日本ルール(地)の本質~石数を『揃えない』理由~


問題提起

中国ルール・日本ルールの解説ではその一部において、以下コラム(政光順二氏)のようにアゲハマを埋める理由を「石数を揃える(と計算が楽)」のだといって説明するパターンをよく見かけます。しかしここで注意してほしいのは、それらは日本ルールの『起源[歴史]』の説明としては恐らく正しくとも、現代の実際の日本ルールの説明としてはまったく当て嵌まらないということです。

言わずもがなですが、本物の日本ルールでは石数を揃えるなどという発想は『ありえません』。仮に黒番の最終手にて終わる際に白に対して「石数を揃えるためにもう一手打て!」などと着手を強要したならどうでしょうか。ふざけるなと大喧嘩が始まるでしょう。

つまり実際に日本ルールで打っている我々は、ハマを埋める意味を今や微塵も「石数を揃える」などとは考えていません。とことん「ペナルティ」です。この両者は「数値」だけ見れば近しいですが、その「意義・本質」についてはどうしようもない『断絶』が存在しています。

ようするに石数を揃えるという発想は、あくまでも石も数える中国ルールでしか成立しえない、中国ルール本位の視点であるわけです。
反対に日本ルールが日本ルールたる所以は、地を争うが故にむしろ「石数を揃えない」ことにこそあるわけです。これが本稿のテーマの一つでもあります。

したがって、もしも政光氏等が本気で中国ルールと日本ルールとの繋がりを「石数を揃える」で説明したつもりになっているのであれば、それは大変な誤解をされていると言わざるを得ないと共に、それをあたかも隠された真実であるかのように流布することに対して、私は幾ばくかの危惧を感じております。

上記コラム等の説明を読んだ一部の人は、実際には日本ルールが石数を揃えていないことについて、却ってモヤモヤが増してしまうかもしれません。ややもすると、日本ルールというのは石数を揃えるのを忘れて横着をしているだけのイイカゲンなものだという印象まで抱いてしまうかもしれません。(実際に中国系ルールを信奉する中国人等からは、日本ルールがそんなふうに見られている節があります。)

「石数を揃える」と説明する皆さんは、そんな疑問に対して相手を納得させられる『日本ルールの理由(ワケ)』を責任をもって答えられますか?
それとも、「洗練されすぎていて」という彼の言葉は単なるお世辞か、はたまた前出中国人らと同様の皮肉なのでしょうか?
もちろん、前述したように日本ルールは「地だから」というのは一つの答えには成りえますが、問題なのは、じゃあその「地」って結局なに?という疑問であります。

またこの問題に拍車をかけかねないのが、『世界の囲碁ルール(王銘鋺九段)』でアピールされているような「日本ルールは合意」「人間味」といったイメージです。私個人としては、本書は日本ルールへの否定的な見方に対し『一石を投じている』という意味では意義あるものと思っておりますが、その内容はいかんせん情に訴えようとするものが目立つ上、その他の肝心な部分では論理の筋道立てに複数の綻びがあるように見受けられます。また「パスは劫ダテになる」等の核心を突いたところも一応はあるものの、現公式ルール規定の真に不都合な点にかんしてはほとんど触れられていないと言わざるを得ません(ただし本稿でもこの問題は取り扱いません)。

よって一般的には益々「日本ルールは面倒で説明不可能なもの」「中国ルールの方が合理的」という誤解に繋がるのではないかという懸念があります。単なる私の杞憂であればよいのですが、近頃のSNS等を眺めていると国内ですら世間の日本ルールへの認識は現にそんなものになりつつあるように思えてなりません。

そこで以下長くなりますが、日本ルール(地とハマ)とはいったいどのようなゲームなのか、そして各ルールとの一通りの関係について、政光氏や銘鋺先生の言説に対する批判的検討を交えつつ、できる限り厳密で理路整然とした答えを私なりに用意してみようかと思います。

有りの侭を直視する

まず気をつけるべきは、【1目2目の違いに鈍感になりすぎてはいけない】ということです。

まあもしも、入門者初心者相手にひとまず大雑把な雰囲気だけ伝えたいという状況であればそれでも構わないかもしれませんが、それなりに打てるようになり自分で本格的に計算し始めると、たとえ1目でも結果が合わなければ不審に思うでしょう。棋力にかかわらず、骨身を削って打っている身からすれば1目だろうとも大切な1目です。

