」

生き物であれば唾が大量に飛んで来ているだろう。
人形はガラス製の白目を剥きながら男を口汚く罵って、対する男は恐怖からでなく呆気に取られた様子で眉を顰める。

「糸は見えないけど、動力源は何かな?」
「知らねェよバーカ!!」
「君と話しても収穫は無さそうだね」

男は小さく溜息をつき、人形の手を掴んで自らの首から引き剥がし、床に叩き付ける。
衝撃で四肢は変な方向に曲がり、首は外れて落ちてしまったが、痛覚の存在しない人形は笑っていた。

「イヒヒヒッッ!!効かねェェなァァッッ!!」

「面倒だな、君はいつまで喋れるの?」

「刺されたお前こそいつまで保つかなァ!?始まってんだよォ命を賭けたかくれんぼはなァッッ!チクタクチクタク!!急げ急げ!!ギャハハハハッッ!」

男は床に転がった人形の頭を躊躇なく、卵の様に容易く踏み潰す。それは甲高い人形の声が少々耳障りだったのもあるが、ある言葉に心が踊った為だ。

「"かくれんぼ"か…」

百年はしていないだろう。それどころか、童心に還った気分で楽しく遊ぶ事自体が百年振りか。
人形が言う"命を賭ける"程の危険や難度があるとは思えないが、自身の手が加わっていない、"予想外"を起こせる程の者との遊び。プレゼントの封を急ぐあまり破ってしまう様な感覚になってしまった。

本当の事を言えば、自分は帰って傷を癒やしたって良い。この屋敷に火を放ったって良いのだ。
わざわざ、僅かにでも危険な誘いに乗ってやる合理性は無い。一欠片も。
しかし、遊び心を持たないつまらない生き方をするにしては、私の人生は余りにも長過ぎる。

"遊び"だが、何かに本気を出せるのは初めてだ。
これに乗らない手は無かった。

「さて…"鏡"を使えば居場所はすぐだけど…」
遊びに道具を使って何が楽しいだろう。
これは命を賭けた…少なくともメアはそのつもり、というだけだが、真剣勝負なのだから。

「…ふむ」
背中の傷口を触った感じで考えるに、そこまで深くはない。あの人形の膂力は一般的な人間とそう変わらないだろう。即ち、こちらが余程油断していなければ致命傷には成り得ない。私はこの傷だけで何も処置せず放置していても数時間は問題無く動ける。

「まぁ懸念点があるとすれば、この屋敷には人形が無数にある事だけどね。私は私で本当に良かった」

先ほどの足音から察するにメアはキッチンを出た後に階段を駆け上がって行ったのだろう。後に続いて屋敷の広間に出ると、大きな古時計があった。


示している時刻は午前十一時三十分。メアの"お友達"が遊びに来るまで三十分もある。

別に何人来ようが知った事では無いけど、制限があった方がきっと楽しめる。十二時をこのゲームのタイムリミットとしよう。


玄関から入って正面にある大きな階段を登れば、両脇に実に洋館らしい槍を持った大鎧が一つずつと、玄関に欠けた部分を向けたコの字形の廊下がある。
左右の廊下にはそれぞれ五つずつのドアがあり、その先の部屋へと繋がっているのだろう。

「静かだね」

この屋敷は一人で住むのには余りにも広過ぎる。彼女のメインの居住スペース以外には到底掃除の手が回っていないのだろう。広間に飾られたグランドピアノは、指で鍵盤をなぞると埃が少し付着した。

「蓋を閉めるか掃除をすべきだよ、メア」

思わず顔を顰める。
別に潔癖症とまでは行かないが、それなりの綺麗好きは自負している。何かをやりっぱなしにしたまま片付けられていないと、他人の家でも気にはなってしまうのだ。

「まぁ君が住むのもあと三十分だけどね。」

以前から家に有ったものなのだろうか。このピアノ自体はかなり値の張る良い物である。しかし残念な事にマトモに手入れも掃除もされていない。試しに幾つか鳴らしてみたが調律が狂ってしまっている。

勿体無い。
折角名器を持っていても所有者が価値も分からないのでは何の意味も無い。恐らくメアはピアノに関してはズブの素人だ。文字の読み書きも出来ない無教養な彼女が、分不相応な憧れや気紛れで楽器に触ってみようと、軍師の権限か何かで運び込ませたか。それとも屋敷の前の主が残して行ったのか。どちらでも良い、少し弾いて遊んでみて飽きたのだろう。
メアは殆どの事に興味を長く保っていられない。ーつの事に注意を割いていられない。

私が知る中で彼女が飽きもせずに続けていられる事は呼吸と人形作りだけだ。食事は既に飽きている可能性がある、あんなにも痩せこけているのだから。

つまり、どんなに素晴らしい物でもその価値を知り所有することを望む者の手に無ければ、真価は発揮されずに傷み、腐って行くだけだという事だ。

「君もだよ、メア」

賢くて、でも愚かで、子供みたいに愛らしい。朽ちない様に加工して保管しておかないと可哀想だ。
コレクションの特等席に飾っておいてあげようね。

そろそろ、メアも隠れる場所を見付けただろう。
膝を抱えて怯えているのかな。それとも涙を瞳から零しながらしゃくり上げているのかな。最後のメッセージを残そうと震える手でペンを…いや、彼女は時を書けないんだった。じゃあ意外と信心深くて、居もしないのに神様に祈っていたりして。
全部無駄だよ、相手が私なのだから。

「ふふ、もういいかーい」

錆び付いた低い音を鳴らす古時計以外は居留守を使う様に黙っている屋敷の中に、私の呼び掛ける声だけが響いた。勿論返事が来る訳が無いので(有ったら笑ってしまうだろう)ゲームは既に始まったものと見なす。

ピアノの蓋をそっと閉めて、お洒落な柵の走った二階の廊下を眺めた。今の所誰の気配も感じない。
メアの死体級の生気の無さがこの様な形で発揮されているとは。これは案外骨が折れるかも知れない。私の骨が折れた事は無いけどね。

屋敷の構造は何度か鏡で訪れた時にざっくりと把握しているけど、メアに煙たがられるからあまり長居したり隅々まで探険した事はない。隠し通路や秘密の地下室なんかが有ったらとても困る事になる。
しかしこの屋敷が二階建てで、階段が広間の一つしか無くて、かつメアが二階の窓から飛び降りるに耐える頑丈さを有しない事からも場所は絞れよう。

少し軋んで鳴る階段を登りながら、右かな左かなと考える。どちらからでも良いのだけど、何となく左からかなと思った。メアの左手は義手だから。
しかし困った物だ、気配が全然掴めない。微かに、ダンゴムシ程度の存在感を感じなくは無いが…しゃがんで避ける。

