沈む夕陽
居ても立っても居られず、私は家を飛び出ていた。
空は薄っすらと夕間暮れて茜色が差しており、普段であれば御夕飯の支度を始める頃合いだろう。
オルキス様は只の他人に過ぎない上に居候の身である私に、何かを課す様な事は殆どされないものの、酒場の営業日以外は大体決まって、一緒に夕食作りをするのが習慣になっていた。
お優しいオルキス様の事だから、きっと私を咎めなさったりはしないだろうけれど、そんな寛容な彼女を困らせてしまう事が却ってとても心苦しい。
だけど、私が今のこころの状態でお手伝いをして、オルキス様の大切なお皿を割ってしまったり、手元が狂ってお料理を台無しにしてしまう方が嫌だ。
いや、それすら保身に走った言い訳かも知れない。
私は怖かった。
私がオルキス様に、あの家に受け容れて貰っているツバキでいられない所を見られるのでは無いかと。再び棄てられるのが怖かった。
だから襤褸を出す前に、体調が優れないから夜風に当たると杜撰な嘘をついて、逃げ出したのだ。
オルキス様は私を心配しておられるかも知れない。
勿論、今日この時までお世話になっておきながら禄に挨拶もせずに家を出て行くつもりは無い。
無駄な心労をさせない為にもちゃんと今日中には帰って、勝手に飛び出した御詫びをする。
だから、もう一度きちんと顔を合わせてお話出来る様に、この胸の内をすっきりさせなければ。
せめてそうしないと、私は徒にオルキス様にご迷惑を掛けただけに終わってしまう。
「……」
だけど、逃げ出す先も思い当たらなかった。
私はつまらない人間だ。
そもそも生まれた事自体が望まれていなかった、そんな無価値な人間だ。
偶々、雲間から差し込んだ光に照らさせた様に、オルフェ様が手を差し伸べて下さっただけ。
そうして"人間"として生きる機会を頂けただけの私はせめて少しでも人の役に立とうと、あの人の役に立てたらと、そうしなければいけないと生きて来た。
誰かに望まれて生まれた人、今誰かに必要とされる人の為に。それが天が私に与えてくれた役目だと。
なのに、私は余計な感情を持ってしまっている。
よりにもよって、誰よりも気高く誠実なオルフェ様の幸せな門出を心よりお祝い出来ないなんて。
故障だ。
人の御役に立つ事にしか存在意義の無い私が、こんな誰の利益にもならない自我を持つなんて事は。
そんな事態は故障に他ならない。
奉公する人形として、どうしようもない出来損ないである自分に苛立ちを覚えた。
ふと両手の甲を自分に向けて見て、一番長い爪を探して見る。僅差だけど、左手の小指がそれだった。
行儀が悪いのは重々承知で、端を噛み切る。
「……」
そして深く息を吸い込むと、少し落ち着いた。
私に個人的な趣味や嗜好があるとするなら、このルーティンになるだろう。
爪を少し、家事に支障を来さない程度に伸ばして、こころがいっぱいで溢れそうになったら切る。
そしたら、そこが私から切り離されて何処かに消えてくれるのだ。
本来だったら爪切りを使うのだけど、予定にない外出だから止むを得なかった。
家に帰ったらきちんと整えるとしよう。
そう思いながら、噛み切った爪のかけらを口から出して、ハンカチに包んでポケットに仕舞った。
行く当ても無いまま歩き出す。
空を見るに御夕飯の時間までそんなに猶予は無い。
遊んで気を晴らすなんて考えた事も無かったから、行き着けの行楽地や思い出の場所も無い。
常々私は空っぽでつまらない人間だ。
「…森」
そう言えば、この辺りから少し離れると森がある。オルフェ様も確か仰っていた。
自然に囲まれると落ち着いてすっきり出来ると。
…また私は"オルフェ様"か。
だけど他にそれより素敵なアイデアも浮かんで来ないので、脚は止めなかった。
しばらく、恐らく半刻ほど歩いた。
結論から言うと、まことに残念な事に森に私の居場所は無かった。