それを踏まえて改めて冷静に見つめれば、中国ルールと日本ルールとではそもそもコミからして違っており、それがプロのレベルでは勝率にも影響しえます。またとくに最終盤のダメとコウの戦略においてはまったく異なる展開さえ繰り広げられるケースも、最近では比較的知られるようになったのではないでしょうか。

こういった違いは「カウント手続きが違う」というだけでは済まないものです。現に囲碁クエストの中国ルールにも戸惑っている人がそれなりにいることを忘れてはなりませんし、プロ棋士さえも今般のアジア競技大会に向けた合宿では改めて中国ルール講習会まで行ったとのことです。

ちなみに本当にカウント手続きが違うだけなのは、あくまでもこのフランスやAGAルール(パスハマ+手数合わせにより本当に石数を揃える『等子比空』)のことです。これはまさに「中国ルールの側」にピタリと結果の一致する、カウント手続きが違うだけの計算法です。完全に一致しますので、このやり方であればいざとなったら中国ルール同様にそのまま「無駄な手入れ」をして死活を実戦解決することも可能です。

ですが、それは日本ルールではないのです。

語弊を避ける為に補足しますが、実戦解決可能だから日本ルールではないと言っているのではありません。パスがペナルティだったり手数を合わせたりするルールのことを言っています。
もしかすると一部の方々は、日本ルールの地とハマによる計算のメリットというものが、ゲームの既に終わった後の「整地(結果確認)」の問題でしかないと考えておられるかもしれません。確かに整地が簡単で美しいことは大きなメリットの一つではありますが、しかし本当に大切なのはむしろ、互いにしのぎを削り合うゲームの最中ではないでしょうか。つまりは対局中にひっきりなしに変化を読んで手の価値や形勢を判断する「人間の生(なま)の思考方法」と、実際のゲーム結果とが狂いなく一致することです。この点が非常に軽視されがちに思います。
その観点からいえば、いくら地とハマだろうとも「パスがペナルティでしかも最後に手数を合わせなければならない」などと考えるくらいならば、はじめから盤の石を争っているのだと考えるほうがよほどイメージしやすいと思いますが、それはとどのつまり中国ルールなのです。

また日本ルールは結果が1目単位で細かいというのも大きな特徴となりますが、ただしこの点ばかりに注目するのはやや表面的であって本質ではないと考えます。大事なのはその性質がどこから沸き出てくるのかという源泉です。これについては、次章以降で説明することになります。

蛇足ですが、本当は「死活」や「無駄な手入れ」というものが分からない初心者ほど純碁、中国ルール、日本ルールは、それぞれカウント手続きが違うどころではない、まったく別の結果(ゲーム)となりえます。ただし初心者にとって純碁入門の際に重要なのはそのような結果の違いではなく、合理的な戦略思考すなわち「地」が理解出来るようになったなら、それらがどれもほぼ同じになることを実感することです。なのでそれはこの場で論じている趣旨とはまた別の話とします。

そういうわけですから、日本ルールと中国ルールさえ完全に同じではない

もっとも、そんなことは皆さん『頭では』言われるまでもなく理解してらっしゃるのでしょうけれど、自身の主張を正当化したいあまり無意識に偏向してしまうのでしょうか。

それはたとえば、碁というものは「元々は石のゲームだったんだ」というある種の原始主義的な思想だったり、あるいは中国ルールと日本ルールとが「同じゲーム」だという結論ありきの論理を押し付けんがために、細かな違いから目を背けて事実認識が歪んでしまっているということです。言い方を換えれば、普段に我々が当然のごとく直観している「(石とは微妙に異なる)地」の概念に真摯に向き合おうとせず、はじめから否定ありきで日本ルールを捉えてしまっているともいえます。

日本において過去度々生じたルール論争というのも主にそのようなものでありました。以下はあくまで私個人より称賛を送るものですが、現行日本ルールはその点において安易に石による解決策に流されることなく、幾らかの粗はあれども「地」というものにひたすら真正面から向き合って追究する姿勢を今日まで貫き通したその功績に、心底感服するほかありません。

