第2話 太古の言葉

樹々の緑も落ちて冬も深まったある朝、いつもの様に自身の墳墓の造営を見に行っていたホムタ王とハムニオの元に、急使が届いた。遠くに見える河口近くに、異国からの帆船の様なものを見つけたという知らせであった。
ホムタ王は目が良く、遠目が効いた。確かに、急使が指差す河口近くには、倭のクニの様式とは違う、一見として異国船と解る船が見てとれた。ホムタ王の周りの重臣達に、一瞬にして緊張が走った。異国からの侵攻ではと思ったのだ。しかし、異国船はのんびりと船着場に近づき、やがて、見覚えのある男が降りて来た。
阿直岐だった。
阿直岐は何度も日本に来た事もある、海の向こうの国百済からからの使者であり、倭のクニからすれば大事な客人でもある。
百済は倭のクニの友好国である。倭のクニは沢山の鉄の原料をかの国から手に入れている。逆に倭のクニは、百済の軍事支援国家の役割をしていた。
ホムタ王の元に、2人目の急使が到着した。異国船が百済からのものであると判り、ホムタ王のまわりの重臣達の緊張は一気に解けた。そして乗員が阿直岐と判るとさらに、それは歓喜に変わった。
しかし、次の知らせに皆は今度は動揺した。阿直岐が、魔神を連れてきたという報告が皆をそうさせた。
ホムタ王は阿直岐を迎える為、屋敷に戻った。
やがて、ホムタ王達の元に阿直岐が現れた。
「阿直岐、ご苦労」
ハムニオが現れた阿直岐に声をかけた。
阿直岐は深々と頭を垂れた。
「お久しぶりでございます、ホムタ王、ハムニオ様には、お元気そうで何よりです、本日は王に貢物をお持ちいたしました」
ホムタ王は軽く頷いた。
館の中庭に、2頭の巨大な犬が引き出された。
重臣達は、腰を抜かす者、逃げ出そうと腰を浮かす者、等々、目も当てれなかった。失禁した者もさえいた。
ハムニオは流石に取り乱す事はなかったが、その巨大な生物が一声、皆が今まで聞いたことも無い声を発すると流石に腰を浮かした。
ホムタ王は、不思議に全く驚かない。初めてこの生き物を見たのは皆と同じであったが、特に畏怖を覚えなかった。
「馬でございます」
阿直岐は、この日本史上初の生物を紹介した。
ある程度の反応は予想していたが、流石に失禁するものまで出たのは、阿直岐の計算外であった。
ハムニオはこの事態を収拾しなければならず、次の間へ阿直岐を通して、謁見の場面を変えた。
これは、いつもの事ではあるのだが、あまりにスピーディであった。
奥の間での謁見は、人数は絞られ、ごく少人数のものである。
ハムニオとしては、倭のクニの公での大失態で、クニの威信を大きく損ねた事をとりつくらなければなかった。失禁した重臣は、以来2度と王の館に呼ばれる事はなかった。
馬は早々に館から引き下がる事になった。この日本初お目見えの生物は、以降日本の戦術、耕作に多大な影響を与える事になるのだが、それはまだ先の事である。
奥の間で、次の謁見が始まった。
阿直岐はホムタ王へ本題を持ちかけた。
「今回の訪問は、馬のお披露目に来たわけではなりません、実は昨今の高句麗国の百済への侵略は限度を超えております、このままでは、国の存続さえ危ぶまれる事必須、是非とも、是非とも倭のクニにご助力を賜りたいと、お願いにあがりました」
阿直岐は一気に本題を切り出した。
ホムタ王は阿直岐の言葉を注意深く聞いていた。ハムタオも同じだ。しかし、さすがに即答出来る問題ではなかった。
阿直岐は、船に同船してきた部下が、体調を崩しているので、それを見舞う為早々にホムタ王達の元を辞した。
その後、ホムタ王以下最重臣達で、今後の方針を時間をかけて話し合った。
厄介な問題ではあった。百済は倭のクニの鉄の原料を産出する最重要地点であり、それを失うという事は日本での倭のクニの地位が崩れて去る危険がある。しかし、現在倭のクニはホムタ王の墳墓造営途中で、民の疲弊激しく、この上兵役を課す事はいかにも無理がある。下手をすればクニが乱れる要因にもなりかねない。
いかにも巨大な墳墓が恨めしい存在になってきたが、重臣達は口が裂けてもそれは言えなかった。ハムニオも同様だ。
鉄は欲しいし、民は疲れている。
容易に結論は出ず、話は持ち越しになった。
翌朝、ホムタ王はいつもより早めに目を覚まして、自身の墓の建築現場へ出かけた。かなり、遠くから現場を眺めている。近づくと皆工人がひれ伏す為作業が遅れるのだ。
阿直岐がすでに現場に到着していて、建築現場で何やら工人の頭と話をしている。
こちらに気がついたのか、頭を深々と下げた。ホムタ王は手を挙げてそれに応えた。
その日の夜、阿直岐がホムタ王の元を訪れた。今日から安息をする予定だったのだが、予定を変更しての訪問っあった。
阿直岐は、あまりに簡素なホムタ王の屋敷に驚きながら、門番の兵士に名を名乗った。