面白い。予想外の事ばかり起きる。
私の頭上で二本の槍が交差する様に薙がれた。

鎧が奇襲を仕掛けて来る事を予想出来ていた訳では無い。そうでは無く、階段の最後の段を踏んだ瞬間に現れたのだ。"メアの気配が二つ"。両隣に。
人形では無いからと高を括っていた訳では無いが、今回もまた完全なる無意識を突かれる形だった。
ジェーン人形の時との違いは、メアが一切の反撃手段を持たない訳では無いという認識だけだが。
何れにせよ、少し警戒の段階を上げるべきかも知れない。今ほどでは無いにしろ、私は敵が、敵になって仕掛けて来る瞬間まで感知する事が出来ないのだから。それこそ参考にならないが、"気を付ける"他に無い。これが同数の武装した人間ならば何の脅威にも成らないが、これから相手にする者達は、必ず不意打ちで襲い掛かって来るのだ。
賢しいね、メア。

しゃがんだ姿勢のまま右腕で鎧の腹を貫いて回転し、左の鎧も巻き込んでその勢いで背後の階段へと纏めて吹き飛ばす。当たり前だが、中身の空っぽな鎧はよく響く金属音を立てて、階下でバラバラに散らばってしまった。
霧散して行く様に、鎧からメアの気配が消える。
なるほど、流石にバラバラになってからまた合体して、自分の首を拾って着けたりはしないか。

腕を振り上げて頭部をガードする。

「油断も隙もないね」

背後から伸びて来たのは、鎧よりも大きな…凡そ私と同じ位の体格のテディベアの拳だった。
拳、というには丸っこくて毛むくじゃらだが、膂力はかなりのものだ。鍛え方が甘ければ折れている。
背中を向けている時に襲い掛かってくるなんて、何て行儀が悪いクマなんだろう。振り向きながら裏拳を腹に見舞う。

「ぷみぃ。」

気の抜けた音がした。
お腹を押すと鳴るタイプのぬいぐるみか。
しかし凄い、巨大クマは多少よろめきはしたものの、先ほどの鎧の様には吹き飛んだり簡単に穴が開いたりはしなかった。

「へぇ。殴って死なない相手は初めてだ。」
いや、生きてないなら当たり前か。

立ち上がり、クマに手招きする。
「かかっておいで、クマさん」
クマは首を横に振って、手招きで返して来た。
お前が来い、か。
テンポが良すぎて吹き出しそうになった。
良いよ、思わず笑っちゃったから、こっちから仕掛けに行ってあげる。
と思ったら真っ直ぐ突っ込んで来た。何なんだ。
前につんのめりながらの、非常に大振り大雑把な攻撃だ。向かい合えば私を凌ぐ巨体と勢いだけあって唸る様に風を切る音がする。
威力はありそうだ。威力だけは、だが。
こんな乱暴で無駄の多い動きなら、目を閉じていたって当たらない。
右、左、ほら。一歩ずつしか下がっていないのに、辛うじて風圧で前髪が揺らすだけに留まっている。
勿体ないな。素材は悪くないのに。生き物なら駒として弟子に取って、指導してあげたい所だった。
案外いい所まで育ったりしてね。

「さ、次はこちらから」
遊ぶつもりで軽く回し蹴りをクマの頭に見舞う。当たり前だが、無い脳味噌は揺れない。その中に詰まっている綿に衝撃は緩和された。
並の人間であればこれだけで首が折れるか飛ぶが。これこそ生きていない、下手に金属みたいな頑丈さを持たないぬいぐるみの利点なのだろう。柔らかいという事は、ダイヤモンドよりも壊れない。
勿論、世界一の腕を持つメアの手による作品(片方しかないのが勿体ない)であり、彼女の持つ”何らかの力”によって強化されているから、だろうが。

空振った隙に懐に飛び込んで、立て続けに二三、今度はこちらが進みながらクマのボディを突く。
当たり前だが、恐らくは痛覚の無いクマに大したダメージは無い。
何度打っても「ぷみぃ。」だ。
だが、そもそも目的は深手を負わせる事ではない。
動きを止める事、そして隙を作らせる事。

よろめいた足を払う。クマはその巨体を支える緻密なバランスを崩して前方に倒れ込む。倒れ込みながらも、振り上げた両腕を纏めて叩き込んできた。
横に転がって躱したが、つい一瞬前まで私がいた場所は、床材が砕け散って穴が空いていた。ここが借家だったら敷金は絶対返って来ない様な。

ふむ、やはりなかなかのパワーだ。
スピードは何の脅威でも無いがね。
クマはうつぶせに床に寝ている。そのまま30分放置していてもあの図体と重さ。そもそも動くことを想定して設計されていない短い脚。一度崩れた重心を自力で立て直せるとは思えない。
現に今、クマはよろよろと立ち上がろうとしているが、一切進展なくじたばたしているだけだ。あれでは寧ろ引っ繰り返された亀。
「…いや、そうやって嘗めてかかるべきではないね。これは真剣勝負なのだから。」
念には念を、だ。
殴る蹴るの打撃が「ぷみぃ。」でも、布と綿で作られた縫いぐるみである以上は必ず刃物で引き裂ける。手近に大きな刃物は…鎧が持っていた槍だ。殴り飛ばした時に落としたのが一本、数メートルの直ぐ近くに。もう一本は、鎧と一緒に階下に。

トドメを刺すべく目と鼻の先の槍の柄に右手を伸ばした瞬間、手首に何かが巻き付いて絡め取られる。

「次から次に、だね!」

黒い繊維…いやこれは毛髪。人間の髪の毛か。
腕に巻き付いた先を辿ると、東洋風の造りの人形の頭からそれは伸びていた。着物まで着ている。

「メアの作風は結構広いんだね。」

呪われた人形は夜な夜な髪が伸びるなんて聞いたことがあるけど、極端に数メートルもとは。
グッと軽く引っ張ってみても同じ力で返される。
明らかに大きさに対してのパワーが釣り合わない。引き千切ってしまおうかと思ったけど、確か人間の髪の毛というのは凄く丈夫なんだ。一本辺り100g~150gの重さに耐えられて、あの人形がメアの狂気的な職人魂とリアル志向によって人間と同じ10万本が植えられていたら…10〜15トンの力に耐え得る。

「困ったね、私はパワー型じゃないんだ」

本気を出せば引き千切る事も出来なくは無いかも知れないが、要らない消費は避けたい所。目的はメアを見付ける事なんだから。

「やはりね、大体読めて来たよ」

背後から伸びている人影が、私の足元に届いているのが見えた。
首を捻った瞬間に耳元を亜音速の何かが通過して行き、向かいにある窓を小気味の良い音を立てて粉々に砕け散らせる。
私の背後数歩の距離にいたのは軍帽を被った兵隊の人形だ。大きく開いた口と、迷いなく頭部に狙いを定めて向けている手持ちの大筒。
くるみ割り人形か。それも人間大の超大型。
くるみでなく、頭蓋を割ってしまおうと言うにもやや過ぎた得物だ。あれでは中身を取り出すどころか脳漿を壁にぶち撒けてしまうだろうね。

