どこまでも清潔で明るい家

7. 鋼管島

「明日、五時半な」
 階下から野太い男の声がした。僕は特に返事をすることもなく、電気スタンドの明かりを消した。とりあえず目は閉じたものの眠れるわけはなく、長い夜を過ごした。寝返りを何度か打った。でもじきにそれすら面倒に感じて、仰向けのままゆっくり体の力を抜いた。疲れが溜まっていたせいか、体がベッドの中に沈み込んでいくような感覚があった。
 目が覚めたのはアラームの鳴る五分前だった。最後に時刻を確認したのは午前三時だったから、二時間は寝られたことになる。このところ出勤が続いていたから睡眠時間だけは確保したかった。しかし連続出勤はその眠る体力すら奪ってしまう。だから連勤はあまり好きになれなかった。僕はごそごそと気のない身支度をして、歯も磨かずに家を出た。
 早朝の高速道路は割合、スムーズに流れていた。しばしば通勤を急ぐ車が僕らを後ろから追い越して行く。僕らの乗った車が時速一二〇キロは出ていたから、一四〇キロ近くは出していたはずだ。ああいうのが事故渋滞を引き起こすんだ。僕は心の中で毒突いたが、口には出さなかった。社長はうるさいのがお嫌いなのだ。
 待ち合わせ場所はデイリーヤマザキだった。コンビニエンスストアにしては広々とした駐車場に大型トラックが何台かとまっている。現場監督の男の車ももうすでに着いていた。僕らが近づいて行くと、男は車のパワーウィンドウを開けて顔を出した。
「脚絆と保護メガネ、フルハーネスは持って来てますよね?」男は挨拶も抜きにそう訊ねた。僕らは肯いた。「門にいる守衛には『中央事務所のイワサキさん』と伝えて下さい。そう言えば、通してもらえますから。あと、これね」男はそう言って、僕らにカードを手渡した。通門証だった。
「ダッシュボードの上にでも置いといて下さい。それと構内に入ったら、一時停止では一秒以上必ず停止して下さい。タイヤが完全にとまったかどうかをカメラで見張っているみたいです。やらしいですよね」

 敷地内に入って最初に目に飛び込んできたのは木々の緑だった。これは中に入ってから気がついたことなのだが、敷地の内と外を隔てる境界にも言わば塀代わりとして、立ち木が並んでいる。どうやらここの木々は一定の役割を担わされているらしい。そしておそらくそのためだろう、どことなく取って付けたような、人工的な匂いがした。この手の緑は、大手の総合建設会社が手掛ける規模のでかい建設現場でよく目にすることができた。環境意識の高まりでも肌に感じているのかもしれない。
 最高速度四十キロを遵守しながら走行していると、前方に行先表示の案内板が見えた。左にアメニティーセンター、右にエネルギーセンターとある。我々は先導車に倣って、右にウインカーを出した。カチカチと小気味良い音が会話のない車内に響く。
 ほどなくして、タンクが立ち並ぶ区域に入った。前を走っていた現場監督の男の車もそこでとまった。我々は男の指示通りそのすぐ後ろに車をつけた。彼はヘルメットの顎紐を留めるのもじれったそうにこちらに近寄って来る。「ここが作業現場になります」男はタンクヤードの方を指差しながらそう言った。
 それはたしかに壮観な眺めだった。タンクの数はここからでは数え切れない。それでもちょっとした数はあったというのが適当な表現だろう。一つ一つの容量も大きかった。見たところ二十リューベは下らないものが何基も、また三十あるいは四十リューベあろうかという代物も複数基ある。後ろを振り返れば、道を隔てた向かい側に芝生が広がっている。茶色く冬枯れした芝生のさらに先の方に、ぽつんと変電所も見えた。まわりをぐるっとフェンスで囲われたそれはうずくまっている雌犬を彷彿とさせた。
「おい、ぼさっとしてるんじゃないよ。段取りするんだよ」
 僕はその柔らかくも鋭い声で我に返った。気がつけば、タンクの撤去工事にかかる作業はもうすでに始まっていた。タンクの最上部、天板の上では鳶が手すりの切断にかかっている。一方でその下部、タンクの四本の脚付近では、基礎石と脚の接合をはがすために作業員が集まっていた。基礎石と脚はボルトで留まっていて、その接合部はコーキング材で塗り固められている。作業員らはカッターやらスクレーパーやらを手にそれと格闘していた。
 僕らはその間に、タンクに面する通りを一部通行止めにした。そしてその区間にブルーシートを敷き、タンクを受け取るための枕木を置いた。廃材を詰めるためのトン袋も用意しなければならない。
 そうこうしているうちに、雨が降り始めた。「ちっ、ついてねぇな」社長のぼやき声が耳に入る。優しく地表を濡らすその細かな雨は瞬く間に目の前のものを暗く染めていった。アスファルトの道路、枕木、安全靴……。
 タンクから伸びていた配管がすべて切り離された。銅管がぐるぐる巻きになった配管を手に、配管工たちがタンクから離れる。それを見て重量屋がクレーンのコックピットにいる仲間に何やら手で合図を送った。「ゴーヘイ、ゴーヘイ」という掛け声とともにブームが起き上がる。天板の上にスタンバイしていた重量鳶がブーム先端のフックを手に取った。重量鳶はフックが確実にタンクに掛けられたことを確認するとそれを手合図で知らせ、地上に下りた。
 タンクが吊られる姿というのはどこかもの哀しかった。まるでぐしょ濡れになった猫が首根っこをつかまれてそのまま持ち上げられているみたいに見える。それはゆっくりと旋回しながら移動し、ちょうど枕木の置いてある位置で宙ぶらりんになった。「スラー、スラー」重量屋の掛け声が雨音の中でこだまする。タンクの脚がまず地面に着いた。それから、つんのめるように体躯が傾き終には枕木の上に俯せとなった。
「リベットでかしめてあるからな、インパクト持ってけ」
 タンクの表面は薄い鋼板で覆われていた。たしかに間近で見ると鋼板同士はビスではなく、リベットで留まっている。試しにインパクトでこじってみると容易く外れたが、打ち付けてある本数が多すぎた。錐が途中で何本も折れ、使い物にならなくなっていく。雨の止む気配はなかった。おかげで鋼板の下の断熱材はすっかり水を吸って重たくなっていた。レインコートを着込んでいるとはいえ、体は湿気ってくる。汗と雨水を吸い込んだ手袋はぐしょ濡れだった。この感覚だと靴下も浸みているはずだ。
 撤去作業も終わりに近づいて来る頃には、もうどこまで濡れたってかまわないというような半ば捨て鉢な爽快さがあった。余計なプライドもいまは息を潜め、後退している。どこからともなくわらわらとフォークリフトが集まってきた。断熱材が詰まったトン袋を回収するためだ。そして丸裸になったタンクを運搬するためのトレーラーも牽引車に引かれて、遅れて到着する。ここまで来ると僕らにできることは、もうほとんど残っていなかった。

