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と言っても、それでもやっぱり。-4

中学生の頃に絵を描くことに目覚めた。
叔父は街の片隅で小さな絵画教室を開いていた。
小学生の頃から時々遊びに出かけては遊びで絵を描いていた。
中学の美術の授業で初めて「デッサン」を教えてもらった。
それまで描いていた絵は想像上の生き物や意味をなさないような抽象画のような作品が多かった。

●写実画が逆にアートへの興味を広げた


デッサンで初めて世の中にあるものを写し取るという行為をした。
自分は絵の才能はないし、上手に描けるとは思っていなかった。
デッサンはそこにあるものを光と影の塊として捉えて縦横の比率を正確に把握して紙に写し取る。だから影の濃さやそれぞれの大きさの比率をよく見ながら観察をする。「絵を描く」という行為よりも幾何学的なものの見方が必要で、もしもAIがデッサンをしたら誰よりも上手に描き上げるだろう。
美大や造形大学の入試に良く「デッサン」の試験があるけれど、合格者の作品はAIが描いたような作品ではなく、陰影の捉え方や全体の比率は美しくても作者の個性がリアルに表現されている。

ある日、最初どうしても描けずにいたデッサンを破り捨てて、いつも想像していた幻のような影と目の前の石膏像を重ねて、自分が見えるままに正確に紙に写しとった。それはリアルで目の前にある石膏像を表現してはいたけれど、それでもやっぱり明らかに自分自身の作品だとわかる特別なデッサンになった。

技法や方法論に囚われずに解放された瞬間だった。
それからの私は自由に手を動かして作品を描けるようになった。

何が私を解放したのかわからないけれど、美術の担当教員はその裏側にあるものを見つけてくれた。その日から「絵を描く」ことが人生の目標になった。

●立ちはだかるものにあがらえないジレンマ


もっと絵を追求したくなった私は工芸高校に進学しようと思った。
でも思わぬ障壁が出現した。
「両親の反対」という障壁。
中学生の私にはそれにあがらう方法が見つからなかった。
それでも「絵」を諦めるということは人生の半分を諦めるのに等しかった。
才能を認めてくれた教師もなぜか両親を説得してくれることはなかった。
思えば音楽の先生がピアノを勧めてくれた時も、私が何かを始めようとすると両親はいつも立ちはだかって反対をした。
結局普通科の高校に進学し、美術部に入ったが学年でトップの成績を取ろうが両親は反対し続けた。美大に進学することを諦めていた私に同じ美大を目指していた学友たちは驚いて嘘だろうと幻滅した。
全く別の大学に入学して、「趣味」として絵を描き続け、美術部に勧誘され作品も展示されたが、専門教育を受けることのできない自分へのジレンマはさらに大きくなっていた。
この時に「親が子供の才能を潰す」ことの残酷さを思い知らされた。
いつしか、私は自分がやりたいことは決して両親には口外せず、自分の中だけで温め続けるようになっていた。

●それでも運命は近づく


大学を卒業して就職が近づく頃、
それでも「何かをつくる」ということが自分にとって大切なことであるのを確かめるように「広告」の仕事に惹かれていった。
皆が内定を取り始めた頃、ようやく動き始めて一つの内定を掴んだ。
「絵」に関する仕事を諦めていた私は「コピーライター」を職種に選択していた。
でももうここから後は「絵」とは違った職能を身につけよう。
下宿先の電話が鳴って受話器を取ると先方の制作会社の経営者だった。

「やあ、試験の成績は受験者全ての中で2番だったよ。でも、うちでは最も成績の良い者と、最も成績の悪い者を取ることにしたんだ。だから2番の君は残念ながらコピーライターにはなれない」
打ちひしがれはしなかった。コピーライターの勉強はわずかにしただけだったのだから。
と言っても、それでもやっぱり現場に入れなかったことは悔しかった。
でもこの話には先があった。
「だから、君はデザイナーにならないか?僕が君を教える。まずは現場に来い!」

運命が突然後ろから襲いかかって、私の後ろ髪を掴んだような感覚があった。
諦めていた道の扉が突然開いた。

この後、描いていた絵を持って来て欲しいと連絡があって、その日にもう一度面談をした。
「デザイナーとして採用したいので、後で必要な書類を書き込んで下さい」

これから後も私は様々な道を選びながら人生を歩むけれど、
ここからは全てを自分で選び、誰かが反対しても真っ直ぐにそれを達成するまで諦めないようになった。

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