こんな風に、メアは詰将棋を仕掛けてくる。
実に厭らしい。そこがメアらしくて好きだ。
不意打ちに不意打ちを重ね、回避の安堵感こそが狙い目であると刺して来る。
前、後ろと来れば。

腰を捻って着物の人形ごと、毛髪の束をハンマー投げのワイヤー代わりにして遠心力に乗せて振り回した。兵隊人形の筒を背中越しに蹴り上げて次弾の発射を阻止し、手持ち無沙汰になった彼の阿保面に(顎が外れんばかりに口が開いているのはデフォルトだが)横から同胞を叩き付ける。
どうやら砕けて吹き飛んだのは私のではなく、兵隊人形のコルク製の頭部だった様だ。
着物の人形も顔の表面が衝撃でひび割れ、見るも無残な様子になってしまっていたが、まだ執念深く、凄まじい力で私を掴んで離さない。
好都合だ、君にはまだ出番があるから。

そう、次があるなら上からだろうね。

上方から空を裂いて飛んできたのは矢の雨だった。それを空中で、薙ぎ払う様に着物人形に受け止めて貰った。メアと言う共通の脳を持つ、意思を統合された人形なのだから、彼らの連携のタイミングは完璧だ。そこには人為的なミスによる乱れは存在し得ない。どんなに訓練をした兵でもそのズレは確実に、コンマ以下でも誤差という形で必ず発生する。彼等にはそれが無いのだから実に厭らしいし、人間の反射神経では確実に詰む様な不意打ちや連携攻撃が成立するのだ。いやはや、本当に恐ろしい。殺されてしまう。
相手が私でこそ無ければね。

世の理を超越した私には、“完璧”が通用しない。
”完璧”なのは人間の尺度で測った場合であって、少しずらしてあげればそれは簡単に崩れてしまう。寧ろ正確無比であればこそ、不確定的な意図しない乱数が入り込まなければ、却って対処は容易いのだ。
要するに、”メアが仕掛けて来る最善手”を予想するだけのこと。

この場合はそう、矢が全くの同時に発射され“完璧に揃っていた”から簡単だった。
メアは本当に賢いね。
だから君は私に勝てないんだよ。

今度は背後から放たれた矢を、拾った槍を手首で回して叩き落す。その間に先ほど蹴り上げた大筒が落ちてきたのでキャッチし、先に仕掛けて来た梁の上に潜む狩人の人形の群れへと砲弾を撃ち込む。
炸裂した火薬でばらばらになった木の肢体が頭上から降り注いで来た。
やや尖っていて危ないそれらを避けながらもう一発、斜め後方の梁にも向けて引き金を絞る。
今度も一秒前まで人形であった物の破片やその衣装の布切れが…不意に、肩と頭に冷たい感触があった。

濡れたのか、一秒あって気が付いた。
しかも少し、嫌にぬめっている。血か?人形の。
少々リアル嗜好過ぎないだろうか。細部までこだわるのは素晴らしい事だが湿気と何より相性の悪い人形に比喩でなく血を通わすなど、作品を我が子の様に愛する一流の芸術家がする事とは思えない。彼女には胸に秘めた滅びの美学でもあるのだろうか。
あんなにも怯えて逃げ惑う小娘に?

まぁ、どうだっていい事だ。
飾られているだけの人形が喋ったり、考えたりする必要は無いのだから。
私には本当に、どうでもいい。
そう、そんな事よりも。このゲームには時間制限があるという事実を忘れていた。あくまで自分に課したルールに過ぎないが、自分で言い出したからこそ重要な事だ。私にとって、私の意思より優先すべきことなどこの世に一つとして無いのだから。
意外にも、ピアノで遊んだり彼女の”クセ”を掴むまでに時間が掛かったりで予定にないタイムロスが生じてしまった。

これからは二階にある部屋を一つずつ探して行く。
漸く本来の趣旨であるかくれんぼが始まる訳だね。
さっきそう決めたから、左端の一室から順番に、着実に攻めて行くとしよう。

ドアノブを捻る。鍵は幸い掛かっていなかった。
これで鍵が掛かっていようものならそこに籠城してることが決まるわけだから、それこそ今まで評価していたメアの知能を疑わなきゃいけない。まぁ、鍵が掛かっていた所で簡単に抉じ開けられるし。
それに、なるべく長く楽しんでいたいからね。

古そうな屋敷だけあって少し建て付けが悪いのか、力を入れるとキィ、と音を立ててドアを開く。
まず入って見える範囲に…メアはいないね。
横幅4メートル、縦幅5メートルほどの部屋にベッドの様な家具らしい家具、大きなクローゼットの様な隠れやすそうな遮蔽物は無い。
有るのは正面に、光を入れる為だけの嵌め殺しの窓と、四方の壁に接着して設置されている、彼女の作品を収納している木製の飾り棚。
しばらく耳を澄ましてみても、メアが啜り泣いている声や、膝を抱えて震えている様な物音は聞こえてこなかった。

「ここは外れかな」

さっと部屋を見回して他を当たろうと踵を返した瞬間、目の前に大きな球状の何かが落下して来た。
床が抜けるかと思う激しく鈍い音を立てて現れたそれは、表面に独特の赤黒く重たいぬめりを帯びた、”だるま”だった。
どこから落ちて来たのか、こんな巨大で悪目立ちする物。
天井を見上げても穴は開いていないし、棚の上にそんな隙は無い。屋敷には私の知らない、興味深い仕掛けが沢山あるに違いないね。

軽く槍で突いてみた感触からして相当な重量だ。
メアは私をこれで圧殺しようとしていたのだろうか。それにしても何だろう、この達磨のぬめりから漂う、鼻腔を刺激する独特の異臭は。
いや待て、どこかで覚えがある。これは…

「重油…か?」


急いでドアを目指して走り出したが、外側からの凄まじい勢いで部屋のドアは閉ざされた。閉じ切られる寸前、ほんの数センチの隙間があった瞬間に火の着いた蝋燭と燭台が投げ込まれて。刹那の瞬きの間に炎に包まれた達磨は猛烈な勢いで燃え盛る。

