24.06.07- 宿酔part.2

2024.06.07
友達とご飯を食べてから、彼に連れられて初見のゲイバーに向かう。行ったことのない場所で話したことのない人達に囲まれると、いつもその場でどう立ち回るのが正解かを探すことに終始してしまう。

友達は身内で、それ以外は他人だ。他人たる店の人や、他の客に自分たちはどう見られているか。この場にそぐう振る舞いができているか。目の前の店子にも話を振るべきだろうか?その話はそのボリュームでしたらダメだろう。トイレに行くのは今ではない?話が終わったこのタイミングなら良いだろうか?など気を揉む種は尽きない。もっとあらゆることから解き放たれて、ただ、今この瞬間が楽しければそれでいい状態に早くなりたくて酒量が増える。

だいぶ長居してしまい、新たに来た客が席がなくて立って飲み始めたので、さっさと酒を飲み干して店を出たい。酒を減らすために濃い目に作って貰い、一気に飲み干す。店を出ると、友達に「あんたがいる時だけママが付いてくれてたから気に入られたんじゃない?」と言われた。そんなことないよと否定しながら、心底どうでもいいと思う自分と、誰かに好かれたことが嬉しい自分の、どちらもが確かに存在しているのを感じた。

2024.06.08
三軒茶屋で友達の誕生日を祝う。といってもケーキを用意しているわけでも、ちょっといいお店の予約をしているわけでもない。ただただ昼から酒を飲み、飲んだ杯数だけ手の甲に赤ペンで正の字を書いていく。

これは学生時代、悪ふざけで「煩悩の数だけ酒を飲もう」と誰かが言い出して、飲んだ数を正の字で付けたのが始まりだ。4人で108杯の目標も虚しく、1人20杯も飲めずに呆気なく終了した。そこからは20杯達成を目標に正の字を書くようになった。最初から理屈は破綻しているのだが、仮にも煩悩を題して始めた事で、これほど煩悩に振り回されるとは思わなかった。

店を数軒はしごして、友達の希望でカラオケに行った。彼らとドライブする時には必ず車中で流す、椎名林檎の「カプチーノ」をみんなで歌う。中学2年生の頃、ともさかりえの「カプチーノ」の存在を知っているのは、たぶん学校中で僕しかいなかった。それを当時の友人達と肩を並べて歌う日が来たのが、なんだかとても感慨深い。

友達は今日で30になった。普段は軽口ばかり叩いている癖に、実は意外と情に熱くて、誕生日を祝われて本当に嬉しそうに手の甲に赤ペンを走らせる、彼の純粋さが永遠に失われなければいいと思う。ただ、友達の一人は数年前に結婚した。いつ終わってしまうか分からない、いつ終わってもおかしくないこの集まりの、最後の灯火をみんなで名残り惜しんでいるようだ。20代という青春の終わりがもう、すぐそこまできている。

2024.06.09
中高の友達と別れ、日を跨ぐ直前に「今からちょっとだけ飲まない?」と連絡を貰って新宿に向かった。酒を飲みすぎてボーッとした頭で、集合場所を決める必要があることを思い出したところで、スマホの電源が落ちた。仕方なく、適当な出口からまず外に出ようと新宿三丁目駅の階段を登ったところで彼を見つけた。都合よく「奇跡」なんて言葉を使いながら、酔った勢いに任せて言葉を安売りしている自分への不信を心の奥底に感じる。

彼とバーで話をするのはとても楽しい一方で、頭が回らない不甲斐なさを恨む。彼とはもっともっと抽象的な話を沢山したい。本来の自分はそれができるはずなのだと思いつつ、眠気と闘いながらなんとか言葉を絞り出す。そういえば、昨日も朝まで酒を飲んでいたのだった。

近くに座った客に容姿を褒められた。「自分なんて」と卑下して過ごした時間があまりに長かったので、嬉しくても素直な反応をするのが怖い。ただ、人に何かを褒められると確実に心は満たされていく。自己肯定感はフィジカルなものだという前に本で読んだ一節を思い出した。

朝が来て、友達と別れ、家に帰って泥のように眠った。酒を飲みすぎたのは明らかで、一日の大半を頭を抱えながら布団の中で過ごす。このまま何もしないのはさすがに良くないと思い、夜はXで前に見かけた牛肉とトマトのすき焼きと炊飯器で炊く蒸し野菜を作って食べた。

お米を炊く時にカボチャと人参と蕪を皮ごと一緒に入れるだけなのだが、出来立てに塩を振ったものは、それだけであまりにも美味しい。すき焼きは、トマトの酸味と甘辛の牛肉のバランスが絶妙だし、付け合わせに作った蕪の葉の炒め物でさえも最高に美味い。こんなにも美味いご飯が簡単に再現できるなんて、「レシピ」というのは偉大だと、当然のことに改めて感じ入った。

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