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タケヤリニッポン~「このままじゃ、政治に殺される。」

今朝の日経新聞、宝島社の痛烈な風刺を効かせた見開き2面広告が話題ですね。朝日新聞、読売新聞にも掲載されているとか。

この広告の「政治」に対するシンプルなメッセージには異論をはさむ余地がありません。
「タケヤリ」という言葉は、父母や祖父母に降りかかった太平洋戦争の悪夢を想起させ、今の日本の問題点に刺さる十分な力を持つ言葉と感じます。
若い世代が、どれほど「タケヤリ」を知っているかは不明ですが。
 
新型コロナが惹起する具体的問題と社会的な歪みを取り上げると、責任の所在が不明確になりがちで、誰に訴えているのかがぼやます。
とはいえ、一切合切を含めて「政治」である点は疑いようがありません。
 
ジャン=ジャック・ルソーは、「社会契約論」の中で、共同体(ここで言えば日本国や自治体)と構成員(私たち国民)の間の「契約」とは、「各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体に対して、全面的に譲渡することである」(契約論30)と述べています。
構成員がそれと引き換えに得るものは、他人の不幸を小さくしながら、自分(私)の幸福をより大きくする共同体の実現と維持であり、そこに対して私たちは合意の意思を表明しているわけです。
 
共同体の要が政治であり、政治への不信を爆発させたい私たちの気持ちを代弁したのが宝島社。
矛先は、与党や首長だけではなくて、新型コロナに翻弄され、私たち全てを幸福にできないあらゆる「政治」に向けられています。
  
日本人は「お上意識」が強く、最大の弱点とも言えます。裏腹に、「個」が確立していません。
SDGsがいま一つヨーロッパのように自分事にならず他人任せで、関心が高く見える割にはSDSNのSDGsインデックスでも17位と、何だか中途半端なポジションに甘んじているのも、このお上意識、個人という意識の希薄と無縁ではないと考えます。

SDGsインデックス

自分がやらなくても、お上がやってくれるはず(べき?)と漠然と考えてしまう。
「お上」を選ぶ権利としての参政権を活かそうとする意識が低いことは、投票率の低迷から感じざるをえません。
終戦の断絶と、与えられた民主主義であって国民が勝ち取ったものではないことが未だに尾を引いている印象です。
 
一方、野党はと言えば、この閉塞が極まった状況を奇貨として、国民の支持を獲得する気はあるのでしょうか。
その存在の軽さにもがっかりなのですが、労働組合はもとより、社会的活動をしている団体なりを集めて、(示威行為とかアピールではなく)何か具体的な行動を起こすくらいのリーダーシップを見せてほしいものです。
国政でいえば、国会で政府を攻撃する以上のことができていない印象で、議員が一見小気味よく菅総理をこき下ろしても、宝島社以下のインパクトしか感じません。
  
有権者の私は、選挙権を大切にしなければなりません。
この体たらくの我らが政治を次の選挙でどう評価するのか。問われているのは自分自身と痛感します。
私はどうしなければならないのか。
引き続き、自問し続けます。

#このままじゃ政治に殺される #タケヤリで戦えというのか #宝島社  


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