なるほど、”してやられた”のだ。
そう気付いて顔を上げた瞬間、棚に飾られていた部屋中の人形たちが、嘲け笑う様に私を見ていた。

梁から滴り落ちて私に付着していたのも恐らく同じ重油。広間や廊下で私を仕留め損なった場合も織り込み済みで、ダメ押しにと仕込んでいた。
小癪な。そこを退けと、ドアの幅を超える達磨を煩わしく感じながら一思いに手を触れる。熱い。当然だが一度火の着いた重油は滅多な事では消えない。それこそくべられた周囲の物が全て燃え尽きてしまわない限りは。致命には成らないものの着実に皮膚を焼く痛みを無視して、突進する様に達磨を隅に追い遣り扉に辿り着く。破壊してでも抉じ開けるべく蹴りを見舞うも、ドアは多少揺れるのみで大した損壊は見込めない。思い切り突き立てた槍も貫通せず刃が途中で折れて欠けた。恐らくこのドアの内部には一枚の厚い鉄板が仕込まれている。それだけでない、この向こうにはドアを閉め、今も押さえ込んで私を閉じ込めている力を持った何者がいる。
私には何の助けにもならないドアの足元数ミリの隙間から、廊下の照明が漏れ出ている。その光に照らされて見えたのは黒い繊維…これも見覚えがある。
着物の人形、まだ生きていたのか。
流石は呪いの人形、恐るべき執念だ。ドアの強度を加味してもそのパワーには感心する。それに、憶測ではあるが他の人形も"閉じ込め"に加担しているのでは無いだろうか。
恐らくこのドアを破壊する事自体は、単に可能か不可能で言えば可能である。このまま蹴り続けるなり突進し続けていれば、鋼のドアが破れるか枠が外れて外に出られるだろう。所要時間は五分強と行った所だろうか。しかしそれではタイムオーバーだ。

ゲームの、では無い。
"私の"、だ。

恐ろしい勢いで燃え上り、今も尚さして広くない部屋の酸素を貪り喰らい続けているこの達磨。こいつの攻撃は、今までの"与えるダメージ"では無い。
"奪うダメージ"なのだ。酸素を、如何に優れていても生物である以上は私もそれを取り込む必要がある。
一酸化炭素中毒、大気中の一酸化炭素の濃度がたった0.50〜1.00%を占めるだけで、その空間に1〜2分間いるだけで人間は呼吸が出来なくなり死ぬ。
メアの目的は、焼死では無く窒息死だったのだ。

今この部屋の濃度はどれ位だ?分からない、しかし既に頭痛や耳鳴りといった兆候が現れている。少なくとも悠長に計算している余裕が無いのは確かだ。

…窓。そうだ窓。換気さえ出来れば良い。大きさは…子供のウエストならば通るかと行った程度だった。
焼け死ぬ心配をするのは今や贅沢だ。私は火傷位ではそうそう死なないだろう。火事による死の原因は焼損よりも有毒ガスによる気絶が圧倒的に多数。
脱出は出来なくても良い、酸素を取り込めれば。

「…おいおい嘘だろう」

窓からは何も見えない。今は真昼間、太陽が最も輝く正午まであと数分であるにも関わらず、黒く塗り潰されたかの様に一分の光も部屋には届いていないのだ。成る程、着物人形は一体だけでは無い。徹底的に私を燻し殺すつもりで、部屋の内外から逃げ道を塞いでいる。
しかし、扉に比べれば幾分か手薄である事には変わりない。
あの窓を破る事、それが喫緊のタスク。
先の欠けた槍を振りかぶり、50センチ四方の硝子を突き破らんと構えた腕が前へと延びる事は無かった。

…またか。
扉の下のあの僅かな隙間から、染み出る影の様に現れた人形の髪の毛が再び私の右腕を搦め取る。肘、手首、指の関節に至るまで、全て僅かにも動かせぬ様に縛ってドアへと引き寄せているのだ。それは力任せに毟り取ってしまおうと伸ばした左手にも及ぶ。磔にされた聖人の様に、無理やり私の腕を伸ばして背後の扉へと引き摺り込む。
強引にでも引き千切ろうと踏ん張りって前へと身体を傾けて進む。薄い酸素の中、思考に靄が掛かりそうな程全身の力を前進の為だけに使う。その甲斐あってぶちぶちと繊維が少しずつ切れる音が聞こえたが、しかしそれも見越したかの様に、髪の毛は私の首にきつく巻き付いて来た。進もうと、自由になろとする程に、藻掻く程に頸動脈が圧迫される。もし拘束が解かれるまで暴れれば、この毛髪の糸の張力は私を絞殺に至らしめるか、若しくはワイヤーの様に皮膚を裂き、血管を断って失血死させるか。

一瞬、ゲームを放棄して"力"を使う事すら脳裏に過った。
しかしそうしようにも、鏡の代替品となる反射物…それは眼前の光を絶たれた窓だけだった。そもそも窓に届けないのが問題なのだ、何の解決にもならない。液体を使って転移した事もあるが、それを血で?いや、私の全身が写る程の量が体外に出る頃には失血死だ。…いや、燻し殺されているだろう。水が入った花瓶なんかもこの部屋には無い。糞、じわじわと浮かんでは流れ落ちる脂汗が鬱陶しい。

…油。
まだ有るじゃないか、液体が。
ただし"力"を使う為の依り代ではなく、火を消す為でもない。
寧ろ火を着ける、焼き焦がす。

目指すべくは救いをもたらす出口を騙る死の罠である窓ではない。その逆、私を焼き殺し、燻し殺さんと尚勢いを増して燃え盛る達磨の炎。

…あぁ、火だるまと言う事か、笑えないジョークだ。
するべきことが見付かった今、朦朧としていた意識はやけに冴えていた。

痛みと熱は覚悟のうえで、半身になって無手の左腕を伸ばす。先ずは頭に被せている、重油が染み込んだ布を強く握る。より締め付けを強めた人形の毛髪は軋む音を立てながら私の身体にめり込んで行く。皮膚が破れ、久しく味わった事の無い鋭い痛みが襲ったが、それも前に伸ばした左腕だけだ。血が腕中から噴き出す。しかし構わず、達磨へと。引っ張られた指が関節とは逆側に曲がりそうになった瞬間、表面に触れる事が出来た。
私の狙いを察したのか、ただ静観していた人形たちが棚を飛び出す。
私を留めて自由にさせない為に全身に纏わりついて、妨害を試みた。
しかしもう遅い、十分に可燃性の液体に浸かった布は、弾けた火の粉一つで簡単に燃え上がる。傷口が焼かれる激痛には奥歯を強く噛んだが、私が炎に包まれて死ぬよりも先に、私を拘束している人形の髪の毛の方が焼ける。そして人体よりは遥かに燃えやすいこの木製の人形達は、拘束を解く炎の熱を更に上げる良い薪となってくれた。
直接火に曝され、皮膚が焼かれる苦痛に耐えること凡そ一分。主に左半身にかなりの火傷を負わされてしまったが、緩くなった毛髪の拘束を乱雑に毟り取って再び槍を、残った力の全てを込めて投げ付けた。唸りを上げた槍は窓ガラスを突き破り、人形の髪で編まれたその先の壁を貫く。窓の外にいた個体の額には大きな穴が空き、自重を支える力を失った事で屋敷の敷地の外へと消し飛んで行った。

身を乗り出す様にして、オアシスの水の如く外の空気を取り込む。
新鮮な酸素が肺を満たし、砂嵐の様な雑音と頭痛に蝕まれていた脳味噌が洗われる清涼感に身が打ち震えた。
素晴らしい、私は生きている。何者も私を脅かせなかった世界において、ここまで生を実感した事は無いかも知れない。