腰を掛ける様な丁度良い切り株は見付からない。
そもそも、少なくとも夕暮れの薄暗い時間に来るべきでは無かった、という話なのだろう。
多少剣の腕に覚えはあっても、夜の森が街よりも危険である事は変わらない。
それなりの時間を掛けて探せば座れる場所もきっとあるのかも知れないけど、広い枝に光が遮られた森の特に暗い頃に、時間に追われながらではなかなかそうは行かない。
もう引き返してしまう事も考えてみたのだけど、下手に時間と労力だけ費やして、みっとも無い事に更に上手く行かない苛立ちも重ねて、そんな状態であの家に帰りたくは無かった。
柔軟性に欠けると良く言われる私は、また意地を張ってそのまま進む事にした。
そうしか出来なかった。
それほど広く無い森だったからか、目印を付けながら真っ直ぐ進んでいれば、背の高いブナだらけの景色にも終わりが見えて来た。
森の端っこと見える方角。木の隙間から傾いている赤い光が覗いている。そこにどこか誘われる様な…蛾の様な気持ちで私は足取りを早めた。
流石に整備されてない獣道を歩き続けて、鍛えている私の脚も多少は疲れている。
だけど確信めいた予感に袖を引かれているせいか、ゆっくりと休んで進めば良いなんて思わなかった。
私は森の最果てに辿り着いた。
「…ぁ」
景色に思わず声を漏らしてしまって、それが恥ずかしくなって掻き消す様に息を飲んだ。
眼前に広がっていたのは、人の手が入っていない美しい砂浜と、澄んだエメラルドの海。
それが水平線に掛かりそうな夕陽に照らされて、きらきらと光って見える。
こんな綺麗な景色は今まで見たことがなくて、霧の様に消えてしまうんじゃないかと思えて。さっき迄よりももっと速くと、疲労も忘れて走った。
針に刺された様な痛みが肺に走って、漸く私は脚を止めた。頭にざらざらと雑音が入り込んで、上手く考えられない。訳が分からなくなる位に。
流石にこれはしっかり、一度腰を落ち着けて休まないと思って。
浅くて荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回すと、そこに流れ着いて何年経つんだろうと思う様な白い流木を見付けた。
あそこなら丁度良さそうだ。
私は必要も無いのに息を切らして、膝に手を着いたりしながら、流木に辿り着いて座り込んだ。
何故かやけに落ち着く。流木のややカーブした形状に背中がフィットして、収まりが良いせいか。
私が元からこの木の一部だった様に思える位だ。
何より、ここが一番綺麗に夕陽が見える気がする。
「あれ…先客がいたッスね…」
急に後ろから声がして、驚きながら飛び起きた。
「っ…すみません…!!」
「いやいや…良いんすよ…オレ今来たんで…あれ」
何かに気付いた様な相手方の台詞が気になって、恐る恐る顔を上げた。
「…ぁ」
「…ツバキ…ちゃん…さん…?」
その人は、長身と黒髪、やや鋭い目が特徴的な青年…たしか八番隊所属のヴァル様だった。
「…!はい!四番隊所属のツバキで御座います。」
よく同じ隊の"あの人"と一緒に居た。"オルフェ様"も其処に居て…三人で。その印象が強い。
右拳を左胸に当て敬礼をすると、ヴァル様は顔を綻ばせながら手を軽く上げて遮った。
「いや、良いんすよ!今日はお互いにオフみたいだし、全然別にオレ上官じゃないんで!」
「…はっ、では」
お言葉に甘えて、敬礼を解除した。
「…申し訳有りませんヴァル様。私は直ぐに御暇しますので、此処でどうぞお寛ぎ下さい。」
楽にしていた所を見られた気恥ずかしさもあって、私は深く礼をして足早に去ろうとした。
「…待って!」
大きな声で呼び止められた事にびくっとしながら、思わず脚を止めて振り返る。
「…はい、何で御座いましょう」
ヴァル様は私を呼び止めたのに何も言わなかった。
気不味そうに瞼をぱちぱちさせながら、数秒間が経ってから彼は漸く、
