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「個人と組織」ではなく「個人は組織」だと感じるようになった時に書いたメモ


はじめに

いつからか「個人と組織」ではなく「個人は組織」と感じるようになりました。それがいつ頃かすっかり忘れていたのですが、SNSでその時にきた記事を見つけたので載せたいと思います。2019年の5月に書いたものでした。

当時の引用

数年前に芸術家の岡本太郎太郎の芸術と人生というテーマの講演会動画を見ました。

そこで岡本太郎は開口一番
「芸術と人生というタイトルは間違いだ。芸術は人生だ」
と言われていました。

芸術と、人生は分かれているのではなく、イコールであると。

私は最近、個人と組織という表現に違和感を感じるようになりました。

個人と組織ではなく、個人は組織である。
そんな風に思ったときに、岡本太郎の言葉を思い出したわけです。

私たちの中の私なのか、個人としての私なのか。

ネット社会には陰陽ありますが、
陽の側面としては、個人としてだけではなく、
私たちとして生きられることが挙げられるのではないでしょうか。

この話の前提には、
落合陽一さんがその著書の中で書かれていた、

日本人は文明開化によって西洋の個人主義が入ってきて、
その主義でもって構築された構造や作り出されてきた欲求によって、
近代の文化も創り出されてきた、
そして、それは日本人には向いてなかったのではないか

という視点があります。
この理解は私の解釈が多分に入ってるかもしれません。 

個人として生きることは日本人にあまり向いてない、という点は
西洋型の狩猟型の成功哲学、自己啓発では道に迷ってしまう日本人が多いことから、私としては納得しています。

自己啓発では日本人は9割が農耕型であり、目標を達成するよりも、
目の前のことから展開させていくスタイルの方が合っているという説があります。

話が飛んでしまいますが
ICTのますますの発達により多くの人が信じている、
近代化によって生み出された当たり前がくつがえり、

日本人らしさと、テックが統合した、
例えるなら江戸テックな社会が
ポスト資本主義の世界観なのではないかと思ってます。

その世界では情報は非対称的なものではなく、
あるがままにやりとりされている。

個人、国家といった例えるならスマホ単体で
ときどきインターネットと接続してるといったものではなく、
常時接続されている、

個体ではなく、ネットワークそのものが本体であるという世界観。

ブロックチェーンは
そういうことなのかなと。

その本体から逆にあらゆる、これまで個体だった対象が再構築されていく。いや、されていっている。

それが現在進行形だと思ってます。

どうせそうなる未来。
そのような方向に時代の流れを感じています。

久しぶりに見返して思ったこと

今見直してみると、勢いで書き殴っただけに意味がよくわからない箇所もいくつかありますが、いわんとする時代の流れは今に通ずるなぁと思いますね。

特に、

・情報は非対称的なものではなく、あるがままにやりとりされている。

・個体ではなく、ネットワークそのものが本体であるという世界観。

・その本体から逆にあらゆる、これまで個体だった対象が再構築されていく。いや、されていっている。

という箇所は、エコシステミック、リジェネラティブ、西田哲学といった2019年以降に出会い、学んでいるテーマに通ずるものを感じます。

一方で、自己啓発における西洋と東洋、狩猟型と農耕型の話は、当時はしっくりきていたのですが、今読み進めている『万物の黎明』には狩猟民族や農耕民族に関する新たな視点が紹介されているため、当時のような感覚では引用できないなぁと思ってしまっていますね。このあたりは、読み込んだ上で新しいメタファーとして語れるようになりたいなと思います。


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