さて、一先ずは燻し殺される心配は無くなった。次はこの部屋から脱出する事だが。最早全力を以てドアの破壊に臨める以上、その障壁は有って無い様なものである。先ずは報復をと、散々私を焦らせてくれた(楽しませてくれた、と言っていいかも知れない)達磨を殴り付けて砕く。重たいとは思ったが、精々人の作った構造物に過ぎない。冷静さを取り戻した以上は何の邪魔にもならず呆気なく壊れた。
次はドアだ。そう思って近付くと、既にドアのノブは下がり、半開きになっていた。

なるほど、先ほどの炎で髪の毛先から燃え移り力尽きてしまったのか。若干拍子抜けする様ではあるが、まぁ何事にも簡単に事が進むに越したことはない。私としては楽なのだから良いか。

一仕事終えた風なちょっとした達成感を感じながら、入って来た時よりも気持ちずっと軽く感じるドアを開く。精々あの部屋にいたのは二分程度だろうが、火の手が上がっていないというだけで廊下の景色が懐かしく、とても美しい故郷にも思えた。

「おや、」

足元に転がっている物を見付けた。
醜く黒焦げになったそれは、私を火責めに掛けて部屋に閉じ込めていた着物の人形その人だ。
既に事切れ微動だにせず倒れているのみだが、これで決着という形で頭部を踏み潰した。
ありがとう、久しぶりにヒリヒリしたよ。
残るはあと九部屋、だったかな。正直言うと面倒くさいな、残り時間は果たして足りるのかなと思う。凄く熱い部屋にいたからキッチンに水を飲みに行こうか、そんな事を考えていると、階下からパン、と手を叩く様な音が聞こえた。

大広間に立っていたのは人だった。
黒い服…ドレスを着た、容姿の完成した大人とあどけない少女の中間の様な雰囲気の女性だ。
顔はベールに隠されていて見えないが、確かにこちらに視線を向けている。
降りて来い、そう言っているのか。彼女はメアではない、メアならば姿を現すメリットは皆無。
かと言って、"お友達"でも無さそうだ。玄関の扉が開いていないしメアを探してもいない。
いずれにせよ、彼女に付き合ってあげる義理は無い。私は今ゲームに夢中でとても忙しいのだから。

「ごめんね、急いでるから」

成る可くにこやかに断りを入れて、隣の部屋に向かって歩き出す。一歩二歩と進んだ所で、眼の前数センチの壁に槍が突き刺さって来た。

「怖い怖い」

何と言う精度。そもそも命中させるつもりは無さそうだが、私が話を聞いていないと思われたらしい。
それとも、「関係無い、降りて来い」か。最近の若者は年長者を労らないんだね。
よく見ると、槍の柄には布が掛けられていた。旗かと思ったが違う、広げてみると服だった。
舞踏会か何かで纏う様な、黒い見事な衣装。これは今着ている物が、殆ど焼け焦げて服としての体裁を成していない私への気遣いだろうか?
中に火薬や刃物が仕込まれている陰湿な嫌がらせは無いみたいなので、有り難く着させて貰おう。
まぁ、プレゼントも頂いちゃった事だし?
折角だから少し付き合ってあげようかな、という気持ちになった。いやはや、私はなんと優しくて寛大なんだろうか。
何より、レディからのダンスのお誘いは紳士として断れない。

一度は上がって来た大階段をスマート且つ余裕たっぷりな足取りで降りて、漆黒のドレスを身に纏った彼女の待つ広間に辿り着く。

「これは君が使うといいよ」

レディーファーストのつもりで引き抜いておいた槍を床に突き刺してプレゼントしたが、彼女はちらりと一瞥しただけで、それを手に取る事は無かった。無視されちゃった。
結構ショックだね、女の子に振られるのは初めてだったから。

「…」

彼女は数秒、何もせず何も言わずに棒立ちしている。

「君、名前は?」
「…」

「趣味はある?私はね、箱庭造りが好きだよ」
「…」

「私は料理が得意なんだ、君の好きな食べ物を教えてくれない?何でも作ってあげる」

「花は好きかな?花の最期は一際美しいよね。梅はこぼれる、菊は舞う、桜は散る、椿は落ちる、と言うそうだよ。紫陽花は何だと思う?」
「…」


流石の私も、こんな徹底的な無視を貫かれると気不味い。相手が怯えてしまって口が利けない事はしばしばだが、能動的に、強がりも含まない完璧な無視は初めてだから。
いい加減世界に独りぼっちなんじゃないかと勘違いしそうな静寂にも耐えかねて、調律の狂ったピアノでも弾いてみようか、やっぱり彼女を無視してメア探しを再開しようかと思った矢先、二階から大きな地響きや大地のうねりの様な音が聞こえた。

思わず上階を見上げると、私が踏破した左端以外の全ての部屋のドアが凄まじい勢いで開け放たれた。そこから雪崩の様に流れ出て来た塊は、宙に浮かんだまま一つの魚群の様に纏まり、あっと言う間に私と彼女ごとを中心に取り囲んでしまう。

「なるほど…これを待っていたんだね、君は」

黒い竜巻の様に見えるそれは、恐らくこの屋敷中の全ての人形を搔き集めて構成された結界だった。私を逃がさない為に、多種多様な人形の全てが刃物や鈍器などの武器で武装している。ざっと見た想像に過ぎないが、総数は数百、いや数千は下らないか。

仮に、全てがジェーン人形と同じ位の力は持っていないとして、幾ら私でもこの数を相手に突っ込んで無事に抜け出せるとは思えなかった。生憎今は手負いでもある。

メアはここに勝負を賭けるつもりか。
少しずつ小出しにして私を消耗させ、時間をなるべく稼ぐよりも、残った手駒を全て投じて、察するに最高戦力である"彼女"をぶつけて殺す。
よほど"彼女"に自信があるのか、若しくは切り札を出さざるを得ないほど余裕が無いか。
いずれにせよ、私のすべきは逆に"彼女"を仕留めること。
スパートを掛けて来た以上はそれが最大の目標でありゴール。あとは多少怪我をしていようが、メアを捕まえるなんて造作もない。虫の息でも無い限りは。

今まで微動だにしなかった眼前に佇む彼女が悠然と右手を伸ばす。するとその手に渦巻く人形の結界の中から剣が投げ込まれ、彼女はそれを握った。
剣を携えたまま、器用にスカートの裾を摘まんで恭しく一礼をする。
美しい所作だ、素直にそう思った。
人形とは思えない、滑らかな動き。気品すらも感じた。
言葉を話すことは出来ない様だが、心が宿っているのかも知れない。

私も紳士らしく最敬礼で返して、腕を伸ばす。

「…」

少し期待して待ったが、武器は渡して貰えなかった。
まぁ、良い。
決して、断じて負け惜しみではないが、元からレディ相手に武器を使うのも気が引けるなと思っていたからだ。寧ろ安心している位だね。

