第3話 文字への旅

ハムニオの病の知らせがホムタ王の元へ届けられたのは、翌日の事であった。身体がだるいと聞いていたのは僅か1日前の事であった。歳のせいで冬の寒気がこたえたのだろうと、ホムタ王は軽く考えていた。
ハムニオの元を訪れたホムタ王は、少し離れたところに留め置かれた。ハムニオの命令で、ホムタ王への病の感染を恐れた為の処置であった。
側女に話を聞くと、最早、意識は混沌としており、身体が火のように熱いと言っていた。何よりも身体中に赤い発疹が出ているそうだ。
ホムタ王は嫌な予感がしたが、それが当たるのに時間はかからなかった。
翌朝まだ夜が明け切る前に、ハムニオの死の知らせがホムタ王の元に届いた。覚悟していた事だが、長く幼少期から仕えてくれた重臣であったので心は重く沈んだ。昨夜阿直岐から聞いた事を、ハムニオと協議しようとしたその日にこの様な事になるとは。
知らせを届けたのはクミンという舎人だったが、何か言いたげである。
「なんじゃ、他に何かあるのか、しばらくは人と話したく無い」
ホムタ王が冷たく言い放った。
「でもございましょうが、阿直岐様が、先程より、そちらに参っております」
おそらく弔問に来たのだろう、阿直岐は客人、客人の弔問を断るわけにはいかなかった。ホムタ王は無言で了承しうなずいた。
阿直岐が程なく姿を現しひれ伏した。
「ハムニオ様の事、お聞き及びにつき、参上しました、ホムタ王様、誠に申し訳ありません、全て、私の不始末によるものでございます」
ホムタ王は怪訝な顔をした。
「どうしたのだ、ハムタオが死んだのは歳と病、どちらかというと歳のせいだ、そなたのせいでは無い」
阿直岐は額を地面に押し付けて上げない。全身に震えを起こしている。
「違います、ハムニオ様が死んだのは私の不注意によるものです、ハムニオ様が昨日私の船に乗船してきた病人を見舞いに来てくださり、その時、乗員の病がハムニオ様にうつってしまったのです」
ホムタ王は少し驚いた、ハムニオが自分に黙ってそんな細やかな対応をしていた事に驚き、また、あらためて失い難い人材を無くした事を実感した。体調不良なのを推して、海外からの使者の乗員を気遣うなど、ホムタ王には考えもつかなかった。
「そうでは無いのです、私の船の乗員ははなから病をうつそうとして倭のクニへ来たのです、あの者は我が百済へ送り込まれた敵国高句麗の間諜であり、また刺客であったのです」
「何」
ホムタ王の顔色が変わった。阿直岐は続けた。
「あの刺客は、高句麗から送り込まれた者と解ったのは、病の看病にあたっていた同船の者が、衣服の下に刺青を見つけたのです。しかも、その紋様は高句麗南部で盛んに彫られている紋様だったのです、乗員が、そのことを問い詰めるとその者は舌を噛み切って絶命しました。そこらの船員が出来る事ではありません」
阿直岐は続けた。
「あの者は、高句麗の手の者によって故意に痘瘡に罹患させられ、私の船に紛れ込ませられた兵器そのものだったのです、おそらく倭の国に文字を移入させる事を察知した高句麗が、それを阻止する為にやった事に違いません、文字が倭のクニへ渡れば王の司令はクニの隅々まで行き渡り、権威は倍になるどころの騒ぎでは無い、一万の槍を持った兵が現れた様なもの」
ホムタ王に衝撃が走った。
なんと言う事だ。人間を強力な流行病に罹患させ、それを敵軍に紛れ込ませ病を蔓延せしめて敵を弱体化させ、壊滅させるとは。ホムタ王には考えも及ばぬ狡猾な作戦だった。おそらく、阿直岐も含めて乗員は皆若く、偉丈夫で、屈強な為感染しなかったが、老齢なハムニオはひとたまりもなかったのだろう。
「たとえ罹患させた間諜が死んでも、病を敵方に持ちこむことが出来れば敵方の被害は甚大、恐るべき兵器じゃ。死んでも襲いかかってくる兵器など防ぎようがない」
ホムタ王は呟いて、はっとした。ハムニオ以外にも感染者は出る可能性がある。強力な感染力のある痘瘡が倭のクニに蔓延したら文字どころではない。
「阿直岐、どうしたらいいのか」
阿直岐は立ち上がり言った。
「急ぎ、痘瘡にかかっているかどうか調べてください、特に船に出入りした者、他に亡くなった人がいるとは思えないですが、身体が熱くなっている者、身体に瘡蓋、水脹れ、発赤が見受けられね者を1箇所に集めて他の者から遠ざけてください」
「あと、ハムニオ様の遺体は火にかけて焼いてください、穢れが消えます、死んだ刺客もすでに焼いてしまいました」
「なんと、遺体を焼くと言うのか」
ホムタ王には初めての事であるが、驚いている暇はない。即座に重臣に指示を出した。皆、遺体を焼く事に驚きを隠せなかったが、痘瘡はもっと怖く、すぐに手配をした。
幸い、阿直岐の助言により、倭のクニに痘瘡は広がらなかった。しかし、遺体を焼くなど、思いもよらない対処がある事を倭のクニの人達は初めて知った。