その一方で銘鋺先生はというと、前述までとはまた反対に、中国ルールの側が日本ルールと同じに地本位なのだと同一視します。ひいてはルールは既に統一されているのだと。
私が上記著書に目を通して良くも悪くも一番あっけに取られた箇所といえば、これかもしれません。そんな捉え方もありえるのだろうかと。
ただ銘鋺先生はそう主張しながらも、一方では中国ルールの問題点として目的が『二本立て』であるとか、『等子比空』の不自然さにも触れており、この点は一歩踏み込んでいるといえましょう。しかしそれ故に前段の主張とは多少の矛盾をきたしているようにもみえます。

銘鋺先生は『二本立て』であることの例として、中国ルールだとセキの目もカウントされることを取り上げていますが、これは明らかにおかしいです。「地」というのがそもそもとして、本来は石を置けない筈の目も数えるものなのです。この点は日本ルールだろうともまったく一緒であって、石も数える中国ルールゆえの不自然さではありません。よって本来この脈絡で取り上げるべきは、説明を割愛したという「最後のダメ詰めと半コウ」のケースです。
セキの目だけをカウントしないのは、むしろ日本ルール側の特殊性を示す例になってしまっています。ただし、そのルール自体の是非は別の話です。
また先生は中国ルールのメリットとして「合意がしやすい」ということを挙げているわけですが、それだと日本ルールのメリットとして挙げている「(合意により)連帯感が生じやすい」という点さえも打ち消されてしまっているように思います。この辺りの論理には些か多くの疑問が残ります。

さておき銘鋺先生のこの見方は、おそらくは少数派かと想像します。多数派の見方はやはり、中国ルールは石に近いというものではないでしょうか。ひいては日本ルールの側もが本当は石数を揃える(中国ルール)のだと。これまた細かな違いを軽視した同一視です。

では結局のところ、各々ルールが「ほぼ同じ」というのは定量的にどれくらい同じなのか。それは数理的に近似だといえるのか。
それともまさか、日本ルールと中国ルール・純碁は似て非なるものであり、本当は繋がりがなく本質の異なるゲームなのか。
こういうことを今一度整理してはっきりさせたいところです。

実はそのための鍵となるのが、なによりも先ず日本ルールを基準にして碁を俯瞰することなのですが、改めて忠告すると「石数を揃える(パスペナやパスハマも同様)」という発想に囚われてしまっては、いつまで経っても石数を揃えない真の日本ルールを考察することはできないのです。だから今日の今日まで日本ルールに対する深い洞察が欠けてしまっていたのだと思います。

では、日本ルール本位で碁を捉えるにはいったいどうしたらよいのでしょうか。そしてアゲハマを埋める真の意義とは…?

…などと、さぞかし御大層に前置きを並べさせてもらっているわけですが、これから説明する内容はなにも高度な数学の話でもない(私自身がわからない)どころか、どれも改めて書くほどのものなのかと躊躇するくらいに当たり前のことばかり。かもしれません。本当にひたすら、皆さんが感覚的には既に理解しているであろうことをただ整理しているに過ぎません。なので「なにをいまさら」と思わせてしまっても何卒ご容赦ください。

日本ルール基準で中国ルールを捉える

さて、日本ルール基準とは、すなわちハマを埋める日本ルールの盤面で『そのまま考えるだけ』です。既に日本ルールを知っている者ならば一番馴染みある盤面です。まさしく日本ルール本位。
そして好都合なことに、中国ルールではハマを埋めても結果には何も影響しないのです。その理屈は「石数を揃えれば計算が楽」の裏にあるものと同じです。だったら、ハマを埋める以外の余計なことはもう何も考えなくてよいのです。

それなのに、本来のルールにはない「石数を揃える」という前提って、この説明に本当に必要ですか??