どちらからともなく視線がぶつかった。それが開戦の合図であると、両者の間には暗黙の了解があった。
彼女はいきなり距離を詰めながら剣を突き出して来た。動きに癖の無い人形だからこその、踏み込み、脚捌きや重心の移動、関節での加速に僅かの乱れも無い完璧な一撃。剣術の指南書にあるお手本の動きを、数十年の修行の末に漸く体に染み込む様な達人の動きを、人形である彼女はいきなり理論通りに再現出来るのだ。

だが、人間レベルの"完璧"は私には通用しない。

徒手空拳ゆえにリーチで劣る私が距離を詰めることを見越しての見事なカウンターだが、私の脳天を貫くには至らない。半身になって右側に回り、彼女の腕を掴もうと目論む。そこに伸ばした腕を私に合わせて薙いで来たが、これも上体を反らして避ける。頭上すれすれを通過した斬撃を確認して身を起こし、彼女の顔に手を伸ばす。握り潰そうとしたがそれを引っ込めて、身を屈める。二度目の斬撃が飛んで来た。私が右手に注意を向けていた隙に、左手にも剣を受け取っていたのだ。危うく腕を一本持って行かれる所だった。

周囲の人形達は結界だけでなく、彼女の"武器庫"でもあるのか。
後ろに跳んで姿勢を起こす。首を撥ねることを狙ってか、二本の剣を交差して挟み撃ちにする攻撃を、刃を指で掴んで止めた。細い身体からは想像できない位の膂力だけど、私に張り合える程では無い。進もうとする刃は阻まれる力とぶつかって震えるのみだ。私は綱引きに移行して引き寄せても良かったのだが、彼女は予想に反して簡単に武器から手を離した。

去る彼女を追う様に二本の剣を投擲する。一本は彼女の首を掠めたが、血も痛みも無いに人形に効果は薄い。続けて投げた物は頭部の真ん中に突き刺さる見立てであったが、横から飛んで来た巨大な棘付きの棍棒に、火花を散らして弾かれた。その柄を空中で掴んだ彼女は、投擲の威力を殺さずに身体を捻って遠心力に乗せ、回転しながら私の蟀谷を砕きに見舞う。腕で防ぐことも考えたが、筋骨隆々の大男すらも地面に引き摺る様な重量のあれを受け止めれば腕骨が粉砕されかねない。棍棒ではなく、腕を蹴り上げて攻撃を逸らす。重量から勢い余ったのか、彼女の手から柄が上方へとすっぽ抜けた。
両手が上がり、がら空きになった彼女の腹に掌底を入れて吹き飛ばす。臓器が無い分血を吐いたりはしなかったが、仰向けに倒れさせて回避の隙を絶つ事には成功した。

追撃の為に飛び掛かって覆い被さり、振り上げた拳を顔面に打ち下ろす。威力の為に始点を高くしたせいか中心を捉える事は出来なかったが、それでも直撃した一撃で、ダメージが顔の側面に少々の罅が入る程度に留まったのは意外だった。流石はメアの最高傑作、頑丈さも精巧さも、思い入れによる強化の幅も桁違いだ。
もう一発、正確なのをくれてやろうと振りかぶって身を乗り出した瞬間に合わせて、彼女の手に握られていた大筒の銃口が、私の眉間を見つめていた。吸い込まれそうな直径3センチ程の暗闇。突き付けられた部分に痒みの様な不快感を覚える。
火薬が炸裂する音が超至近距離で響き、鼓膜が破れたかと思った。顔を咄嗟に逸らしたが、掠め取られた前髪の一部が持って行かれ、額の薄皮一枚程度の擦過傷を負った。頭蓋や脳に一切の損傷は無いが、手を触れてみると血は滲んでいる。
私の顔に傷を負わせたのは君が初めてだ。顔、というか他の部位もだが。

何と言うか、人が最期に見せる輝きと言うか、火事場の馬鹿力?の様な物を常に繰り出されている様な気分だ。全く予想だにしない様な動きだけが連続している。一つ一つでは私の命に危険が及ぶことなどまるで無いのだが、命ない者と戦うの時間には終わりが見えない。死を恐れない、覚悟を決めた者の一瞬の力。ハナから意思など持たない彼等には諦めも恐怖も無い。だからいつまでも執拗に、私の致命を淡々と狙い続ける。最初の内はドミノ倒しやサンドバックを殴っている様でワクワクしていた、しかし今は正直、最初とは心境が違う。飽きている訳では無い。しかし、果たしてこれに終わりはあるののだろうかと言う一抹の…これは何だ?気持ち悪さ、と言うのだろうか。死という明確な終わりを迎えない人形と戦い続ける経験は、これだけでお腹いっぱいだと思った。負ける気は全くしない。しかし高く詰んだ石を、もう一つ重ねれば終わりというタイミングで崩され続けている様な気分だ。

キンキンとする残響に顔を顰めながら、大筒の銃口を掴む。引っ手繰ろうとしたが暴れられ、撃たれた弾が耳の外側を掠める。残されたあと一発は、銃身を床に押さえつけた事で全く見当違いの方向に飛んで行った。彼女を助けるための援護射撃か、弩に番えられた矢が四方から放たれたが、苦し紛れだったのか首を狙った一本以外は致命傷にならないと判断したので無視し、その一本のみを掴んで左腕に突き立てた。メアと"お揃い"という意味も無いでは無かったが、それよりも痛みや負傷を恐れて"彼女"を再び自由にさせないため、動けない様にするのが一番である。肩や背中に刺さった矢は後で抜くなり手当すれば良い、今気にしなければならない程には大したダメージでない。兎に角、彼女にとどめを刺すこと。それが目的だった筈だ。
今度こそ確実に葬るため、左手で彼女の首を押さえつけ、右拳を高く掲げる。次は外さない、振り下ろすだけで、正真正銘これで私の勝利だ。


…待て、本当にそうか?
この違和感は何だ、さっきから薄っすらと感じている気持ち悪さ。
これ見るよがしに餌を与えられている様な。
私は何か、致命的な見落としをしているんじゃないのか?
そんな事は無い、私が間違っていたことなんて。構わずにとどめを刺してしまえばいい、終わらせてしまえば良いじゃないか。たったそれだけだ、力を込めて、叩き込む。
そうすれば勝ち、脅威など半減した様なもので、あとはメアを見付ける。
メアを捕まえれば良いだけなんだから、もう勝ったも同然じゃないか。
そうだ、それは間違いない、疑い様の無い事実なんだ。
じゃあ、"メアの勝利条件"は?
私を殺すこと?それとも一秒でも長く隠れていること?いや、メアにとってそれはどうでも良い。私が死のうが生きようが自分が無事ならば彼女にはどうでも良い。時間制限に関しても、これも私が定めた彼女は知りもしないルールだ。
答えはもっとシンプルな筈だ、そう、生き残ること。
言い換えれば危機を脱すること。
もしそもそも、この"ゲーム"自体が茶番だとしたら?
退屈を感じている私を乗せて、狙いから注意を逸らさせることだとしたら?
私を殺す事は二の次で、着実に体力と気力を消耗させるのが目的だったら?
わざわざ分かりやすく最高戦力など相手に出してきて、必要もない一騎打ちに誘い込む事。
この戦いは本当の目的を偽るためのカモフラージュ。
私達を囲っているこの無数の人形の渦は、結界であり武器庫であり目隠しだったのだ。