庭先にあるかがり火の唯一の灯りで、屋敷内の玉座に座るホムタ王の顔は何やらゆらめいて見える。
「病の部下の様子はどうじゃ」
ホムタ王が先に口を開いた。
「なかなか回復に手間取っておるようですが、そのうち良くなると思います、ただ、今は熱が高うございまして安静ににさせております、見舞いをいただき誠に有難うございます、ただ、熱の高い病人に会うのは感染の危険がございます、見舞いの者の使いはしばらくご容赦いただきたい、大切なホムタ王の使者にもしもの事があれば申し訳ないです」
阿直岐は平伏した。
「しかし、あれは少しやりすぎたな、馬とやらには私も、ハムニオも驚かされたぞ」
ホムタ王は高笑いをした。
阿直岐はまたまた平伏した。
「馬を利用する者は、この地を制する者になるのは間違いない事、大陸では皆馬を用いた戦法で戦いをしているのです」
阿直岐は、反論した。
「そなたの言う事を信じよう、出来ればこのクニで馬の使い方を伝授してくれないか、馬の繁殖の方もな、おそらくそなたはもう百済には帰る事は出来ぬからな」
ホムタ王はきっぱりと言った。
阿直岐は諦めた様に肩を落とした。
「解っております、あの様な倭のクニの重臣達の失態を見た限りは、決して百済国には帰る事は出来ぬと観念しております、ハムニオ様は倭のクニの威信をいつも気にかけておいでの方、私を百済に返して倭のクニを嘲笑されでもしたらと思うに違いないです」
「ああなってしまっては仕方ないな、ところで、今宵はいかがしたのじゃ、ハムニオは、歳のせいかやや身体がだるいと言って呼んではおらぬが」
ホムタ王はいぶかしむ様に阿直岐を見た。援軍をせっつきにきたのだろうと思うと、話を聞くのはやや気が重い。まだ、何も決まってはいないのだから返事のしようがない。
「ホムタ王様、もし仮に千里の彼方の者へ、千の言葉を、一つの間違いもなく伝言出来るとしたらいかがなされます」
阿直岐は謎をかける様な話を始めた。
「倭のクニにも、千の言葉を記憶出来る語り部はおるぞ、その道の達人がな、ハムニオも語り部同様の能力がある、話し方も語り部よりも優れておるぞ」
ホムタ王はややむっとして言った。
阿直岐は、にやりと笑い続けた。
「では、その語り部が千の言葉を届けた後、一千年の後も、一言の間違いも無く言葉が保存される事は可能でしょうか」
ホムタ王は嘘は嫌いであった。
「それは、無理な話じゃ、一千年の間には語り部は、少なくとも25人は必要じゃ、25人の語り部が一言の間違いも無く語り継げる事はいかなる語り部といえど無理だ」
「そうでしょう、いかなる語り部と言えどそんな事は無理です」
阿直岐はしゃあしゃあと言う。
「それではこれをご覧ください」
阿直岐は懐から何やら小汚い木片を取り出した。そして取り出したうすら汚い薄い木片をホムタ王の前に突き出した。
ホムタ王はその木片を手に取りまじまじと見た。薄い木片と思った物は意外に重かった。黒っぽい表面には何やら細かい傷の様な物が一面に広がっていた。
「これはなんじゃ」
いぶかしげにホムタ王が阿直岐に訪ねた。
「これは、今から1700年前に海の向こうにある殷という国の、ある占い師が話した言葉です、これは牛の肩の骨でございます」
突然阿直岐はとうとうと、歌うように話し出した。
「わしが、占うに、この地に禍が起こる事はない、皆、安心する様に」
ホムタ王は唖然としている。突然阿直岐が占い師の真似事を始めた真意を測りかねた。
「驚かしてすみません、私が今話した言葉は、今から1700年前、倭のクニより気の遠くなる程遠い道のりのある殷の国の、占い師が話した言葉です」
「どう言う事だ、一体どう言う事なのだ」
ホムタ王は頭が混乱してきた。
さらに阿直岐は続けた。
「この牛の肩の骨の表面にある、細かい傷、これは文字と言う物です」
「モジ、モジというのか」
ホムタ王は虚に反復した。
「今、1700年前の、遠く殷の国の占い師の言葉が、一言たりとも間違えず、ホムタ王へ伝わったのです」
阿直岐は噛んで含める様にホムタ王へ言い含めた。
ホムタ王は、牛の肩の骨の表面に刻まれている細かく、規則的に羅列された傷を手でなぞった。理解をしようと苦悩しているのが手に取るようにわかった。事の大きさの意味がわかるだけに手が震えた。凡庸な人間なら意味が理解不能で、逆に意味不明な発言と断じて阿直岐を叱りつけていたところであろう。
文字に転写されている太古の占い師の音声が、日本で初めて再生されるのを目の当たりにした衝撃は、激烈であった。音声の文字への転写、そしてその再生、雷がホムタ王の身体を貫いた。
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