ハムニオがいなくなり、ホムタ王は重臣の重しが無くなり、ある意味自由に采配が出来るようになった。
ある日、重臣を集め、翌春百済に援軍1000名を派遣する事を決めた。そして、ハムニオの後にコトウと言う、若者を側近につけた。若返りを図ったのだ。
コトウは渡来系の族長の長子であった。重臣達は皆賛同したが、その中の数名が怪訝な表情を見せたのをホムタ王は見逃さなかった。ハムニオが生きておれば、容赦しないところだが、今は内で揉めているときではない。
後日、文字の話をホムタ王は集めた重臣達に切り出した。時期尚早とも思えたが、ここははっきりさせておきたかったのだ。
案の定、先日怪訝な表情をした重臣が口を挟んだ。重臣の名はコマタという、長老に近い歳だ。
「そのようなものを、倭のクニに持ち込む為に、貴重な兵を出すのですか」
どよめきが、皆の中に走った。王の意見に異をとなえるなど今までは考えられない事だった。この時を待っていたかのようであった。おそらくハムニオがいた時から不満を募らせていたのだろう。
「まして倭のクニには、似たようななものがすでにあるのではないですか」
あたりは静まりかえった。
コマタの言っているのは、阿直岐の移入しようとしている文字とは似て非なるものであった。古来から倭のクニにあるものは、人の名の一部、土地の名の一部を記号化した幼稚な目印のようなものである。阿直岐の移入しようとしている文字は、感情の機微や、複雑な政治事項、王の千の言葉を遠方や、時間軸を超えて未来永劫に紡ぐものだ。それがどれだけ倭のクニに益をもたらすか、コマタは理解していないのだ。もっとも、この重臣達の中でも一体何名が意味を理解しているかわからぬ。
「阿直岐の言うには、百済には王仁という優れた文字の博士がいると言う、その者に倭のクニへ来てもらうつもりじゃ、もし、そなたの言う通り、王仁博士が持ってきたものが、以前から倭のクニにあるものと変わらぬものならその時捨て去れば良いだけじゃ、しかし、高句麗国が手の込んだ刺客を送ってまで阻止しようとした文字というものの移入は、つまらぬものとも思えぬ、よほど倭のクニに強大な力を与えるものと考えるべきではないか」
コマタは次の言葉を発する事が出来ない。他の重臣も皆それに賛同した。
「話は決まりじゃ、皆は、春の出兵に向けて武具を整えるのじゃ」
ホムタ王は良く通る声で、はっきりと宣言した。
その夜、ホムタ王は阿直岐と酒を酌み交わした。
「そなたは、馬といい、文字といい、倭のクニへ有益な情報をもたらした、感謝する」
阿直岐は地にひれ伏した。
「しかし、それよりも何よりもそなたに感謝しなければならないのは、今度の事で、この倭のクニの内にある謀反の芽を明らかにしてくれた、このことは、有益であった、ハムニオの死がそれを露わにしたのかもしれない、今でもハムニオは我を見守ってくれたのじゃ」
ホムタ王は続けた。
「いつか言った通り、そなたをこのクニから出すわけにはいかぬ、春になる前にそなたの伝令を百済に送り、一万の兵を送る旨、返礼として王仁博士を倭のクニへ賜る旨、頼んだぞ」
阿直岐は懐にしたためた伝令文を取り出して見せた。うすい布よりもさらに薄い皮膚のような布に文字が羅列してあった。伝令は不要で、その紙に書かれている文字が伝令であった。
「紙というものです、軽く持ち運びが楽になります」
ホムタ王はそれを手にして、まじまじと眺めた。紙の手触りを感じながら、間違いなく新しい時代が来るのを肌で感じるであった。

筆者から一言

日本に初めて紙や、文字が伝わったのは正確なところは解らない。しかし、資料として初めての文献は古事記とされているが、それ以前にも多数存在していたのは間違いない。
日本に初めて文字を伝えたのは百済の王仁博士と言う事になっているが、その存在自身伝説上の人物という説もある。その真偽は別として、人体の声帯から発せられる音声を、系列化した記録として残す技術は、当時の人々にとって雷に打たれたような衝撃であったろう。それは、人類が初めて実用化したハイテクツールのコンピューターの発明をはるかに凌駕するものであった事は間違いなく、まさに革命そのものであったろう。物語の登場人物コマタでなくても、最初うさんくさいと思われても仕方の無い事である。日本での文字の伝搬より遥かに遠い昔、世界では現在より6000年前には原始的文字が使われた形跡もあり、その事から考えても日本での文字の伝搬は遅いと言わざるをえない。しかし、だからこそその文字を手に入れる為の、国家の存亡に関わる紛争も多かった事は容易に想像出来るのである。ホムタ王や、コマタ、ハムニオ、阿直岐は何処の国にもいたのではないだろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?