目を閉じ、耳を澄まし、周囲の無数の気配を探る。
全てがメアの物だが、途方の無い確率のくじ引きをする必要は無い。
メアの手札は全てこの場に出揃っている。すべきことは恐ろしい程にシンプル。
たった一つ、"玄関ドアへと向かう気配"を捉えること。
それは最早、赤子の手を捻るよりも容易な作業だった。

広間の床に転がっている槍の柄を逆手に握る。投擲のコツは掴んだ、絶対外さない。

たった今人形達の群れが渦巻く雑音に混ざって、間抜けにもよたよたと、屋敷のカーペットの上を走って来る足音が聞こえた。体力を既に消耗し切っているのか、嗚咽の様な呻き声の様な、とにかくみすぼらしい息遣いさえも耳で拾えた。
死んでしまっては折角頑張った甲斐がない。致命傷を避けるために足の辺りを狙う。
渦巻く結界の人形達が主人を守る為に一斉に襲い掛かって来るが、最早関係ない。
私の槍が届く方が早かった。

「ぎゃぁっ…」

笑ってしまうほどの情けない声だ。これだけ楽しませてくれたゲームの相手として、少し残念に思ってしまうほど呆気なく、恰好付かない。

「っ…」
身動きの取れなくなった獲物は呻く。痛みのショックで抵抗する力もなくなったのか、私に凶器を携えて襲い掛かってきた人形達は全て動きを止め、手にしていた物を取り落とし、エネルギーの供給が絶たれた事で次々落下していった。
「て…え…」
先ほどまで酷く煩わしかった結界は、もはや何の脅威でも無い。
その効力を失って、ただ無力な木やブリキの塊だった。

「も、う…、て、え…」
何やらメアが、うわ言の様に何か言っている。
もうやめて、いや、もうゆるして、かな?
命乞いとは、益々残念だ。

降り注いでくる人形と凶器にだけ気を付けて、たまにぶつかりそうになった物を手で払い落しながら、メアへとゆっくりと近付いていく。
いやはや全く、終わってしまえばこんな物か。
「もう…っ…、か…て…え…」
折角私が見込んだのに、最後の最後はみんなと一緒。
希望を絶たれれば命乞い、力尽きて一歩も動けない。
惨めに地面に這い蹲っている。



「は…?」


違う。メアじゃない。
玄関前に転がっていたのは、メアじゃなかった。


「もう、疲れちゃってェ…」

「なんだこの、ぬいぐるみは」


背後。二階から思いっ切り助走を付けた人間が、勢いよく飛び降りていて。
宙を舞い藻掻きながら私の顔へ手を伸ばしていた。

「わたしは、こっち」

身を躱そうにも、もう遅かった。これは完全な油断を突かれた、いや…、正真正銘メアに騙され、誘導され、作り出された隙だ。私の落ち度でなく、メアが勝ち取った。
確かにあったのだ、この屋敷の中に唯一の安全な隠れる場所が。


彼女の指先が額に触れた瞬間、私の意識はブラックアウトした。





「はぁ…はぁ…」

心臓が、肺が、今にも破裂してしまいそうに膨らんで痛い。
身体中がもう限界だと悲鳴を上げている。久し振りに全力で走って、二階から飛び降りて、"彼"の身体そのものを着地点でありクッションとする決死の無茶を敢行したのだ。

人体は柔らかい毛布でもトランポリンでも風船でも無い。床に無防備に激突するよりは遥かにマシだったとは言っても、酷く脆いわたしの身体は全身強い打撲と…恐らくは数か所の骨折をしているだろう。激痛に襲われていない場所なんか探す方が難しい。泣き出したい、もう十分頑張ったじゃないかと楽になりたい。
だけど、それは絶対に出来ない。誰もわたしの命を保証してくれない。
生きる為にわたしはわたしの手で、決着を着ける必要があるから。

はっきり言って、この戦いは読み合い以上に運任せだった。
彼をゲームに誘う言い方をしたのは、彼が自信過剰でこの世の全てが思い通りで、自分以外は全てに於いて自分に遠く及ばないと思っているからだ。
そして彼自身に比べれば少しだけ、わたしに価値を感じている。
興味を持っている相手に対してだけは、彼は譲歩してみたり、付き合ってみたりする。
だから頭脳を買われているわたしとのかくれんぼに、彼が乗らない訳がないのだ。
世の全てを手に入れ(たつもりで)退屈している彼にとって、最高の暇潰しだろう。
ここからが賭けだった。
出来る全ての心理的誘導を行った。
人が入るものとして分かりやすいイメージのある鎧を差し向け、それが空洞であることをアピールした。次に意識の死角から不意打ちで、"わたしが中に隠れている"クマさんで襲い掛かる。それで彼はわたしを刺客の一つだとは認識しても、鎧のミスディレクションと不意打ちによる混乱とで、クマさんを隠れるに十分なスペースであると観察させる心理的・時間的余裕は持てなかった。あの大きさと重さ、素早く戦闘に適した動きは出来なかったけど、結果的にはそれが功を奏した。ひっくり返って動けない愚鈍なでかぶつは、彼にとって何の脅威でも無いからだ。圧倒的な強者こそ、驕った全能感に満たされている者ほど、自分よりも弱い者を警戒しなくなる。槍を使ってとどめを刺そうとして来た時は本当に焦ったけど、強度の高い市松人形と、飛び道具と見た目のインパクトの強いくるみ割り人形で苛立たせたり、印象を搔き消させた。弓兵の援護射撃も加えて、目前のタスクを増やしてやればどんどん、"脅威でない"ものの優先順位は下がる。見えなくなってしまうほどに。
そうして目の前に敵がいなくなれば、おのずと次に進もうとする。

最初の部屋に関しては、あれで窒息死、ないしは焼け死んでくれる事を期待した。
手持ちで一二を競うパワーの市松人形ちゃんだけで彼を留めておけるか心配だったから、ついついドアを押さえるのにも加勢してしまった。怪しまれないか心配だったけど、脱出出来たことによるカタルシスがそれを上書きした様だ。
あとはこっそり元の位置に戻って息を殺していた。
彼が私の計画を半分だけ察してくれて、大きな隙が生まれる瞬間まで。

何とか漕ぎ着けた、唯一にして最大の、千載一遇の好機。
それを掴めたことはわたしの人生で一の幸運なのかも知れない。いや、ハナからこんな事態に陥っている以上は悪運と言う方が相応しいのかも。