「…ここ、夕陽が綺麗っスよね!」
と言った。
「…はい。ツバキもそう思います。」
再び、彼は少し俯いて黙ってしまった。
今度は私が言葉に困ってしまった。
はて、と首を傾げる。
ここの景色が美しいのは、何処にも反論の余地が無いほど明白な事実だと思う。
だけどそれは、わざわざ去る物を呼び止めて言う程の事なのだろうかと。
彼の語気や口調、その言葉を発するまでの時間からしても、それほど伝えたい情熱を含んでいる様には思えなかった。
いまいち言葉の意図を測りかねていると、私の目が訝しんでいる様に思われてしまったのか、ヴァル様は続けて言葉を投げ掛けた。
「…えっとオレ、ここの景色が好きで!偶に…何か難しい事考える時はよく来るんすよ!…え〜、でも、あの普段は全然対した事無い内容って言うか…!」
ヴァル様は自分で話しながら、しどろもどろで着地点が見付かっていない風な様子だ。
「その…!えっと…何か心が感動したら、器がそれだけでいっぱいになって、他の事は消えちゃう、みたいな…!分かるっスよね…!」
相変わらず話の筋は見えないが、話の展開上共感を求める様な色を瞳から見たので同意する。
それに、その感覚は実際分からないでも無かった。
「…はい。分かる様な気がします。」
彼は安堵した様な表情を浮かべ、手で相手を落ち着かせる様なジェスチャーをしながら続ける。
「…で!えっと、…この景色オレしか知らないの勿体ないな〜って前々から思ってたんで!あの、つまり!これから日が沈んで行くのもっと綺麗なんスよ!ホント勿体ないんで!一緒に見ましょう!」
「…えっと、はい。有難う御座います。」
予想外の着地点に一瞬意味が飲み込めなかったが、折角のお誘いを無碍にする理由も無かった。
それに、今より美しい景色があるのだと教えて貰った事で、少しだけ沈んだ心が踊った様に感じた。
「ではツバキは立ったままで結構ですので、ヴァル様は此処にお座り下さいませ。」
「いや!オレは何回も座って見てるんで!」
「いえ、でしたら尚の事座って下さい。ここがお気に入りの場所なのでしたら、ヴァル様にお座り頂くべきだとツバキは思います。」
「いやいや!女の子に立たせてオレだけ座るとか出来ないッスから!絶対!」
「いえ、お気遣いなさらないで下さい。ツバキは長時間立つのに慣れております。」
「いやいやいや!ほら、ツバキさん多分あっちの森の方から来たじゃないっスか?絶対オレより疲れてるんで!あとオレ家から近いんで全然疲れてないっスから!」
「いえ、しかし…ツバキは長時間立つ訓練を…」
「じゃあもう…えい!」
無限に続く様に思われるやり取りを終わらせる為にか、ヴァル様はいきなり砂浜に座り込んだ。
「ヴァル様…!それではお召し物に砂が…!」
多少は汚れる事を前提としている隊服とは違って、オフの彼が今着ている物は私服だ。私服が汚れて良い気分になる人なんていないだろう。
「お立ち下さい!それでは汚れてしまいます!」
「お立ち下さいって言ったっスね?そんじゃ、空いてる特等席にはツバキさんがどうぞ!」
「っ…そういう意味では無くて!」
「あははっ…もうオレは座っちゃったんで、テコでも動かせないっスよ!…それに何すか、長時間立つ訓練って!軍でそんなんしても役に立たないっスよ。」
「そ…それは…しかし…」
確かに、自分でも多少無茶のある事を言った自覚はあったが。わざわざ指摘されると途端に面映い。
普段より成る可く隙の無い言動を志しているだけに、この様な事を言われるのは初めてだった。
未だ嘗てこんなに動揺した事が無かったからか。
「さ、人の厚意は無碍にするもんじゃないっス。」
「…しかし…、ツバキだけが汚れないなんて…その様な事は失礼に値すると思えて…、どうもツバキには」
「ツバキちゃん」
「……?」
「ツバキちゃん。」
「…はい。」
