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花は咲く Flowers bloom in your garden.Ⅺ

車窓に映る水平線の島々が通り過ぎてゆく。
ざわめく水面のようにささくれた痛みを抱えて客車は東の岬に向かって走り続けていた。
軋んだ停車音とともによろめきながら降り立つ。
長い坂道を足を引きずりながら登ると岬の先に小さなホテルがあの時のままに建っていた。

●月の花

ホテルは記憶の中のそれとは違ってずいぶん古びて見えた。
「月花(つきはな)」。
家の表札のようにひっそりとエントランスの右側の柱に嵌め込まれたプレートも錆び付いて時間の流れを感じさせた。
そう、僕もすっかり錆び付いて朽ちかけた老木のように心の中に大きな穴を開けていた。

ずいぶん幼い頃に父は行方不明になり、母は僕が大学を卒業した時にとても喜んでくれた。
就職してから奨学金を返すのは大変だったけれど、母がスーパーのパートで働いて育ててくれたことを思えば大したことはなかった。
朝は惣菜コーナーで仕込みをして、昼からはレジ打ちをした。
売れ残りの廃棄する野菜を安く分けてもらって、美味しい煮物を作ってくれた。

大学に受かった時にアルバイトで稼いだなけなしの貯金をはたいて母に旅行をプレゼントした。
岬の先にあるそのホテルは出来たばかりで、客室から見える海はとても美しいと評判の宿だった。
なのに、僕たちが予約したその日はあいにく岬の東側を台風がかすめて、朝から雲行きが怪しかった。客室の窓から見えたのは美しい海の風景じゃなく、海に落ちる雷の光だった。
「こんな日に予約してごめんな」
「あんたのせいじゃないから。それにしても二人で旅行なんて初めてだねえ」
嬉しそうな母がなんだか不憫で、せめて部屋食を用意してもらって親子水入らずで夕食を取ることにした。

夕方になると台風は通り過ぎて嘘のように静かで済んだ秋空が広がった。
「夕食のご用意をさせていただいてよろしいですか?」
宿のスタッフが刺身や紙の鍋を運び込んだ。

あの時の空もこんな色をしていたな。
水平線はほんのり明るいのに月は丸く強く輝いて鏡映しで光が海に揺らいでいる。

不況で大手の得意先が倒産したのは三ヶ月前だった。
銀行に奔走して融資の相談をして、それでも事業は続けるのが難しかった。
「仕事は上手くいってるかい?」
口癖のように言っていた母が他界してからもう二十三年が経とうとしていた。
末期癌で緩和ケア病棟のベッドで痩せ細った手で僕の頭を撫でた。
「もう子供じゃないんだからやめてよ」
「何言ってるんだい幾つになってもお前は私の子供じゃないか」
その細い腕を跳ね除けるようにしたら、あまりの力の弱さに泣きそうになった。

陽が沈んだ頃、窓を開けて敷居に腰掛けて海を眺めた。
あの日のように空は澄んで丸い月が明々と水面を照らしていた。
あの日の母の言葉を思い出していた。

「この宿の名前『月花』って言うんでしょ。さっき中居さんに聞いたんだけど、この窓から見える月が水面に花のように映って見えるからなんだって。素敵ねえ。私これからもあの月の花みたいにどんなに暗い夜でも大きな花を咲かせるわ」

その言葉通りに母は生きた。

僕が資金繰りに奔走していた時にも、自分自身の癌が分かったその日にも「なんとかなるわよ」といつも笑顔を返してくれた。
太陽は眩しすぎてはっきり見えないけれど、月は夜の闇の中で美しい姿を現す。
「そうだね母さん」
暗い闇の中で母を想った。

僕はカバンの中の封筒を取り出して破り捨てた。
明日は街に帰ろう。
「なんとかなるさ」
そう呟いて水平線を見つめると、そこには大きな月の花が開いていた。


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