というわけで、日本ルールの盤面でそのまま考えてもよいならば話は簡単です。空点部分は中国ルールだろうとも寸分違わず日本ルールの地ですので、あとの違いは石部分、すなわち
「活石+アゲハマ=使用石(着手数)」
を数えるものだということが一目瞭然でしょう。

もう一度強調しますが、日本ルールから相対的に捉えた場合の中国ルールで数える石というのは、盤の活石のことではありません。
取られた石も引っ括めた使用石】なのです。

〈中国ルール=日本ルール+使用石(差)〉
      =空点領域-ハマ+ハマ+活石

ご覧の通り、数式的にはアゲハマを引いてまた足しているだけです。極めて初歩的な式変形です。
この捉え方こそが誤差なく正確な[数学]であり、どのようなケースで双方の結果が一致するのか、あるいはずれるのか、その値はいくらなのかを簡潔明瞭に示しています。
そして、この式を眺めることでも両者がほぼ同じとなる理由はすぐ気づくでしょう。

私にはこの説明のほうがずっとストレートで分かりやすい。
しつこいようですが、両者が(完全に)同じかのような前提で説明しようとすると回りくどくなってしまいます。違いは違いとして素直に受け入れた方がすっきりします。
さらには、日本ルールの盤面を基準にして考えることがポイントです。上式の関係がどうして中国ルールの計算視点からでは見えにくいのかというと、盤上に残る石だけを数えるのではプレイ中の着手数(裏を返せばパス数)の情報が欠落しているからです。対して日本ルールの整地法だけが唯一アゲハマも埋めることにより、すべての石が盤に出揃って双方の着手数の情報が得られるわけです。

ちなみに世間一般では、とかく中国ルールは石と地、日本ルールは地(だけ)なのだといわれますが、このくだりにおける「石」というのもまた盤上の活石ではなく、使用石を指すことになるはずです。なぜなら「地」というのは明らかにアゲハマという『石』を埋めた後の地だからです。そうでなければ日本ルールが地(だけ)であることと整合しません。

補足:黒白同数の石部分については、日本ルールであっても「数えている」とやや強引に見做すこともできます(この見做しは細かな違いを無視するという意味ではない)。日本ルールと中国ルールの差は、黒白比較の際に異なる石数部分のみ、すなわち「使用石差」です。

アゲハマの裏の意義

さて、この先も重要です。上記の式自体は時折解説されていることもあるのですが、そこで考察を終わらせずにもう一度日本ルールを振り返ってみましょう。
中国ルールが使用石も数えるものだと理解した上で、その視点から再び日本ルールのハマを埋める意味を捉え直すとどうなるか?

中国ルール(石を含む領域)から「使用石を差し引く」

ということです。これこそが「ハマはペナルティ」と完全に同値な言い換えです。
ちなみにこの「使用石を差し引く(使用石差を補正する)」の簡易版が、台湾で慣習的に用いられていたという「収後」ルールです。(詳細は省きますが、これを厳密なルールとして採用するには多少の問題を生じます。)

ではさらに、使用石を差し引くことにはどんな意味が見出だせるでしょうか?

使用石というのは、プレイヤーが盤上の領域を得るために費やした「コスト」だと捉えることができます。コストはより抑えたほうが効率に優れています。
すなわち日本ルールのスコアというのは、中国ルール同様の盤上の領域争いに加えて、さらにその効率までをも数値化して評価するものなのです。もし中国ルールを売上高を競うゲームだとするなら、日本ルールは【純利益を競うゲーム】だということです。「売上高」と「純利益」は、似ているといえば似ていますが、意味はやはり違いますよね。

だからこそ、日本ルールではダメは価値がありません。ダメは着手石自身以外には『付加価値領域』を何も生み出さないからです。この付加価値領域というのは、例えるなら重力や電磁気力のような目に見えない場のエネルギーだとでもいえましょう。

よくダメ詰めは「作業(だから省略)」かのように表現されますが、この意味にも注意せねばなりません。初心者にとっては中国ルールでのダメ詰めも必至に頑張って打つものかもしれませんし、逆に神のような棋力を持つ者にとっては小ヨセまたはそれ以前の段階から既に作業かもしれないからです。しかし小ヨセは作業だからといって日本ルールでも省くことはできないのです。
ようするに、もしも皆さんが自身の囲碁経験の中でダメ詰めをかったるく感じたなら、その本質は単に「作業」だとか「面倒」だからという理由ではなしに、碁に対する認識が「地」であることの証拠なのです。他方で小ヨセにかんしては、たとえ見合いの後手1目だろうとも「作業」だという感覚にはあまりならないでしょう。なぜなら、小ヨセはまさに地の問題だからです。

