アンチシネマテッィク2

2024/8/5 時と場合


殴られる女は魅力的である
魅力的な女は男に殴らせる
男は殴りたくもないのに


『ポゼッション』(1981)

2024/8/12 めんどくさい言語化


 前回、映画の言語化の重要性を説いたが、映画に限らず言語化する能力というのは重要だなと最近しきりに感じる。というのも現代では何でもかんでもヤバイ、エモい、カワイイ、超カワイイ、という言葉で片付けることができる時代である。この言語の機能化、能率化が諸々の芸術の領域、とくに映画にひどく侵食して行っており、致命的な後退停滞を推し進めているようでならない。今や映画という分野がおおよそなんの学もなしに、その科学技術の発展と科学技術のみに依存して成立してしまう時代であるから、よりそれは顕著であるように思える。
 言語化する能力が無いとイメージはイメージのままでコミュニケーション不全に陥る。つまり言語化はイメージを具体化する役割がある。ただ同時に言葉は本質的に比喩的であるから、言語化は物事を抽象化してしまう。脚本執筆がわかりやすい例だろう。この言語化という作業は、具体と抽象のアウフヘーベンからなる人間が発明した最も神秘的で高次な作業ではなかろうか。

2024/8/18 映画野次馬製造機論1

 映画は夢である。1920年代あたりでハリウッドは夢の工場とも言われていたし、映画が映画館でしか観ることができなかった時代では、映画は集団でみる夢とよく言われていた。なんてロマンチックなんだろう。しかし最近思ったのだが、映画を夢と例えるよりも、映画は騒ぎと例えた方がよっぽど的を得ているのではなかろうか。映画を騒ぎだとすると、観客は野次馬だろう。主犯とその共犯者たちによって生みだされた騒ぎを野次馬たちはなんだなんだと見物する。当然この騒ぎが犯罪級の騒ぎに、乱痴気騒ぎになればなるほど、野次馬たちは大喜びするわけだが。彼らがこの乱痴気騒ぎに最も接近できる距離は、安全と危険のアウフヘーベンからなる高次の距離である。この騒ぎと野次馬の距離感は、映画と観客の距離感にも同じことが言えるのではなかろうか。

そしてこの騒ぎとは何かが起きている状態を指し、それは何かが動いているとも言い換え可能である。結局この映画野次馬製造機論、映画喧騒論は映画の本質へと帰結する。


『料理は冷たくして』(1979)

2024/8/19 映画野次馬製造機論2

 例えば野次馬は死体にも群がるが、なんだ死体か、で長くて10分ほどの滞在で終わる。1時間以上も死体を眺めつづける異常者は極稀である。死体のような映画は見ていてつまらない。映画を作るものとして、この野次馬の存在を無視してはならない。
 そしてこの映画野次馬製造機論、映画=喧騒論は、パスカルの『パンセ』からの着想である。以下引用。

《人々が求めているものは、不幸な状態からわれわれの考えをそらし、気をまぎらわせてくれる騒ぎなのである。だからこそ、人は獲物よりも狩りを好む。》

しかし現代人は狩りも好まなくなった。そこで狩りを疑似体験できる映画は、前後はどうであれ、大衆娯楽へとのし上がった。

2024/8/22 アウフヘーベン

 脚本、観客と映画の距離、映画は様々な事象の弁証法によって生まれた高次元の素晴らしい世界だ。映画そのものが現実と虚構のアウフヘーベンからなるジンテーゼである。ただ映画=ジンテーゼというより、映画=アウフヘーベンである、と自分は言いたい。というのも映画が映画たらしめる瞬間、映画の真骨頂はまさに現場で起きるのだと、信じている。


『特別な一日』(1977)


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