「さてと、これで鋼管島ともおさらばだ」社長は尻ポケットに両手を突っ込んだまま、そう言った。鋼管島?聞いたことのない言葉だ。
「ん?なんだお前、鋼管島も知らねえのか。そこそこ良い大学出てんのに何も知らねえんだな」と父は嫌味を言った。ここ最近になって目立つようになった言動なので、とりあえず僕は様子見を決め込んだ。
「この辺一帯を俺ら下請けはそう呼んでんだ。日本でも有数の鉄鋼、高炉メーカーでな。日本鋼管、アルファベットで何つうんだっけな。Nから始まる……」
「NKK」僕はさっきスマートフォンで調べた通称名を口にしてみた。
「そうだ、それだ。んで昔、川鉄っていう会社もあったんだ。同じ製鉄会社でな。その会社と日本鋼管が何年だか前に経営統合して、今の社名になったんだ。あれが何年前だったかなあ―」
 会社の公式ホームページのコピーライトが二〇〇三年からの表記になっていたので、おそらく十七年前のことではないかと思ったが口に出すのはよした。話を続けたい気分でも、話柄でもなかったからだ。だが父は、こちらの気分などお構いなしに話を続けた。
「ここにある高炉が一基、稼働を休止するんだってな、三年後ぐらいに。何でも鋼材の需要が世界的に減少してるとかで、動かせば動かすほど赤字なんだと。担ってた薄板の生産はどっか別の工場に代替させるらしい。よくある合理化の一環だな」
「ふむ」
「半年ぐらい前の日経に書いてあったろ?読んでねえのか」
 僕は記憶をさかのぼるふりをしながら、適当にはぐらかした。が、見抜かれた。
「駄目だなあ、お前は」とぼやくように父は言った。「休止対象の設備に関わってたっていう従業員も一二〇〇人いんだってぞ。『配置転換などで対応する』って書いてあったけど、そんなきれいに他所に振り分けられんのかね?できんのかなあ、もしかすると大手なら」
 父はそう言いながら、「俺にはわからん」という風に首を振った。それは後ろから見ると完全に首振り人形だった。「早期退職者だって幾らかは募るんだろうな。俺もぼちぼち危ないぞな……」とかまだぶつくさ言っていたが、僕はあえて何も返さなかった。正直なところ、返す言葉を持たなかったのだ。

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