そして周知のように、日本ルールでは余計な手入れをしたら失点になります。日本ルールではアゲハマ含むすべての使用石に(単なる整地の簡略化ではなしに)最後までゲームとしての意味があり、無駄になる石は一つも生じません。それ故に非常に「シビア」だといえます。だから故意に石数を揃える等して改ざんしたらゲームが台無しになってしまいます。

しかしまた、たとえ日本ルールであってもその根底にあるものは石を含んだ領域争いなのだとみることもできます。日本ルールが石を数えないのは、あくまでも「最後の評価でコストを差し引いている」だけなのです。
もう一度先程のたとえになりますが、売上高と純利益のどちらであっても「商品をたくさん売る」という大まかな目標は結局変わらないわけです。

それからこれはおまけですが、ハマを埋める意味がペナルティではなくコストだと考えたなら、捨石は取られてガッカリするものではないとイメージできるでしょう。捨石は活石と同様に領域を得るために活躍した立派な石なのです。だから最後には戦死者として盤上の活石に並んで帰還します。アゲハマを埋める際は、どうか地を減らす憎たらしい奴めと思うのではなく、ご苦労様でしたと勲功を称えてあげてください。

そういうわけで、「使用石」に着目することで、日本ルールと中国ルールの真の関係(繋がり)を誤差なく完全に説明できるようになります。それはカウント手続きが違うというよりも、結果の評価法が違うという捉え方が厳密な解釈となります。両者はほぼ同じといえば同じながらも、意味はやはり違うのです。

ところで、この使用石差というのは、どれだけ実力の離れた二人が対戦しようとも通常は0か1(稀に-1~+2程度)にしかなりません。その上、0と1のどちらになるのかも実力ではなく、ほぼ指運任せになっているでしょう。したがって使用石差は(基本的に)碁の技量を表していません。
逆に言えば、日本ルールの地こそが技術と力量を示す最たる値だということです。だからこそ、ひとたび地を理解した人間は、石に対して直観的に異物感を覚えるのです。

突然ですが、この場面で黒はどこに打つべきでしょうか? 正解はもちろんB、と一目で言いたくなりますが、中国ルール(純碁も同様)ではよくよく考えてみるとABCどれでも正解です。

このような事態については、どうやら日本ルール以外で打っている人たちでも違和感を覚えるようです。中国人でも対局中の判断は日本式で計算している、というのはよく聞く話です。また置き碁においては、中国ルールでも置き石分を調整するルールがよく使われるようです。
ようするに人間は、古今東西を問わず本能的に、使用石を碁のゲーム性としてほとんど意識していない、むしろできることなら除外したいと望んでいる…。そう私は勝手ながら推察しています。またこれこそが銘鋺先生も主張するように、地は「基本文法」「最も自然」「(日本ルールという呼び名は)俗称」等々のアピールの根拠でしょう。この点については私も全く同感です。

それでは、いよいよ最後の仕上げに移りましょう。

純碁との関係、そして碁の本質

中国ルールと日本ルールの関係を示せたなら、そのまま純碁との関係も示すことができます。純碁については、中国ルールで切賃(目の除外)を計算すれば一致することは、言うまでもないでしょう。(以下『純碁』という語は「切賃付き中国ルール」の意でも用います。)
よって、各ルールの関係を式で表せば次になります。

〈純碁=中国ルール+切賃=日本ルール+使用石+切賃〉

ようやくすべてがきれいに繋がりました。これをみればわかるとおり、純碁にも日本ルールの地が含まれていることが明確に証明されました。
また、使用石(差)と切賃の値については、日本ルールの地に比べて十分に小さいことは明らかでしょう。
従ってこれらはみな「地続き」なのです。

