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知られざる天才写真家 横内勝司part2 

こんにちは。

横内勝司さんをご紹介するにあたって、フイルムすら知らないデジカメ世代にとってガラス乾板といってもなんのことか?蛇腹カメラと乾板で写真を撮るって今とどう違うのか? この古い白黒写真のどこが天才なのかわからないって人も多いと思うので、簡単に当時の事情を説明します。

詳しい方も「何を今更…」なんて言わずに軽く流して間違いや補足があれば訂正していただけるとありがたいです。

江戸時代に長崎に伝わったとされる写真技術、当初は調合した薬剤を薄いガラス板に塗って乾かした後に露光するというものでしたが、明治中期になってあらかじめ薬剤を塗布したカラス板が販売されたことで、ごく一部の写真愛好家に広がった。初めから乾いた状態でパッケージされているので乾板といい、これと区別するために以前のものは湿式と呼ばれる。その後ブローニーやライカといったロールフィルム機が登場すると写真は一般にも普及し始め、加えて連続して撮れるようになったことで「スナップ写真」という概念もこの頃に広まったようです。


とはいえ当時の外国製カメラはとても高価で、広まったといってもごく一部の裕福な人たちで、庶民にとって写真は「晴れの日」の記念に写真館で撮ってもらうのが一般的であり、広く普及するのはずっと後の戦後になってからのことです。



感光材を塗布してパッケージされた手札版の乾板

その日本の写真黎明期ともいえる明治〜大正〜昭和初期を生きたのがこれから紹介する横内勝司さんです。


横内勝司(1902〜1935)

長野県松本の農家の長男として生まれ、高等小学校卒業と同時に家業を継いだ。勝司の少年時代から横内家ではお祭りや祝事には写真師を呼び集合写真を撮っており、そんなことから写真に興味を持ったと思われる。裕福な農家とはいえ、とても高価なカメラを手にしたのは大学まで進んだ弟たちに対し、家業を継いだ長男勝司への母の想いだったようです。

こうして農作業の傍ら独学で写真技術を学び、昭和11年8月に33年の短い生涯を閉じるまでの僅かな期間に、奇跡とも思える数々のガラス乾板による作品を残した。それは人物・風景にとどまらず、山岳写真やスナップなど幅広く多岐に及ぶ。後に登場する多くとは一線を画した山岳写真や、子どもたちの生き生きとした日常を捉えたその瞬間が当時の蛇腹式カメラと乾板で撮影されたことを考えると、その撮影技術は驚くばかりだが、それ以上の驚きは被写体を見つめる確かな視線と優しさにある。

これが90年前に撮影されたと聞いて信じられますか?


軍国主義のもと近代化を急ぎ、戦争への道を突き進む戦前の日本に於いて、当時としてはごくありふれた農村の暮らしや、そこに遊ぶ子どもたちなど、当たり前の日常に価値を見出しレンズを向けた独自の感性。そして光と影を巧みに捉えた天才的な感覚は、テレビなどの映像はもちろんのこと、スナップ写真の概念すらなかったと思われる当時の農村で、なぜこれほどのイメージを創り得たのかと、いまだに信じられない思いです。


百聞は一見にしかず

7/9~721の京都写真美術館でお会いしましょう!

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