OVA「ヨコハマ買い出し紀行」感想・批評

※ネタバレを含みます


作品の紹介

・原作は 芦奈野ひとし による漫画作品、1994年~2006年にかけて月刊アフタヌーンにて連載。
・アニメ版OVA1期(監督 安濃高志)は1998年発売、そしてOVA2期(監督 望月智充)が2002年から2003年にかけて発売。
・本記事ではOVA1期について扱う。[i]
・作品の舞台は、何らかの原因によって文明が緩やかに滅びつつある世界状況の中の日本。(日本という国の単位が残存しているかは不明)
・神奈川、三浦半島の片田舎にある長らく主人の去った家(カフェ)で、留守番しながら生活するアンドロイド「初瀬野アルファ」が主人公である。
・一体何が起きてこのような世界状況に至ったのか、作中では具体的な説明はない。
・また世界の崩壊に関連して何か劇的なドラマが展開されるわけでもなく、滅びゆく世界の中での淡々とした日常が描かれる。

作品の背景、滅びゆく世界、そして日本

 本作品が作られた90年代と言えば、時代的には1991年にバブル経済が崩壊し、日本経済および社会が現在に至るまで続く長い停滞期に入り始めた時代である。
 同時代に起きた大きな事件としては、1995年の阪神淡路大震災、同年のオウム真理教による地下鉄サリン事件がやはり印象的だろう。社会学や批評の分野では、この95年頃を日本社会におけるポストモダンの転換点と位置付ける論も多い。
 経済・金融の分野では、バブル崩壊以後、従来の単純な金利操作のような伝統的金融政策が機能不全に陥り、景気回復の目途もないままいたずらに時間が過ぎていた。「もしかして、日本はこのまま終わってしまうのではないか?」、「以前の繁栄や成長はもう二度と戻ってこないのではないか?」、90年代中盤というのはまさに、人々が徐々に少しずつそんな停滞の雰囲気に気づき始めた時代だと言えるだろう。[ii] 
 これを踏まえ、安直な社会反映論に堕することを辞さずに言うならば、やはりヨコハマ買い出し紀行の「緩やかに滅びゆく世界観」というのも、そのような当時の日本社会の状況や雰囲気をいち早く敏感に察知し、作品に織り込んだものと受け止められるだろう。
 もちろん緩やかに滅びつつある世界という設定は、90年代以前にも例えば宮崎駿『風の谷のナウシカ』や、SF小説ではネビル・シュート『渚にて』などにおいても見られる。
 しかし、本作において特徴的なのは、そういった「滅び」がもはや抗う対象ではないという点だ。登場するキャラクター達は、滅びゆく世界をさも当たり前のように受容しており、その中で普段と変わらぬ日常を淡々と生きる。もちろん、各キャラクターの内面には滅びゆく世界の受容にあたって様々な葛藤が存在しているのかもしれない。しかしそれらが前面に浮上し、ドラマチックな物語を展開するような事はここでは起きないのだ。それは諦念とも滅びの美学とも、ある種の悟りとも形容しきれない独特な雰囲気を作品に与えている。
 そしてまた滅びゆく世界の側も否定的にではなく美しく描かれる。水没した都市の廃墟、壊れゆくインフラ、雑草に覆われた道路など、一つ一つの風景が豊かな情感を伴って表現されるのだ。
 例えば作品のラストシーン、夜の海辺の高台から水没した都市廃墟に灯る電灯を眺めた主人公は感動のあまり言葉もなく静かに涙を流す。文明の崩壊によってモノが外部性を剥奪され、自律的な存在へと変化する。何の理由もなく、誰のためでもなく、光るためだけに光る街の灯。作中でも屈指に美しいシーンであるが、ここでは「滅び」に対し狼狽するわけでもなく、抗うわけでもなく、滅びすらも何気ないものとして静かに受容された上で、そんな世界宿る美しさが優しく肯定される。
 日本が緩やかな滅びの時代に突入し始めた90年代の中盤、人々がそんな時代的雰囲気に気づき始めてまだまもない頃において、早くもそのような「緩やかな滅び」に対してそれを前向きに受け止めるような価値観を提示した本作は、時代における先駆的な作品であったと言えるのではないだろうか。