皆さんはしばしば、純碁=石、日本ルール=地だとして二分化しようとします。銘鋺先生ですらも「切賃」こそが石と地の分かれ目なのだとした上で、現中国ルールが切賃を廃してなおその両方の二本立てであることになにかと横槍を入れたいようですが、それは石か地かという『見た目(=切賃)』による二分化思考に囚われています。中国ルールが地本位だというのであれば、純碁もまた地本位なのです。ただ純碁というのは、地に加えて切賃と使用石も合わさった、目的が三本立てのゲームなのです。

石か、地(とりわけ『空点』)か、という思考は、表面的な見た目に惑わされています。もっと本質を探らなくてはなりません。
はたしてゲームの本質は「最後に何を数えるか」のスコアルールだけ切り取って語れるものでしょうか?

銘鋺先生は野球を例に挙げて、その目的はホームベースを踏む回数一つだと主張しますが、私には攻撃と守備でプレイ目的はまったく異なるようにみえます。
日本ルールだって正確にいえばアゲハマという石も数えています。本当に日本ルールは目的が一つだといえるでしょうか。
あるいは逆に、目的というものを単に「得点」「勝利」だと見做すなら、中国ルールだって目的は一つということになります。
そしてまた「石の多いほうが勝ち」という意味では、オセロも碁と同じゲームになってしまいます。しかしこの二つは本当に同じでしょうか?
というわけで、スコアルールだけ切り取って目的を語るのはナンセンスです。あるいはそもそも「目的」という語自体が注意して使わないと曖昧で主観的だともいえます。

では、碁において本当に注目すべきポイントは何処にあるでしょうか?
それは、石の除去ルールです。これこそが碁を碁たらしめる最大の根幹です。
石の除去ルールにより、二眼を持つ石(活石)は絶対に取られないという死活の法則が生まれます。この法則によりさらに、活石に狭められた適度な広さの空間は敵の活路が無く、自ずと「不可侵領域」になるという陣取りのゲーム性が生まれるのです。この不可侵領域というのは、上述した式における中国ルールの項に該当するわけですが、その根源は石の除去ルールです。
そしてこの領域の観点においては、その地点が石であるか空点であるかという見た目の区別はもはや問題ではないとわかるでしょう。すなわち切賃を廃したのは、碁の根幹に基づいた一種の適切な抽象化だといえます。
それを日本ルールに至っては、さらに石自身のコストを除いた付加価値領域に純化させています。
(活石は、現中国ルールのように二眼生きのみならずセキも含めて考えることも可能です。)

ここまでを踏まえておいて、「碁」と呼ばれるゲームであれば石の除去ルールはみんな共通のはずですから、すなわち碁というのはどれも陣取り合戦なのです。
しかしオセロには石の除去ルールはありませんので、オセロは純碁と同じに「石の多いほうが勝ち」のゲームではあっても、「碁」ではないことが確かに説明できます。
一方でまた純碁も「石の多いほうが勝ち」とはいえども、その主たる本質は紛れもなく「日本ルール」なのです。銘鋺先生自身だって一方では「純碁も地を囲わなければ勝てない」ということを述べています。皆さんもこの点に異論はないでしょう。

然るに、そのゲームが「碁」であるか否かの判断基準を分類学的に何処に求めるべきかといえば、私は石の除去ルールであると考えます。スコアルールは二の次です。

なお切賃の本質は、最後に残す僅かな空点(目)だけをそれこそ「見た目」で区別して除外するスコアルールです。
(『目』の定義については見た目のほかに、石の存在の延長すなわち「自分の着手権⇔敵の着手禁止点」による方法も一応はあり得るのですが、とんでもない例外があったりしてややこしくなります。)

また使用石差は「交互手番ルール」と「手止まりの定理」から来る最終手の獲得争いか、若しくは最終盤に「コウの取り返し禁止ルール」を利用することで二手連打する(相手にパスさせる)というテクニックです。
(極稀にはこれまた特殊なセキのダメ等で一方の連打がありえますが。)

手止まりの定理:一方の最適反応戦略にパスが含まれる局面は、他方からみてもパスが最適反応戦略に含まれる。なぜならば、黒の視点で黒の如何なる手も得(白の損)にならず、且つ白からの如何なる手も損(白の得)にならない。すなわちその局面にはどちら側にも有益手が存在しない。よって使用石差は通常高々数目に限られる。ただし例外として、コウの取り返し禁止を理由とするパス等もある。

