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産み落とされたさびしさについて

折坂悠太の「さびしさ」という曲の一節だ。僕はこの詞の意味がずっと分からなかった。「生きてるだけで丸もうけ」とはIMARUの名前の由来だが、28年間生きてきた中で、結局生きていることが素晴らしいという思いがあり、産まれたことは喜びではあっても、さびしさにはなり得ないと思っていた。

ただ、年末年始にYouTubeで超常現象やスピリチュアル系の動画を観る中で思うことがあった。そんな怪しい動画に感化されるなんて、遅すぎた厨二病のようで恥ずかしいけど、元々こういう話が好きだから仕方ない。きっかけとなったのは輪廻転生と地球についての話だ。真偽は別として、こういう世界があると想像するのは面白い。

輪廻転生

人間は幼少期に前世や中間世の記憶を持っていることがあるという。3歳〜5歳くらいまでの子供はお腹の中にいた頃の記憶、生まれた時の記憶、生まれる前の記憶を持つことがあり、親が尋ねると、もしくは尋ねなくてもひとりでに、その記憶を語り出す。

生まれる前の記憶には共通する内容がある。赤ちゃんは生まれる前に神様のような存在と暮らしており、自分の親となる人を選んで生まれてきたというものだ。前世の記憶を持つ子供もおり、他の人には知り得ないすでに亡くなった方の情報を持っていることもある。

これは、いわゆる輪廻転生の考えに通じる。人間の中には、過去に別の人間として生きていた人が一定数存在し、魂と呼ばれる人間の意識は、身体がその機能を停止すると、どこか別の空間に移動し、また新たな生としてこの世に誕生する。

地球とは

ただ、ここで疑問が生じる。我々の意識は言わば肉体の中に閉じ込められ、他の生物を殺して食べるという罪を重ねなければ生きられない。なぜ、そこまで生に憧れ、執着するのか。なぜ、輪廻転生をしながらこの地球という場所で生まれては死ぬことを繰り返すのか。

その答えは「地球は宇宙の刑務所である」という話を知ったことで腑に落ちた。刑務所の刑期が3年の者は、3年間服役しなければならないように、輪廻転生にも条件があり、例えば3回転生しなければ、魂は人間の身体に閉じ込められ続けるのだとしたら。

こんな空想に少し真実味が生まれてしまうような体験をしたことがある。「地球は宇宙の刑務所である」という話に触れるもっと前に、産まれ落ちたことのさびしさを感じた瞬間が一度だけあった。

今から5年前。YouTubeで「過去世退行催眠」という動画を見つけた時のことだった。前世の記憶を見ることができるというのに興味が湧き、半信半疑で流れてくる女性の声の指示に従って瞑想をしていると、ふいに頭が震えるような感覚がした後、脳が強い感情に支配された。その時、自分は自分が生まれた瞬間の感情を思い出したのだと思った。目覚めてすぐにメモを取ったが、後で何だか怖くなって、このことについて考えるのをやめた。そのメモの存在を思い出し、iPhoneのデータを遡ったら、ちゃんと残っていた。

このメモを書いた時、生まれることは祝福だと考えていたのに、悲しい気持ちに支配されたことへの違和感が拭えず「自分は望まれずに産まれた子供だったのでは」と気になり始めたので、深く考えないことにしたのだった。でも、たぶん違う。生まれることそれ自体が、輪廻転生の枠の中に組み込まれることと同義であり、そこに諦めのようなさびしさを感じたのではないか、と今になって思う。(話が飛躍しすぎてる気もするけど笑)

急にスピリチュアルに傾倒してしまったみたいだが、これでも怪しいセミナーに参加して、壺を買ったりはしない自信がある。輪廻転生があろうがなかろうが、それとは何の関係もなく、日々の暮らしは続いていくのだ。でも、やっぱりちょっと気になるので調べてみた。輪廻転生というのは仏教用語らしい。仏教には解脱という考えがあり、仏の目指した道は輪廻転生から外れることなのだと。たしかに、そんな話をお葬式の時にお坊さんがしていた気がする。今更だけど、仏教の入門書、読んでみようかな。

あと、こういうオカルト話が好きな人とフラットに色々と議論してみたいという欲求がある。宗教とも絡む内容だからこそ、難しいところはありそうだけれども。

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