物語の後退、あるいは世界観の前景化

 本作の特徴の1つは上述の「時代の雰囲気を鋭敏に捉えた先駆的な作品」であると言えるが、それをさらに印象付けるのは「物語の後退」という点だ。[iii]
 その前に、一度ここで押井守(映画、アニメーション監督)が指摘する映画の三要素について確認したい。それを簡単にまとめれば、映画とはストーリー、キャラクター、世界観の3つの要素で構成され、このトライアングルのどの要素を頂点に持ってくるか、すなわちどの要素に重点を置くかによって映画の種類が変わると言う作品理解の枠組みだ。
 この認識をアニメーション作品にも適用してみたい。その場合、個人的な意見ではあるが、この三要素の中で重要なのはまずキャラクターかあるいはストーリーのいずれかになると思う。そして世界観は、あくまで裏方としてストーリーやキャラクターを背景として支えるものというのがおそらく一般的な感覚と言えるのではないだろうか。[iv]
 しかし本作における3要素の序列は世界観 > キャラクターまたはストーリーの順になる。あらすじの項でも指摘した通り、本作には複雑な人物関係が入り乱れたり、世界の滅亡に抗ったりなどといった大仰なドラマや物語はそもそも存在しない。あえて作品を貫くストーリーを記述するならば、「ある日旅に出ている店の主人から郵送されてきた贈り物(中身はカメラ)を受け取った主人公が、そのカメラを使用して身の回りの景色を写真に収めてまわる」といったただそれだけの穏やかなものだ。
 しかしながら主人公が使用するこの「カメラ」という重要モチーフの登場によって、本来背景であった世界観は、むしろ被写体としてそれ自体が観察される対象として前景化する。物語の後退と背後の世界観の前景化、この相互作用によって3要素のトライアングルの頂点は変動し、世界観自体が作品を構成する中心要素として浮上する。
 もっと言えば、もはや世界観や世界そのものこそが、この作品の主人公であるとすら言えるかもしれない。
 こういった傾向は、本作の抑制的な音楽演出からも窺える。BGMの使用局面は最小限に抑えられ、むしろ風の音や雨音、鳥のさえずりなどその作品世界の持つ固有の自然音が強調される。あたかも、この作品の主役は世界観および世界そのものであり、BGMはそれを邪魔しないよう慎重に使用するといったような配慮が感じられるのだ。[v]
 こうして緩やかに滅びゆく世界観およびそれをどのように捉えるかといったキャラクターの態度は、中心的主題として作品を構成する。 

今(2020年代)から見る

 上述の内容をまとめれば、OVA「ヨコハマ買い出し紀行」は、当時の時代の雰囲気を鋭敏に捉え世界観へと反映している作品として捉える事ができ、そこで提示される滅びを静かに肯定的に受け止める態度も時代に対して先駆的であった。また作品の構造自体もそういった世界観というものに特にスポットライトを当てるような作りになっていると言えるだろう。
 ではこの作品を2020年代の今を生きる人々の目から見るとどのように映るだろうか。
 残念ながら、緩やかに滅びゆく世界といった我々を取り巻く日本の状況は2020年代においても変わっていない。失われた30年と呼ばれる経済低迷、抜本的な解決の目途のたたない少子高齢化問題、太平洋における米中パワーシフトに伴い不安定化する安全保障環境など、日本に暮らす人々にとって未来とは決して明るい展望を抱けるものではない。
 むしろ、「徐々に滅びゆく世界に生きている」といった感覚の方が今を生きる私達にとってリアルなのではないだろうか。本作の提示する世界観は、作品が世に出されて20~30年ほど経った現在、より強固にそのリアリティを増しているのである。
 「ヨコハマ買い出し紀行」では、終末に際し、人々は静かにそれを受容し穏やかに生きている。では今まさに滅びの時代をリアルタイムで生きる我々に対し、本作は何を語り掛けてくれるのだろうか。


注釈

[i] この記事の筆者は原作漫画未読であるため、その内容までは踏み込めない。

[ii] 90年代後半になるとサブカルチャーの分野においてもそのような時代の停滞感、閉塞感を反映したと思われるような暗い雰囲気の作品が多く世に出された。

[iii] 言うまでもなく「物語の後退」は2000年代以降にブームとなった所謂「日常系」、「空気系」と呼ばれるジャンルの作品に対しても指摘できるが、ここでは扱わない。

[iv] ここでは扱わないものの、物語やキャラクターおよび世界観に関する問題を扱った議論として、(既に多くの人によって語りつくされた感もあるが)大塚英志の「物語消費」や東浩紀の「データベース消費」のような概念も存在する事は留意が必要だろう。

[v] 本作は、その作品の持つ緩やかな雰囲気からアニメ「ARIA」シリーズと似ていると評されることもある。しかし、ことに音楽演出の観点から言えば両作品は全く対極の原理によって作られている。


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