それといまさらですが、本稿の「日本ルール」というのは英語ではTerritoryと呼ばれるスコアリングを限定的に意味しており、セキの地の除外等は考慮していません。

さらにこれも一応補足しておくと、純碁の完全な終局では石を敷き詰めることにより使用石差が増大して地が縮小することになりますが、それは互換性のある空点と石とを変換して単に「可視化」しているに過ぎないのは言うまでもなく、よってその際の石というものは本質的に地を意味しているに他なりません。謂わば熱エネルギーを温度計で表示するようなものです。この変換手続きこそが碁の本質なんだと考える人は、さすがにいないものと信じます。

終わりに

ところで話を戻しますが、『目的(日本ルールの視点から)』が同時に三本もあったらどう感じるでしょうか。とてもややこしいですね。なにより肝心なのは、「地」以外の要素がサブ目的の域を出ないくらい大したことないということです。
ですので、切賃をやめて、日本ルールではさらに石もやめたことは、極めて自然な洗練化の流れだと思います。
地一本であっても碁は十分に複雑で面白いです。そうでありながら、ひとたび地を理解してしまえば考え方は日本ルールが一番『シンプル』なのです。

これまた誤解されているように思うのは、日本ルールが何人にも理解し難いほどに厄介なものだというイメージです。ですがどうにもそれは、極めて稀な珍形奇形を取沙汰して重箱の隅をつつくような誇張に私には感じられます。まず第一に重視されるべきはコモンケースのシンプルさではないでしょうか。
またそもそもとして、日本ルールだからといってすべての珍形奇形に答えを与えられないと決まっているわけでもありません。銘鋺先生はこの点を「ルールの絶対条件でしょうか?」と問い掛けていますが、この意見自体は私もまことに一理あると受け止めてはいるものの、だからといってそれが無理というわけでもないと考えています。あくまで私の独自研究ではありますが、現行日本ルールはその思想精神(現行判例)の一切を損なうことなく、コンピュータにでも機械処理できるプログラムの形で十分に説明可能だと確信しております。もちろんコンピュータのみならず、人間でも一定の囲碁経験があれば誰でも意味を理解できる普遍的法則の数々で構成されています。
もっとも最近では、Katago等のフリーウェアでも既に日本ルールをかなり正確に再現しており、現実的な実用用途では十分すぎるほど対応しているといえるでしょう。開発者のDavid J. Wu(通称 lightvector)氏は日本ルールについてもかなり熱心に検討されているらしく、頭が下がります。

銘鋺先生は、日本ルールをアピールしたいのであればもっと堂々とアピールすればよかったでしょう。つまりは日本ルールで長らく打ち続けてきた日本の一棋士の立場から、囲碁ルール(とりわけ上級者以上の公式競技用)は、最も自然な「地」の日本ルールで世界統一すべきであると。それは決して陳腐なナショナリズムでもなければ惰性的な伝統への固執でもなく、碁の基本文法と、純利益を競うという哲学を重んじているだけなのです。
そう主張できずに「統一されている」と一見誤魔化しているようにもみえるのは、他ならぬ銘鋺先生自身もまた日本ルールに対する「不信感」を抱いているからではないでしょうか。

ただ当然ながら、中国ルールや純碁にだって何ら遜色ない意義があるでしょう。とくに入門においては、人間が碁の理解を深めていくルール変遷どおりに純碁から始めたほうが分かりやすいのは当然です。また熟練者であってもルールの違いが布石段階からの戦略にも影響しえます。

敢えてこう表現しますが、みな囲碁の仲間とはいえどもそれぞれ「別のゲーム」です。同じでないからこそ、それぞれに個性があるのです。

  • 原始の囲碁認識を表現する純碁

  • 領域争いの性質に基づいた中国ルール

  • それをさらに人間のゲームとして洗練化させた日本ルール

やはりこの三つは、囲碁というものを語る上でどれも外すことのできない重大な意義があります。
ゲームのルールに優劣はありません。そしてゲームのルールは自由なのです。極端な話、「黒だけが二手ずつ打てる」なんてルールだろうとも、プレイヤー二人さえ納得すればありなのです。あとは好き嫌いの問題です。(ただしその判断をするにあたっては、まずそれぞれのルールの意義本質を正しく理解してからにして頂きたいとは願っています。その点において、とりわけ日本ルールにかんしては説明のほうも不十分であったことは否めません。)