「オレはまだ、あんまり人と距離を詰めようとしないツバキちゃんに、馴れ馴れしく"ツバキちゃん"って呼んだっス。これでオレは無礼者っスから。」
「…いえ!そんな事は失礼でも何でも…」
「んじゃ、同じっスよ。オレはツバキちゃんに、ここの景色を一番良い形で見て欲しい。どうしても気が引けるなら、オレからのお願いって事で。ね。」
ヴァル様はそう言って、私に微笑んで下さった。
私は、これ以上食い下がる作法を知らなかった。
それに不思議と何故か、私には相手がそう望んでいるからとか、それが失礼に当たらないから、では無く。この人に居心地の良さを感じている様だった。
「…では失礼します。」
恐る恐る腰を下ろす。
人よりも高い位置に座る事にはどうも慣れないが、胸に手を当てて深呼吸をした。
私はそれから赤い夕陽が、何よりも赤く綺麗に見える夕陽が、海に沈んで行く様子を眺めた。
その景色はとても、確かにヴァル様が仰っていた様にとても美しかった。言葉を失う程に。
陽が刻々と、確かな速度で落ちて行く様子なのに、不思議とこの時の永遠を感じた。
そして、燃え上がる様な赤に、終わりに向かってより強く燃え上がって行く赤に、今生の別れを見た。
こんな、こんな充足感と寂寥感を…一つとして無い様な大きさで覚えたのは初めてだ。
思わず、こころが綻びそうになった。
こころが、今にも溢れそうになった。
「私は生きていて良いのでしょうか」
雫が流れ落ちる様に、気付けばそう零していた。
そんな事を言った自覚は無かった。言おうとしたつもりは無かった。
だけど、口を覆った後でも確かに思うのは、間違いなくそれは私の声で、そして、私が言った言葉だと記憶に無くても納得出来る内容だったという事。
「っ…すみませ」
ふわりと、私の頭に何かが触れた。
「良いんすよ。」
それがヴァル様の手だと分かったのは、その言葉と頭の上に感じる物の温度が同じだったからだ。
とても温かくて、大きくて、ごつごつしている筈なのに、凄く優しくて柔らかく感じる。
「すみません…」
この言葉がヴァル様に聴こえたか分からない。それ位不明瞭で濁って、息も支えた発音だった。
「良いんすよ」
だけどヴァル様はそれだけ言って、折角の夕陽すら滲んで良く見えていない私に何かを渡してくれた。
ハンカチだった。
正しい発音で礼を言う事はまだ厳しそうだったので、申し訳無いが何も言わず使わせて頂いた。
気のせいか、私が使うよりも前にもう既に、そのハンカチは温かく少し濡れている様に感じた。
やっと少し落ち着いてから、ヴァル様の方を見る。
彼は、自分が勧めた夕陽も見ずに俯いていた。
私の頭の上に、優しく手を置いたまま。
私達二人は、暫くそのままでいた。
二人とも何も言わず、何も言えずに。
ただ完全に陽が沈み終えるまで、そうしていた。
どちらともなく、もう頃合いだという空気を感じ取って、また何も言わずに立ち上がった。
この辺りに詳しいという彼の後ろを着いて歩きながら、私は思わず自ら声を掛けた。
「あの…もう一度ここに来ても良いでしょうか。えっと…貸して頂いたハンカチ、洗って返しますので…」
彼は優しく頷いて、
「理由とかは良いっスよ。来たい時に来たら良いんす。…いや、オレもいつでもいる訳じゃ無いっスけど…」
「そうですよね…」
それはそうだ。彼はこの砂浜に住んでいる訳じゃないのだ。私は馬鹿か。また恥ずかしくなって、思わず下を向いてしまった。
だけど、この恥ずかしさも不思議と悪くなかった。
私は今になって漸く、自分のポケットにハンカチが入っていた事に気付いた。
どうせ噛み切った爪の欠片を包んでいたので、彼に差し出す事は出来なかったのだが。
「……」
それがいつになるか分からないが。
今度ここに来る時は、二枚持ってこようと思った。
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