溝口彰子×やまじえびね「エンタメ作品のマイノリティ表象を考える」@本屋B&B

BL研究家、溝口彰子さんと、やまじえびねさんのトーク、「エンタメ作品のマイノリティ表象を考える」に行ってきた。

会場は下北沢の本屋B&B。下北の駅周辺の変貌ぶりにびっくり!今風な感じと昔なからの下北感が合わさって、どこにもない雰囲気が醸し出している。新しくて、今風におしゃれなんだけど、どこか下北っぽい。会場の本屋B&Bもサブカルぽいお店なのかなーと思ったが、サブカルというよりおしゃれで「意識(かなり)高い系」だった。(揶揄的に聞こえるかもしれないけど、褒めてます。本の品揃えもとてもよかった。初めて見る本もたくさんあった。)

まずは、溝口さんによる溝口さんとやまじえびねさんの経歴の紹介があり、そのあと、溝口さんが、自著で取り上げたやまじえびねさんのレズビアンを描いたマンガ『LOVE MY LIFE』の紹介があった。続いて、女性差別に直面する世界のいろいろな場所の少女たちの姿を描いたやまじさんの近著『女の子のいる場所』の紹介、そしてやまじさん自身によるその制作過程についての説明があった。

溝口さんは、『LOVE MY LIFE』の中の

別に男嫌いなわけじゃないよ 女の子でなきゃだめってわけでもない/もしもエリーが男の子だったら わたしは男の子のエリーに恋をしていたはずだ

という独白が、その後

ところで 最近やっとレズビアンだって自覚がもてるようになってきました!/それまではわたし 好きになったエリーがたまたま女の子だったんだって思ってたんだけど 考えてみたらそれはちがう 全然ちがった だって男の子のエリーなんてありえないし 男の子だったらエリーじゃないもの

と変化することについて、高く評価していることを説明した(このことは、溝口さんの近著『BL研究者によるジェンダー批評入門』に詳しく書かれている。)

最初の独白の「別に男嫌いなわけじゃないよ」という言い方について、溝口さんが、「男性にも手に入る存在であることを示している」といったところ、やまじさんは、「そういうつもりではなく、好きになったのがその人だということが言いたかった」と説明した。

私は、「だったらそういえばいいし、『男嫌いじゃない』なんていう必要はないんじゃない」と思った。

溝口さんもやまじさんの説明について、「わかりました」とは言ってなかったと思う。

これまでレズビアンの登場する作品にも何度も登場した「別に男嫌いなわけじゃないよ 女の子でなきゃだめってわけでもない」というようなセリフは、かつてBLによく登場した「俺はゲイ(なんか)じゃない」と同じように、同性愛者を否定するような響きを感じて、多くの同性愛者にとって気になるものだ。

こういう表現は、最近のBLドラマでも、直接的に「俺はゲイなんかじゃない」とは言わないものの、受け継がれている。「おっさんずラブ」の春日も、「チェリまほ」の安達も、本来は女性に性的指向が向いていることが幾度となく表現されている。(「おっさんずラブ」の春日は巨乳好きという設定。「チェリまほ」の安達は同僚の女性、藤崎さんが気になっているという設定。)

それは、多分「同性愛者」の話にしないためなんだと思う。

だからこそ、溝口さんは、『LOVE MY LIFE』の「ところで 最近やっとレズビアンだって自覚がもてるようになってきました!」という独白を高く評価したのだ。

やまじさんの反論(?)は、当事者にとってそれが大事なことであるということが、結局あまり理解されていない、という印象を残した。

やまじさんは、『LOVE MY LIFE』について当事者が書いた(と思われる)ような作品を書くことが目標だった、とも述べていた。一方で、今ならこういうマンガは書かないだろうとも述べた。多くのレズビアンからの肯定的な評価があっても、それはやまじさんにとってむしろレズビアンの実在を知らしめることであり、描くことの難しさを感じさせることなのかもしれない。(『LOVE MY LIFE』を書いた時、やまじさんにはレズビアンの知人はいなかったそうだ。)

気になったのは、やまじさんの「レズビアンの当事者にもいろんな人がいるから、どんな人を描いても、そういう人はいるかもしれない」という趣旨の発言。私はかなりアクロバティックな主張だと思う。しかし、溝口さんもやまじさんのこの発言に賛同し、「当事者でなければ描けないということはない」という話につながっていった。

私も、「当事者でなければ描けないということはない」と思うし、このトークでそれを話してもいいと思う。というかレズビアンの作品を描いた当事者ではないマンガ家とBL研究者のトークなのだから、それは当然かもしれない。だけど、その話だけでいいのかな。今の日本では、レズビアン・ゲイについての表現のほとんどが当事者以外によって作られている中、当事者による当事者の表象の大切さについても、一言でも話してほしかった。

トークのテーマである「エンタメ作品のマイノリティ表象を考える」が「当事者でなくても、マイノリティ表象はできる」という結論だけなら、残念すぎると思う。

むしろ、やまじさんが、今はレズビアンの話は描かないと思う、と言ったことを掘り下げてもよかったのでは、と思った。

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