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スライドのチカラ


膨大な知識や論理を構造化必ずではないが、
俯瞰出来る。

さて、
物書く人間として、筆が自然と進む場合も、そうでない場合も両方ある。
これは即ち、全体としてこの場面、
この言葉が適切なのか不明確という事に尽きる。

徹して叙情詩として書く立場であれば、それこそ目の前の大海をそのまま描写し、感情等を交えながらで良いが、小説や論文といった、
起承転結をはっきり示さないとイケナイ物はそうでない。
例えて言えば、鳥の説明をすると、アホウドリの説明は、鳥類で白い物、生きるのに苦労したな。これが叙情詩的な書く姿勢。
もし起承転結をつけるならば、どういう生態分布でどういう進化をしてきたかを付け加えた方が良い。

さて、今流行りのデジタル化であるが。

もしAIがこの違いを認識出来るなら、どうなるだろうと思う時がある。いたずらに書きなぐった文章を自然と起承転結にまとめあげ、それが小説や論文になるような事だ。

恐らく今の時代は、そういった物が求められていると思うが、これには賛否両論だ。

賛成の意見としては、書くのが凄く楽になる仕事。例えば物書きの中でも書き方がプロトタイプ化してる新聞記事や論文なんかそうではないか?
と思う。

反対の意見としては。
これは書くという事が即ち人間そのものを表すという事、それからデジタル化の普及が若い人達に良くない影響を与えている側面があるという事からである。

簡単にはいかない世の中の荒波を前に、
己の使命を自ら感じる事、表現する事。
それを経ずして、成長も進化もないだろう。

無論、太宰治が自死したのは人間失格を書き終え燃え尽きたと言われるように、それを求めるべき姿勢は文學界において良いのかもしれないと思うが。

注〕 私はロボットで有りませんというロボットがいれば、私は書く事を諦めるだろう。その方が世界にとって有益であるから。只、その潮流に世界は成り立つつある。しかもそれを咎める力がない。人間的な感情、感覚なく技術が進展し続けている事、そこから起こっている方を杞憂している。

画像)Stable Diffusion 1 Demoより作成

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