見出し画像

ライフリンク・メディア報道・故山本孝史さんの思い出②

元民主党参院議員、山本孝史さんの追悼演説を行ったのは参院議員(現・参院議長)の尾辻秀久さんでした。2008年1月23日の参院本会議です。山本孝史さんを「あなたは参議院の誇りであります」「社会保障の良心でした」と惜しみました。尾辻秀久さんの追悼演説も、議会史に残る名演説と言われました。

2008年1月24日毎日新聞は尾辻秀久さんの追悼演説をこう報じました。

胸腺がんで昨年12月に58歳で死去した民主党参院議員の山本孝史さんの哀悼演説が23日の参院本会議で行われ、尾辻秀久・自民党参院議員会長が演壇に立った。06年5月の参院本会議でがんを告白し、がん対策基本法成立の大きなきっかけを作った山本さん。「演説はすべての人の魂をゆさぶった」「命を削って立法者の責任を果たした」。演説で何度も声を詰まらせる尾辻氏の姿に、議場の与野党議員も目頭を押さえた。
 傍聴席には山本さんの写真を抱えた妻ゆきさん(56)の姿も。記者団に「命の政策は党派は関係ない。山本は『政治は想像力だ』といつも言っていました」と語った。

追悼演説の一部を紹介します。

バトンを渡しましたよ、たすきをつなぐようにしっかりと引き継いでください、そう言う山本先生の声が聞こえてまいります。
先生、今日は外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか。先生と、自殺対策推進基本法の推進の2文字を、自殺推進と読まれると困るから消してしまおうと話し合った日のことを懐かしく思い出しております。
あなたは参議院の誇りであります。社会保障の良心でした。
ここに、山本孝史先生が生前に残されました数多くの御業績と気骨あふれる気高き精神をしのび、謹んで御冥福をお祈りしながら、参議院議員一同を代表して、お別れの言葉といたします。

党派を超えて強い信頼に結ばれた山本孝史さんと尾辻秀久さん。二人の交遊は様々な形で報じられています。

朝日新聞「ニッポン人・脈・記」のシリーズ「3万人の命に」2009年12月22日)で取り上げました。

ゆきは、亡き夫を思った。「あなたの思いが生きている」
 夫は、山本孝史(やまもとたかし)。末期がんなのに酸素ボンベを引き、国会に通った民主党参院議員だ。薬害エイズ、被爆者、がん、そして自殺。「助かるはずの『命』が次々に失われていくのは政治の責任だ」と説いた。孝史が「命」にこだわった原点は、5歳のときの経験だ。三つ上の兄が、自宅前でトラックにひかれて死んだ。その後、家族の間では事故の話は封印してきたが、立命館大時代、交通遺児の手記を読み、号泣する。遺児を支える運動に飛び込み、1993年、政界に転じた。
 年間自殺者3万人に衝撃を受け、民主党内に対策検討チームをつくって代表に。2005年7月、参院委員会で全会一致の自殺対策決議にこぎつけた。
 その年の暮れ、がんが分かる。「あなたの一番やりたいことは」と医師に言われて死期を悟り、狙いを定める。自殺とがん対策の基本法づくりだ。
 翌06年の通常国会。与野党対決が続き、じりじり会期末が迫る。孝史には時間がない。5月に本会議でがんを告白して協力を求め、説得に歩いた。6月、自殺対策基本法が可決された。
 1年半後、孝史は58歳で逝く。きょう22日は、亡くなって丸2年。ゆきは、自殺遺児らが開く集会で孝史の思いを語る。

08年1月23日、参院本会議場に尾辻秀久(おつじひでひさ)(69)の声が響いた。「バトンを渡しましたよ、そういう山本先生の声が聞こえてまいります」「先生、外は雪です。ずいぶんやせておられましたから、寒くありませんか」
 孝史の追悼演説を買ってでたのである。自殺対策法の自民党側のとりまとめ役。厚生労働相のとき、孝史らが仕掛けた初の自殺問題の国会集会に出席、45分も遺族の訴えに耳を傾け、「胸がつまる思い」と語った。
 鹿児島出身の尾辻は、父が戦死し、20歳で母も失った。高校生の妹のため、防衛大を中退して働こうとしたが、「両親もおらんやつ」と差別に泣いた。
 いま、超党派の自殺対策をすすめる議員有志の会長をしている。「山本さんがいたから始めたが、3万人の自殺を放ってはおけない。誰かがやらなきゃ」

2013年5月26日日経新聞は、尾辻秀久さんのインタビュー記事を掲載しました。

与党の立場でがん対策基本法の成立に向けて奔走し、参院本会議で山本氏の追悼演説をした尾辻秀久参院議員が、法案成立までのドラマを振り返った。――与野党対立で協議が停滞していた「がん対策基本法案」は、山本氏のがん公表によって一気に局面が変わりました。
「06年5月の参院本会議で医療制度改革法案への質問に立った民主党の山本孝史氏は突然、がんを告白し、同党が提出したがん対策基本法案の早期成立を促した。私はその告白を議場で聞いていたが、衝撃的だった。自分の最大のプライバシーを国会でさらけ出したことに、政治家としての相当な覚悟を感じた
「がん対策基本法を巡っては当時、与野党で意見が対立しており、通常国会中の成立は厳しい状況だった。ところが、自らの死期が早まっても最後の法律を仕上げたいという山本氏の捨て身の演説は、対立状況にあった与野党議員を『超党派でやるしかない』という気持ちに一気に変えた。私も演説後、『自民にもいろんな意見があるけど、僕が党内をまとめるから頑張ろう』と声をかけたことを覚えている」
「国会での山本氏との議論はいつも真剣勝負だった。役人の答弁は許さなかったが、私が率直に自説を述べると、党の見解と違っても『私もそう思う』と同意してくれることがあった。揚げ足取りの質問は決してなく、党利党略とは全く違う次元で、非常に気持ちよく議論できた」
「議員同士が真摯な議論を尽くせば、党派を超えて納得を得ることは可能だ。特に参院では、党の政策よりも議員個人の信条を優先した議論をすべきだ。結果として国民からも参院の存在意義を認めてもらえる」
「国の根幹である憲法や税に関する議論こそ、政治家として命を削って仕事をすることが求められる。がん対策基本法に命を賭けた山本氏が我々に残した遺訓として受け継いでいきたい」

尾辻秀久さんは、文藝春秋スペシャル2011年秋号「がんを生きる」に寄稿し、山本孝史さんの思い出を綴っています。

 君の嫌いな文句でも、また言うぞ。なぜ、死んだんだ。

 思えば、不思議な縁であった。論敵として相まみえ、最後まで口角泡を飛ばしながら、一方で意気投合していた。

 私は生きている。生きている限り「バトンは渡した」と言った君との約束は守ろう。
 「がん」と「自殺」は君のライフワークだった。完成のために微力を尽くす。
 「がん対策基本法」と「自殺対策基本法」は君がいたから成立した。
 君が、自ら、がん患者であることを告白して、二つの法案の成立を訴えたあの壮絶な代表質問を忘れることはない。

 君のいない夏が暑い。


写真は、宮城県・松島の藤田喬平ガラス美術館にて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?