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私たちの何がギブ&テイクという行為を必要としているのか?〜「タダの箱庭」の本を読んで浮かんだ仮説〜


はじめに

「タダの箱庭」の本の読書会を続けています。

本の中で、以下の問いがありました。

私たちがお金やギブ&テイクを通して得ようとしているものは何なのでしょうか。

今回はこの問いに触発されて浮かんだことについて書きたいと思います。

私たちの何がギブ&テイクという行為を必要としているのか?

この問いについて対話をした時に浮かんだものが2つあるのですが、それぞれを掘り下げてみると1つに集約されることに気づきました。

最初にそれをずばり紹介すると「私が何者であるかを実感できることに伴う安心感が得られるから」でした。ここでいう何者であるか、というのは「本当の自分」といった自己啓発などの文脈で扱われる「私」というものではなく、もっと原始的な、本能的なレベルのものを指しています。

そして、最初に浮かんだ2つは、この「何者であるか」を私たちが無意識的に感じるための媒介となっているものについて浮かんだのだと気づきました。

続けてその2つについて書いていきます。

(1)ルーティン化されている行為、役割があるから何者かを感じられている

1つは、お金を介在させるやりとりやギブ&テイクは、多くの場合ある種オートマティックに行うことができるように思います。(補足:寄付や値付けをするといったタイミングの人にとって違う側面はあります)

これは、言い換えればルーティンワーク化できるということ。これがあることのメリットとして思ったことが、自分が何者かを無意識レベルで確かめられるということではないか、そして、それによって感じられる安心感があるのではないか、ということです。

(2)共感が生まれない・伴わない行為をすることで生まれる境界線感によって何者かを感じられている

お金を介在させるやりとりやギブ&テイクは多くの場合、共感が伴う行為ではない、とされていることが多いと思います。とすると、共感が生まれない・伴わない行為と捉えることができるかなと。

この共感が生まれない・伴わない代わりに何が生まれているかというと、私とあなたを区別する境界線ではないでしょうか。

そして、この境界線もまた私が何者かを無意識レベルで確かめられる媒介であり、だからこそ安心感につながる行為のように思えて、だからこそ、私たちが必要としているのではないか。

そのある種、本能的な欲求があるからこそ共感が生まれない行為を生み出してくれるお金やギブ&テイクが存在できるのかもしれない。

そんなことを思いました。

仮説のまとめ

以上を踏まえて私の仮説をまとめると、

・私たちは何者であるかを実感することによって安心感を感じるのではないか

・私たちは他人との境界線を感じることや、ルーティンを行うことで、本能的な意味での何者かを確かめているのではないか

(・境界線やルーティンは言い換えると静的・固体的なものであり、この静的・固定的であることと、本能的なレベルでの何者かは強く結びついているのではないか。)

ということです。

さいごに

このあたりは、まだまだ他にも色んな考察ができそうで興味深いなぁと思っています。

また、今回の「何者か」というのは、心理学でいうと「自我」と呼んでいるものなのかなぁ〜とか、同じく心理的な側面でいうと、「ギブ&テイク」という行為をすることによって気持ちの面での貸し借り感を清算できる、言い換えれば、気持ちの面での貸し借りがある状態が落ち着かない、常態ではないという前提があるのでは?といったことも浮かんだ仮説ではあります。

この辺りの話は、コミュニティの話にもつなげられるなと個人的に思ったので、別の機会に書きたいと思っています。

おまけ

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