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ヒストリー⑦始まりの前に・2001年7月

いのちの政治家 山本孝史さん

現在の自殺対策が構築されていくヒストリーの中で、決して忘れることのできない人物がいます。

山本孝史さんです。

交通遺児育英会事務局長から日本新党の衆院議員となり、その後、民主党の参院議員に転じましたが、2007年12月、在職中にがんで亡くなりました。58歳の若さでした。

2001年7月、山本さんは参院大阪選挙区で当選します。その前年の00年6月の衆院選で落選していましたが、捲土重来を果たし、国会に戻ってきたのでした。

当選した山本さんに、あしなが育英会の幹部の一人が電話をかけ、「自死遺児が心に背負っている問題が極めて重い。職員もどう対応していいのか心を痛めている」と打ち明けました。

山本さんが「自殺対策は厚生労働省がうつ病対策として取り組んでいます」と答えると、幹部は「そこが違う。自殺は社会問題として取り組まないと絶対に解決しない」と強い言葉で指摘しました。

これを機に、山本さんは自殺対策の政策研究を始めます。

 ところが、調べてみると、自殺対策は政策として極めて難物であることがわかりました。

まず、自殺対策を社会問題ととらえる認識が社会に広がっていませんでした。そして、何より「当事者」の不在です。

自殺を考える人たちは、極限まで追い詰められており、政策実現を求める声をあげることは困難です。自死遺族たちは「隠したい」「忘れたい」と考え、前面には出ようとしません。陳情を受けて始まる通常の法整備とはまるで状況が違っていました。

こうした「票にならない」制度づくりに、議会が同意してくれるのか。山本さんは途方に暮れてしまいました。でも、何とかしなければ。さて、どうするー。 
                         
=続く 次回は、⑧2001年10月、12月編「実現した自死遺児たちと首相の面会」です。

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