だから私個人の本心としては、そもそもルール統一が必ずしも良いことではないとも考えます。これまで通りに各国それぞれで共存して行けばよい。
しかし反面そのことで多少の混乱が生じうるというデメリットもあるわけですが、なおそれでも現在に未だルールが統一されていないのは、逆説的にこの問題が大したことないということかもしれません。ようするに、大雑把にみればやはりどのルールだろうともみんな同じなのです。そういう視点では、銘鋺先生の「事実上統一されている」という主張も、なかなかに意味深なのでありましょうか。
(ちなみに銘鋺先生はルールの違いを「考え方の違いではなく対局環境の違い」だと述べますが、率直に意見するなら、とくにプロレベルの公式競技の場においては近代化に伴って環境の違いは問題では無くなっている一方で、考え方の違いのほうがより大きくなっていると思います。)

また以上の考察内容から最後に私の持論というか結論を加えるなら、囲碁というものは人間が「地」を初めて認識したその瞬間に、『石本位主義』から『地本位主義』へと本質の変容が起こったのです。
それと共に切賃(石)というものは、古代中国の頃からとっくに『宗教(原始主義)』と化していたのです。宗教とはつまり銘鋺先生がこのコラムで語るように石への「忠誠心を示す」ことであり、この点だけなら意見が合致するのですが、だからこそ切賃は「盲腸のようなもの」だというのが、私とは相反する見方です。
ようするに、切賃という概念の発生それ自体が、碁が地本位になったことの証であり、その際の切賃の扱いは、もはや地を数え終えた後にわざわざ計算し直さなければならない「面倒な代物」であるわけです。それはある意味で不合理なカルトです。
ゆえに現代になって、切賃は碁の本質に沿って自然と廃止されたのです。
というわけで、銘鋺先生は現中国ルールについて、

「石本位」の発想だけからでは「切賃」をなくすのがむずかしい。中国ルールがなしくずしに切賃をなくしたのではなく、いったん「地本位主義」を受け入れてからの再スタート

だと述べていますが、私はそうとは限らないと考えます。

では、仮に現代に再び切賃を復活させるとしたなら不合理なのかといえば、そういうことではありません。その場合の切賃の本質というのは、石への忠誠心を示すことよりも、「石を多く切断したほうが得する」という純粋なゲーム性の付加こそが真の理由となるのではないでしょうか。すなわち切賃もまた本質が変容しているということです。
あるいはこの本質の変容というのも、もしかしたら中世以前に早くから起こっていた可能性も考えられます。ウィキペディアの「切り賃」の記事によれば、「中国のある時代においては、切り賃が1目のときもあった」と書かれています(2023.10.2)。ただ要出典となっているように真偽は私にも残念ながら不明なのですが、仮に事実であるならばその本質は必ずしも「石への忠誠心を示す」ものではなかったことが推定できるでしょう。

そしてこれと同様のことが、日本ルールが現在にもセキを数えない理由として主張できるのだと考えています。


…以上、最後までお読み頂きありがとうございます。

まとめますと、日本ルールというのは『元々は』中国ルールにおける計算の簡略化、だったのかもしれませんが、実はそれがまったく別の思わぬ副次効果を齎しました。

地に気付いた人たちにとっては、目の除外に加えて黒白の使用石差を競うことにも大した意味を見出だせず、それどころが不自然なノイズにさえ感じることもある。その石の要素を排して、より純粋な地へと昇華させることに成功していたのです。


参考資料:
政光順二氏「石を数えるぷよ碁・純碁と空き地を数える囲碁、ぜんぜん違うようにみえるけど・・実はほとんど同じゲーム」「X(Twitter)
王銘鋺九段「世界の囲碁ルール」「純碁


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