見出し画像

目には見えない

私たち人間は、日々何かしら「選択」しながら生きている。
朝食にトーストを選んだのも、車でカフェに向かったのも、こうしてnoteを書いていることすらも選択した結果だと思う。

しかし、そもそも「選択」とは何だろうか。
辞典を頼ると、

多くのものの中から、よいもの、目的にかなうものなどを選ぶこと。

といった具合に、「よいものを選ぶ」となる。

つまり、ただ「選ぶ」のではなく、
自分にとってメリットとなるものを選ぶことを「選択」と言う。

先日、とあるテレビ番組で、「あなたにとって人生最大の選択は?」と言う問いをコインランドリーで洗濯している人々に取材しているコーナーを見かけた。
きちんとは見なかったが、どの人もその後の人生におけるきっかけとなったタイミングを挙げているような気がした。

何かのきっかけで2つ、あるいは幾つかの中からどちらかを選んだことではなく、
自分にとってメリットとなった選択は何か、と自問したい。

・・・

パッと思いついたのは、
小学校低学年で「水泳」を習い始めると決めた「選択」だろう

しかし、この水泳は水泳自体に何かメリットがあったわけではない。
実際、水泳自体は習い事の領域を超えることはなく、県大会に出たとか、何かの大会で優勝したとうことは一切ない。

しかも、小学校6年生の夏を過ぎた頃にやめた。
というのも、小学校6年生の夏まで続けなさいという親との約束があったからだ。

では、なぜ「水泳を始めた」という「選択」ことが自分にとってメリットがあったかというと、理由は違うところにある。

私にとって切っても切り離せないものは「陸上競技」だ。
私は小学校1年生から高校を卒業するまで競技者(中長距離種目)として続け、社会人になった今でもランニングを趣味としている。
尚且つ、「陸上競技」をしていたことで今の仕事の幅が広がっていることも事実だ。

もし、「陸上競技」がなければ今の自分はないと言っても過言ではない。

始まりは小学1年生まで遡る。
小学1年生のとき、地元に小学生〜中学生が所属する「ランニングクラブ」があった。
練習は週に2日。水曜日と土曜日の午後6時か7時からだったと思う。

どういう流れだったかは忘れてしまったが、私はそのクラブに入りたがった。
もしかしたら親の勧めだったかもしれないし、周りの友人の影響だったかもしれない。

しかし、私がランニングクラブ(陸上競技)を始めようとした時、別の問題が発生した。

・・・

私は、「喘息」持ちだった。

最初の体験の時だっただろうか。
皆で一緒に1周200mの校庭を走り始めたのに、
私は半周の100mほどで苦しくなり、隣を走っていた母親と共に周りから遅れ、
寂しくスタート地点に戻った記憶がある。

苦しい肺を抱え、咳ごみながら前を見ると・・・
楽しそうに走っていく皆。

なぜ自分は苦しくて、思い通りに走れないのか。

小学1年生の記憶なんてほとんどないはずなのに、
なぜか当時の悲しさ、虚しさ、悔しさは、暗い校庭の電灯と共に頭の片隅に残っている。

・・・

父親が会社仲間から聞いたらしい。
『水泳』をやれば喘息が治る」と。

そうして「水泳」を始めた。
始める「選択」をした。

水泳」が上手くなりたかったのではない。
陸上競技」ができるようになるという自分にメリットがある。
ここに紛れもない違いがある。

詳しくは省略するが、
結果的に、小学3年生の頃には喘息で苦しむことなく走れるようになった。
仲間と一緒に練習したり、地域の大会に出たり、駅伝で襷を繋いだりする小学生時代を送った。

時は流れ、なんやかんや「陸上競技」と共に人生を駆け抜け、今に至る。

陸上競技」を続けたことで得られた出来事や成果など数えきれないくらいのものを手にすることができた。

・・・

結果的に人生に最大級のメリット生む「選択」をしたわけだが、
ここまで振り返ってみると、「選択」というものは実に面白いものだと思う。

なぜなら、私の場合、自分にとってメリットのある選択をしたわけだが、
その選択肢は私が見つけたものでもないし、自分だけでは選択することができないものなのだ

水泳」をすれば喘息が治るかもしれないという情報を得てきたのは、父親だ。
水泳」を続けるために送迎をしてくれたのは、母親だ。
若干6歳の私が「水泳」を習うことができた(資金面)のは、家族のおかげだ。

そう、どれもこれも自分のメリットなのに、自分がしたことなどこれっぽっちもないのだ。

ここまで言えば伝わるかもしれない。
選択」は自分ひとりのみでするだけのものではないこともある。

他者によって選択肢が与えられ、他者のおかげで決定できるものもあるのだ。
(もちろん、逆も然りではあるが。)

今、何か目の前に選択しなければならないことがあるとき、
自分にとってメリットのある方を選ばなければならないとき、
これらは目に見えて分かる「選択」だ。

しかし、自分には思いもよらない「選択」もあることを私は忘れないでいたい。

この先苦しいことや辛いことがあるかもしれない。

このnoteを何かのきっかけで目に留めた人は、
もしかしたら正に今、そのような状況かもしれない。

でも、「選択」はそれを救ってくれることもある。
しかも、自分以外によって。

そうであるならば、どんなにしんどくても、
何かのきっかけによる「選択」を希望を持って待てる、掴むことができる気がする。

あの時、あの「選択」は、
「した」のではなく「させてもらった」ものであるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?