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私たちが「お金的だと認識したもの」を扱う際に無意識に思ってしまいがちなこと

こんな話を聴きました。

Aさんが見返りを求めず貢献したことに対して、Cさんが「ある種の地域通貨」をプレゼントしてくれました。

その時にAさんには「こんなもんか」というある種のがっかり感が浮かんでしまいました。

「何がAさんにそう感じさせたのか?」

「その時Aさんの側、そしてCさんの側に起こっていたことがあるとしたらそれは何なのか?」

そんなことを友人と語り合っていて浮かんだことがあります。

それは、
Aさんには、法定通貨ではないにしても通貨的だと認識したものをやりとりする際に定量的な側面しか目に入りにくくなる、ということが起こったのかもしれない。それが起こってしまうと、市場規範のメガネをかけたようなものなので、肝心の気持ちの方もそのままではなく、「道具」のように感じられてしまったのかもしれません。Cさんの本来渡したかったのは「気持ち」であり、そのプラスαとしての数字にすぎなかったのではないか。

一方で、
Cさんに起こったことは、本当は渡したかったのは「感謝や労いの気持ち」だったはずなのに、無意識のうちにプレゼントした数字の量という範囲に気持ちを小さくしてしまったのではないか、ということ。その結果、相手に本来は届くべきである自身の感じた感謝の総量が伝わりきらなくなってしまっていたのではないか。言い換えると、渡す側も目に見える数字の多寡に方に意識が持っていかれがちだということ。

もし、AさんがCさんが本当に渡したかった気持ち、目に見えない方にフォーカスし続け、その思いと思いの交換が土台になった上で、おまけとして一定の数字ももらえた、と感じられていたら、その数字への感じ方は違ったのかもしれない。

それだけ、私たちは「通貨」が想起されると、「交換」「量が多い方が価値が高い」という1つの常識に引っ張られやすい、のではないか。

そんなことを話していました。

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