わたしのとっておき、誰にも話した事の無い切り札。文字通り自分の魂を込めた人形を、手足の様に感覚を繋いで操る能力を、無理矢理人に応用した。相手が自我のある人間だから人形相手よりもずっと複雑で難しくて、負担が凄いけど、自分の精神をそのまま相手にぶつける事が出来る。わたしの心は一度壊れたから、掛けた相手も壊れてしまう必殺技みたいな物だ。相手の頭に直接触れる必要があるから危険過ぎるけど、彼を仕留めるにはこれ以外有り得なかった。
全ての人形を同時に嗾ければ、わたしが逃げる隙位作れたかも知れない。そうでなくても、彼を何とか撃退出来たかも。だけどそれでは意味が無かった。わたしの今後の安全が保障されるには、撤退する選択肢を与えずに殺すしか無いから。もしわたしが負けるのが今日じゃ無かったとしても、それが何日か後にずれ込むだけだ。だから今、この場でけりを着ける事にした。
結果として、わたしは勝った。賭けに、ゲームに。

だけどまだ、終わっていない。油断してはいけない。
この深淵が人の形をとった様な得体の知れない男にとどめを刺さなければ。
今、男は目の前で仰向けに倒れている。
わたしが触れたことで全ての意識と力を失い、廃人同然になっているからだ。
しかし心臓が止まった人間も迅速で適切な処置を行えば蘇生の可能性がある様に、今はまだ、乗っ取って壊した男の魂が完全に風化した訳では無い。
真に息の根を止めるには、もっと深みへと、二度と浮かび上がってこれない位の闇の中へとこの男の精神を沈め切ってしまわなければいけない。

まだ、寝てていい段階じゃない。
"力"の使い過ぎで脳味噌が焼き切れそうだ。この調子だと全快で力を使える様になるのは何か月先のことだろうか。もしも願いが叶うならば、こんな辛い思いをしながら戦うことなんて一生したくない。でもそれは、これが終わった後の話だ。
手足を動かせ、メア。床を這い蹲って、男にとどめを。
あと少しだけ、あと少しだけ。
ほんの十秒くらい、頭を押さえて壊してしまえば勝ちだ。
息も絶え絶えになりながら、男に近付いて行く。
伸ばした手が、無防備な男の頭に触れ
「いやー、お見事。」



「なん…で…?」


嘘だ、有り得ない。そんな事絶対あっちゃいけない。
どうしてわたしの目の前に、もう一人の"男"が立っているんだ。
確かに、確かにそこに男は倒れている。間違いなく本物だ、幻覚だったり精巧に出来たダミー人形なんて事は有り得ない。誰か他人と入れ替わる隙なんか絶対に無かった。わたしは常に、人形達の目を介してこの男の行動を監視していたから。
だったら、猶更どうして。
目の前にいる男…傷一つ無い彼も、本物なんだ。

「あー、聞きたい?いいよ、ゲームに勝ったご褒美に教えてあげる。」

男はわたしの心の内の全てを見透かした様に薄ら笑いを浮かべて、言った。

「私はね、鏡を使った能力を持っているんだ。任意の鏡…まぁ、水面だとか反射物でもいいのだけど。それを使って、『映るものから映るものへ移る』ことが出来る。」

わたしの屋敷の中に、いつも痕跡もなく現れるのはそういうからくりだったのか。

「でも君が知りたいのはそっちじゃないよね。今使っているのはその応用。鏡に映った虚像を実体化させて、触れる事の出来る分身を作れるんだ。解釈を広げた奥義の様な物。強度は本体より少し落ちちゃうけど、君相手なら何も関係ないよね。」

「じゃあ…わたしが戦ってたのは…」

「いやいや、それは本体だよ。そうじゃないとさ、遊びでもスリルが無いだろう?でも私が"力"を使えば話にもならないから、敢えて縛りを設けてみたって感じかな。」

男は屈んで、楽しそうにわたしの目を覗いた。

「本気で殺そうと思えば、君なんかいつでも殺せた。だけどね、君は生かしておく価値があるから。だからだよ、ゲームに乗ってあげたのは。君がつまらない無価値な、他の有象無象と一緒だったら、直ぐに君の隠れ場所を割り出して殺した。クマのぬいぐるみの中だったんだね、凄いね、騙された。最後まで気付かなかったよ。」

そんな事を言われたって、何の慰めにもならない。
踊らされていたのは、結局わたしだった。
わたしは、負けた。最初から負けていた。
彼との"勝負"が成立したのは、彼が気紛れで乗ってくれただけで。
飽くまで彼に取ってこの戦いすら、ゲームはゲームに過ぎなかったのだ。

「おやおや、そんなに悲しまないで。可愛い顔が台無しだよ。君はゲームとは言え、本気の私に勝ったんだから。こんなに名誉なことは無いだろう。ほら元気だして。」


掛けられている言葉も、意味としてではなく連続的な音としか認識出来ない。
すぐ傍から聞こえているのに、霧の向こうの遠くから届いて様だった。
もはや何もかもが他人事の様にしか思えなくて。
いや、そう思っていないと壊れてしまうだけなんだろうな。


靄の掛かった頭の中に、もう一つの音が聞こえて来た。

「おや…」


低く、響いて来る規則的な音。無機的で、聞き覚えのある。
大広間の時計か。十秒ほどぼうっとして、それでやっと気付いた。

「十二時の鐘だね。」

本来だとこれがタイムリミットだったんだけどね、でも君がそれを待たずにわたしに勝ったからね、そう男は続ける。わたしにはもう、そんなことどうでも良いのに。

早く殺してくれたらいいのに。流れ落ちた涙がカーペットに滲みを作っている。
数秒経つと、男が立ち上がる衣擦れの音がした。
どうやらもう、男は…と言っても本体の方はもう目覚めたらしい。
何やら気の利いた冗談の様なものを言われている様だが、わたしには聞こえない。
もう何も、聞くつもりなんかなかっただけだ。
わたしにこれから、聞くべき音なんか一つもない。

しかしそれがどうやら男の気に食わなかったらしく、髪の毛を乱暴に掴まれて顔を上げさせられる。あぁ、こんな事が前にもあったなぁと思っていたら玄関の方を見せられた。

誰もいない玄関。わたしの味方は誰もいない玄関。
違うな。もう笑えてくる。この世界にそんなもの、一人もいなかったんだ。

男が何か言っているのが視界の隅で見える。頭がぼやっとして靄が掛かったみたいだけど、唇の動きで内容は大体分かる。

『友達、だれも来なかったね』

「分かってるよそんなこと」

男はすごく満足げな表情で頷いて、わたしを肩に担ぎ上げる。


どこに行くんだろうか。いや、今向かっているのはこの屋敷のどこか適当な鏡…姿見とか、化粧台とか、窓ガラスとか、だろうけど。そうじゃなくて、そこを経由した先の目的地がどこかって感じ、の話。

…それもまぁ、どうでもいいか。



あーあ。



わたしの人生、何にも良いことなかったな。









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